Scene #14 私、そしてあなた

 柴原の家、畳張りの居間を映す画面の外側から、光の輪が現れる。


 彼が座っている、壁と壁が交わるところ、部屋の角を中心にその光は縮小する。線香花火の終わり、明るい炎が少しずつ暗く小さくなっていくように、読者の視界は明度を失う。


 本来であれば今までのように、ライトの完全に消える前に次の光は生まれ出て、場面転換が行われるはずだった。あるいは少し点灯が遅れたのだとしても、次に見るべきスポットは明確に提示され、読者の意識は誘導された。


 だが、今回は様子が違う。何も起こらない。何も提示されない。


 読者はやがて気付くだろう。視界全体が弱々しく明滅していることに。視界全体? そう、既に我々はそのライトの中に居たのだ。小説を構成するスポットライトの一つ。いまいる場所。ここ。移動するまでもない、これまでの中でも最も近しい場所。


 それは常に傍にあった。


 わたし。


 「ここ」は私の中なのだ。


 私はこの弱々しい明滅が、かつて父親が撮影した8ミリフィルムの映像であることを知っている。その一部分、白いふすまに投影された映像の一部をクローズアップしたもの。


 テレビ画面に額を押し付けるくらいに近づけば映像の全容は知れない。見えるのは映像の一部を構成するドット角の何粒かだけ。それと同じことがいま、この物語に起こっている。


 読者は戸惑っている。私には責任がある。物語を進める責任が。心が痛い。背骨を貫くような不安が押し寄せる。


 仕方がないのだ。


 私は移動する。後ろに後ろに。白くぼやけた視界が徐々に像を結んでいく。それは人間の輪郭を獲得する。私は目を逸らせない。


 映っているのは三歳か四歳か、まだ幼い子どもだ。こちらに笑顔を向け、何かを話している。その映像には音がない。父親の持っていたのは音声のないサイレント方式のカメラだった。


 これを撮っているのは父親で、映っているあの幼子は、つまり、私である。


 幼い私が無邪気に笑っている。まだ何も知らなかった、まだ何も失っていなかった私。


 ついに私は顔を背ける。


 私の顔が視界から消え、「かげおくり」のように、暗闇のなかにぼんやりとした白い影を残す。それはゆっくりと消えていく。


 言うまでもなく、私の視界が読者の視界である。物語の最初から、そうだった。小説というのは一方通行の媒体である。物語の視点や、登場人物を、読者がコントロールすることはできない。語り手である私は、今すぐ顔を戻して、映像の続きを見るべきなのかもしれない。


 しかしできない。


 少なくとも、まだ、できない。


 私はこの物語に責任がある。いずれにせよ次の行き先を探す必要がある。


 振り返って別の光を探す。


 それは見つかる。


 この放送事故のような展開に、突然現れた「私」という語り手の存在に、読者は戸惑いを感じるだろう。


 だが私はそれを振り切って新たなスポットライトに向かって進む。


 全速力で。


 速度と距離は時間を表す。高速で移動することで視界は円形に歪む。光が丸く見えるのはそのせいなのかもしれない。


 小さな点に過ぎなかった光はぐんぐん近づき、巨大化して、やがて物語の視界は新幹線がトンネルに入るように光の中に突入する。勢い良く入り込んだせいで風景が早送りのように過ぎていく。急ブレーキをかける。スピードは急激に失われていく。曖昧だった周囲の景色が徐々に認識できるようになる。水飴のようにぐにゃりと伸びていた男女の顔が正常な形を取り戻す、橋の欄干の下。雨が降っている。


 視界が完全に停止すると、ライトの丸い輪郭は静かに拡大し、やがて画面の外に消える。


 十人ほどの男女が集まって、バーベキューをしている。


 既に長い時間をここで過ごしているのだろう、酒瓶が何本も地面に転がっている。コンロの網の上には、焦げた肉の塊だけがある。男女は酒を飲み、タバコを吸い、笑い合っている。クーラーボックスの中を弄っているタンクトップ姿の男、その肩から背中にかけて宇宙を模した柄の刺青がある。乾電池式のCDプレーヤーから大音量で音楽が流れている。身体の大きな男が、落ちていた長い枝を拾って舞踏する。狂言師を真似てびょうびょうびょうびょうと吠え、観客の如くそれを見ていた数人が爆笑する。


 あなたも笑っている。


 その笑いが収まった時、あなたは背後から腕を掴まれた。冷たい、何かを乞うような触り方のせいで、驚きはなかった。振り返ると虚ろな目をした男がいた。


 彼はそのままあなたの手を握ると、「ちょっと来て」と引っ張った。あなたをこのバーベキューに誘った友人は既に酔って、他の男たちと楽しそうに騒いでいる。「なに」あなたは今更ながらに驚きを感じつつ、だが抵抗せず立ち上がる。ジーンズの尻を軽く叩くと、細かな石がパラパラと落ちる。


 彼はあなたを集団から少し離れた場所に連れて行く。橋から外れる直前、雨粒が微かに入り込んでくる辺りで立ち止まると、振り返り、当たり前のようにあなたの唇を奪う。その冷たい唇が触れた後で、あなたは彼の青白い、だが整った顔が自分に近づく情景を思い出し、そして受け入れる。


 あなたは彼を受け入れた。初めて会った人間と、それも、会ってから一言二言しか言葉を交わさない相手とこんな風になる事はなかった。そもそも、あなたには結婚を約束した恋人が居た。口吻の最中、彼は目を閉じていた。あなたは薄く目を開けて、自分の唇を吸う彼の顔を見ていた。


 先ほどまでは何かに怯えるような疑い深い顔をしていたのに、今はまるで母親の乳房を咥える赤ん坊のように、安心しきった表情をしている。


 それを見て、自分の何かが水分を含んだのが分かった。それは昂ぶりだった。彼は自分よりも二つか三つ年下のはずだった。口数が少ないわけではないのに、その状況に馴染む事をどこか拒絶しているような影があると感じていた。女性的な顔立ちだが、どちらかと言えば近づき難い、気軽に話しかけられないような雰囲気があった。


 だからこそ、彼の選んだのが自分だという事に喜びを覚えた。今日集まった女の子たちは総じてレベルが高い。アパレル関係、美容師、エステティシャンなど、見た目にも当たり前に気を遣う業界の人間が揃っているし、皆美人だ。だが、その中で彼はあなたを選んだ。彼の、今にも眠りだすのではないかと思うような表情に、あなたは欲望を覚えた。思わず彼の腰に手を回して身体を引き寄せ、唇を割って舌を差し込んだ。


 彼は途端に饒舌になった。


 何度か口吻をし、抱きしめ合った後、彼は今までの態度が嘘のようにあなたに笑いかけた。好きな音楽や作家の話を、子犬のように無邪気な様子で語って聞かせた。時々あなたの首元に鼻先を埋めて匂いをかいで、それについては何も触れずに話を続けた。彼のそんな本性を自分以外の女の子たちは知らないということに優越感を覚えた。それは所有欲の発生を意味していたが、そのことに気付き、危機感を覚えるには、あなたもまた若過ぎたのだ。


 二週間ほど経って、あなたは彼と二人で会い、ホテルに行った。彼はあなたを裸にすると、ベッドに寝かせ、その身体をぼんやりした目で見下ろした。そして、あなたの細い腰にすがるように身体を重ねると、全身を丁寧に舐めた。


 性的な興奮とはまた違うのかもしれない。やはりあの感覚だ。自分の何かが急に水分を含んだような感じ。この昂りは最終的にセックスに通じるとしても、その本質は性器同士の摩擦そのもの、あるいはそれに伴う肉体的な快感への欲求でないような気がする。


 彼の肌は白く、きめ細かく、すべすべしていた。一方で、太ももから脛にかけては多くの毛が生えており、そういう部分には無頓着な様子を感じさせる。あなたは自分の昂ぶりの内容物を少し理解する。これはある種の残酷性なのだ。


 彼という美しい、だがそれに無自覚な様子の存在を、支配したい。汚したい。壊したい。そのために自分は彼を大切にするだろう。


 そういうあなたの欲求に、彼は絶妙な対応で応えた。赤ん坊のように迷いない甘えを向けてくると思えば、こういう行為に慣れているに違いない舌使い指使いを見せ、あなたの嫉妬を誘った。入れていい、耳元でそう聞かれた時、駄目、と言えばこの人はそれに従うはずだという確信があった。傷つく事もなく、憎く思うこともなく、別の女を探しに行くだけだろう。


 彼がどれだけ直接的な態度であなたを求めても、彼があなたを好きなわけではないことは分かっていた。そして自分も多分、彼を恋愛的な意味で好きになることはない。付き合ってる人がいるんだけど、とあなたはうんざりしながら言った。こんな下らない話を彼に聞かせなければ安心できない自分が恥ずかしかった。


 その人とは多分、そのうち結婚することになると思うんだけど、それでもよければ、いいよ。彼は無表情に頷いて、あなたを控えめに貫いた。

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