Scene #16 あなた、そして私

 一貫していたと言えば、こんな事があった。


 一度だけ、本命の男とひどい喧嘩をした夜、泣きながら彼に連絡したことがある。原因は些細な事で、彼の存在が、彼との関係が知れた等という事ではない。


 夜中の一時か二時頃、あなたは彼に電話して、辛いことがあったの、会わなくていいから、話を聞いて、と頼んだ。会うつもりはなかった。本命の男の口から放たれた激しい言葉が、普段は身を潜めている罪悪感を顕にしていた。


 本命の男の態度に怒りを覚えたが、安泰だと思っていた関係性に、小さくはないクラックが入った事への不安の方がずっと大きく、そんな状態で彼を抱く度胸はなかった。


 だが、そういうあなたに対して彼は冷たかった。今日だけでいいの、聞いてくれるだけでいいの、涙声で訴えたが、嫌だよそんなの、そういうのが得意な別の奴に頼みなよ、僕の価値はそういう所にあるわけじゃない。そう言って彼は躊躇なく電話を切った。


 結局彼との関係は、出会ってから約二年間も続くことになった。月に二三回、ホテル代や飲食代など毎回一万円を越える出費は決して安いものではなかったが、あなたは彼と会い続けた。本命の男から正式なプロポーズを受けて以降もそれは変わらず、終わりの予感が具体的に迫ってきたのは、実に結婚式を来月に控えた頃だった。


 最後の夜、頭の片隅に、来月自分の着ることになるウェディングドレスがちらちらしていた。何も告げずに終わりにすることも考えたのだ。彼とあなたとを繋ぐものは十一桁の電話番号だけで、その電子的な接続経路を断つだけで、この関係はひとつの波も立てず静かに終わりを迎えるだろう。


 だが、そんなのは許せない。


 あなたとの関係が終わっても、多分彼は何のダメージも受けない。むしろ、波風立てず関係の終わった事に安心すらするかもしれない。そして彼は一週間も経たずにあなたを忘れるのだ。他の女の所に行って、「試食をどうぞ」と突然唇を奪うに違いない。それが許せない。


 いつものホテルでいつも以上にあなたは乱れた。彼のぴんと張った皮膚を剥ぐように爪を立てた。肉体的な満足が、なし崩し的に苛立ちの温度を下げ、あなたはまるで人工知能による自動音声のように、もう会えない、と言った。ベッドの上、薄暗闇の中では細い滝のように見える彼の背中にもう一度、もう会えない、と言った。


 彼はさすがに振り返り、なんで? と聞いた。結婚するから。あなたが端的に理由を告げると、なぜか彼は微笑んで、本当にそう感じているのが分かる穏やかな表情で、そっか、おめでとう、よかったねと言った。


 言い終わらぬ内に手が一人でにベッドサイドを弄り、指先に触れた携帯電話を掴んで彼に投げつけていた。電話はベッドの上でバウンドして彼の向こう側に消えた。


 急激にふくらんだ涙の予感、いや、実際に自分の眼球を覆い始めた涙を、あなたは醒めた態度で拒絶した。悔しさではなかった。ただ、理屈として、通らなかった。泣く必要などなく、その権利もなかった。


 あなたには負い目があった。彼と自分は、共犯なのだ。


 価値のバランスが、釣り合っていた。結婚は、この均衡を崩すものとして充分なインパクトを持っている。バランスの乱れた関係は、結局、互いの価値を変容させる。そして、価値が変われば関係もまた変わらざるを得ないのだ。


 僕に会う必要がなくなったらすぐに言ってね。彼は最初から、そう言っていたではないか。


 彼の考えの一貫性と、結婚をして幸せになるのだという鼻息荒い感情が絡みあい、自分の喉を螺旋状に締め付ける。うまく言葉が出ない。彼は黙って俯くあなたの傍まで来て、乳房に触れないようにするという嫌になるほど細かい気遣いを持って、あなたの肩を抱いた。


 彼からは強い祝福が感じられた。私は彼に殺されるのかもしれない。脳内で何かが連続してスパークしている。おかしくなりそうだ。自分が反転し天井から地面を見上げているような感覚。共犯? 何が共犯なものか。あなたは最後の夜に、自分こそが犯された側なのだと気付く。彼は自らの哲学に貫かれた身体であなたを貫いた。あなたは彼の哲学によって犯され、汚され、壊されたのだ。


 結局あなたはその日を最後に彼との関係を終わらせた。だが、その影は長くあなたを苦しめることになった。三十代の半ばで髪の薄くなり始めた自分の夫を見る度に、今更になって、強烈な罪悪感が湧き上がり、出口のないまま身体を何周かした後、嫌悪感となって吐き出された。


 あなたは幸せにならなければならなかった。彼との関係を棄ててまで手に入れたこの生活が、彼の価値を越えていなければ理屈が通らない。価値の差額が、利益となるのだ。


 その後あなたがどんな人生を歩んだかに私は興味を引かれない。だが、彼がかつて古着屋で会った女、最初の「あなた」から植え付けられたこの哲学が、こうして彼を通過した女たちに影響を与え、伝染し、あるいは受け継がれていく作用については注目せざるを得ない。


 なぜなら、彼の考え方や生き方に共感を示す――彼にとってそれは彼とのセックスを求めることととほぼ同義である――人間が増えれば増えるほど、彼の方もまた自分の考え方生き方に固執する事になり、それが結果的に彼を見えない檻の中へと誘ったのだという風に考えられるからだ。


 あなたとの関係が終わった後も、彼は何人もの「あなた」達と価値交換を繰り返した。それは何年間も続いた。その中で彼の持つ価値もまた変容を免れなかった。そして、変容の放物線は明らかに、価値の総量の減少を示していたのである。単純な話だ。身体は老いていく。容貌は、破壊されていく。


 これに彼が気付いた時、自らが頼り武器とした価値観は、彼を捕える堅牢な檻となった。その結果、彼は自らの容貌から自由になることを望むようになった。

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