Scene #13 透明になった男

 今更になって、体調不良を柴原に告げた自分を悔いた。まだ会って半日の他人なのだ。新たな住処の提供者として、かつ、透明な身体では不都合な諸々を代行する者として、彼は柴原と強権的な関係を結ぶ必要があった。少なくとも彼はそう考えていた。


 透明人間であることは、思いの外、弱みにもなる。彼はその事を既に学んでいたが、柴原に学ばさせる訳にはいかないのだ。それなのになぜ、子どもが保護者に甘えるが如くな言葉を吐いたのか。言うまでもなくこちらの体調不良は柴原の立場を優位にする。本来、ひた隠しにして然るべき事実を、なぜ自ら開示してみせたのか。いくら老人とは言え未だ仕事を持ち一人で生活している人間だ、全力で襲われたら組み敷かれる可能性もある。そもそもこの部屋に初めて入った時彼が部屋の角を背にして座ったのも、半ば無意識ながら、背後から包丁で刺されるような事態を避けるためだった。


 そんな相手に自分は今、自らの弱っていることを暴露したのだ。


 しかし、柴原は彼を積極的に受け入れているように見える。事実柴原は、宙に浮き、ひとりでに上下運動を繰り返すグラスにも、特別な反応を見せなかった。柴原は彼の存在を全く疑っていなかった。少なくとも、彼にはそう感じられた。


 彼は横目でその表情を伺って、ゾッとした。


 柴原の顔には、体調不良を訴える彼を純粋に心配する、まさに親のような相が浮かんでいたからだ。


 彼は咳払いして、柴原から目を逸らした。思い出したようにグラスをちゃぶ台に置いて、手を揉んだ。突然自分の生活に押し入ってきた人間、姿が見えないという理不尽をまとった人間、それこそいつ包丁で刺殺されるかもしれないような抜き差しならぬ相手が体調不良を訴えたとして、それを何らかの罠だと疑うこともせず素直に受け入れ、だけならず心配までして見せるなどという事が果たして可能なのだろうか。


 買い物に行こうと思うですが、と柴原は言った。


「なに?」彼は殆ど声にならぬ声で聞いた。


「買い物です、ここで暮らすならいろいろ必要でしょうが。薬局にも寄ってこれるが、具合が悪いんでしょ、風邪薬、それとも胃腸のやつがいいのかね」


 ついに彼は黙った。声が出なかった。あるいは、言うべき言葉を失った。視線を畳の上に落とし、そこに溜まった金粉を指の先でこそいだ。柴原の顔を、その目鼻立ちの不揃いによってではなく、浮かんだ表情によってグロテスクだと感じた。そのグロテスクさは柴原の顔から言葉に飛び移る。先ほど彼の精神で発芽した不安定が、肉体的な不調へとスムーズな変容を遂げたのと同じように。


「言ってもらったほうが多分いいんじゃねえかと思うんです、いや、薬という訳ではなくて、なんでもね、不細工な爺でも買い物はできますで、日用品はいろいろと買ってくるつもりですよ。あんた、うんこしょんべんはするって言ってたでしょう、風呂にだって入るってね、まずはタオルだなあ。タオルを買ってくるですよ、綺麗なやつをね、あとは消臭剤、今はほら、いろいろいいやつが出とるでしょう、ね、強力なやつ、うちは汲み取り式便所ですから、薬は入れとるけど臭いでしょう、そらすぐそこにタンクがあるわけだから当然だが、その分しっかり臭いのを取ってくれるやつをね、選んできます」


 それでも彼が黙っていると、柴原は困ったような笑顔を浮かべて、じゃあ、行ってくるですが、と立ち上がった。


 彼はほっとしたような、同時に、何かを釈明したくなるような気持ちになったが、結局何を言っていいのか分からず、「どれくらいで戻るんだ?」と、風呂に出掛ける時にかけたのと同じ言葉を、投げ遣りに呟いただけだった。


 柴原は目を細め、彼の居る辺りに視線を投げると、壁掛けの時計を見上げ、「買うものも多いで、昼は過ぎてしまうかもしれんです」と白髪頭を乱暴に掻いた。拭き残しか、あるいは汗か、風呂あがりの柴原の頭から細かな水滴が散った。彼の肉体はそんな些細な変化にすら強張りを見せた。


「それで、どうでしょう、欲しいもんはありませんか。まあ、今すぐ言わなくたっていいんだが、月曜から土曜までは仕事があるもんで、いつでも好きな時に買いにいけるわけでねえもんで、今日を逃せば一週間待たねばならんで、消臭剤は買ってくるから臭いはよくなるがねえ」


「今のところは思いつかない。大丈夫だ」堪らず彼は言った。


「けれども、年寄りの部屋はつまらんでしょう。テレビもまともに映らんし。本でも買ってくるかね、週刊誌がいいだろうね、若い人が読むようなやつ」


「ほんとにいいよ」彼は言った。「何もいらない。食い物だけ用意してくれれば、それでいい」ゆっくりと、諭すように言った。息が苦しかった。


 柴原が食い物の好みなどについてまた質問を投げてきそうだったので、あんたと同じものでいいと言って会話を終わらせた。柴原は何か言いたそうだったが、食い物の話題に自身が空腹を感じたのかもしれない、腹を押さえ、再度壁掛け時計をちらりと見やると、頷いて居間を出て行った。玄関先でサンダルのソールがコンクリを弾き、そして扉が開閉される音が聞こえる。


 柴原が出て行ってしまうと、周囲からは音が消滅した。


 風だろうか、カーテンと窓によって遮断された室外で、殆ど聞き取れない程のノイズが舞っている気はする。だが、それだけだ。まるで空気も含めた家全体がゼラチンで固められたような、柔らかくて固い息苦しさの中に彼は取り残されていた。


 彼はそれでも、安堵した。先ほど集会所の前で、坂を降りてゆく柴原を追おうとするのを制する何かを感じた。柴原と時間を過ごすことに対する違和感、妙な引っ掛かりのようなもの。それは今や肉体的な不調として彼に警笛を鳴らしていた。彼が居ない事に気付いて部屋中を探し回り、結果玄関先に呆然と立ち尽くしていた柴原、体調不良を訴える彼に水を手渡し本気で心配する表情を浮かべる柴原、彼が透明であることに疑問すら持たない柴原。


 どう考えても、柴原は、何かがおかしい。


 だが一方で、彼が居場所を探す上で最も難易度の高いと思われた、透明人間である彼の存在を認めさせ、共に生活することを了解させるという事を、柴原はあっけなくやってのけた。彼というよりむしろ柴原の方が、彼との生活を望んでいるように感じられる。


 無論全てを信用したわけではない。だが、一人で買い物に行くと言われて反射的に不安を感じないほどには、彼の疑いは影を薄くしていた。警官を連れて戻ってくるような事はない。そしてこの事は、明らかに、奇跡的な幸運であったのだ。彼は社会という巨大な箱の中を悪戯にまさぐって、奇跡的に、殆ど入っていない当たりクジを引きあてた。


 柴原は彼との生活に浮き足立っているようにすら見える。柴原は彼の為に買い物に行った。彼の為に便所の芳香剤を買いに。昼飯を買いに。彼は目を閉じ後頭部を沈ませるようにして首を伸ばし、左右に振った。ざらついた砂壁にもたれ、薄そうなベニア天井を見上げた。肉体を回遊していた不調がじんわりと溶け、消えていくのが感じられた。考えることは無限にある。だが事実、既に物事は起こり、こうして新たな生活は始まったのだ。

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