Scene #12 透明になった男

 ひとり微笑む老人を置き去りに、ライトは移動し、集会所を出る。


 画面が暴力的なまでの緑色に染まる。


 そこには誰の姿もない。だが、彼がいる。


 ……


 待機し始めて十分後、真っ赤に茹で上がった老人が、集会所の外に現れた。


 鼻歌を歌いながら戸を閉め、少しふらついた足取りで坂を降り始めたその後ろ姿を、彼は集会所前の草むらから眺めていた。


 柴原に不審な点はなかった。


 今朝、風呂に行くと柴原が家を出て行った時、彼の事を誰かに話すのではないかと後をつけて来たが、どうやら杞憂だったらしい。そもそも、その「誰か」が存在しないのかもしれない。


 彼は辺りを見回した。ここらは山中と言って差し支えない、視界の九割以上を非人工物が埋める空間だ。集会所以外に見えるのは密度の濃い茂みやその背景としての林、そして空。先ほど登ってきたのも獣道と呼ぶべき窪みに過ぎず、柴原が言うにはここをさらに登った先に四五軒の集落があるとの事だが、本当に人が住んでいるのかと疑ってしまう。


 柴原が仮に彼の事を話そうと思っても、そもそも人間が居なければ、叶わない。老人は一人、坂を降りていく。


 徐々に小さくなる柴原の背中を目の端に、まだ控えめな初夏の日光に浮かぶ緑のグラデーションの中で深く息を吸い込んだ。咽るような青臭さが胸を満たす。


 五感は生きている。失われたのは容貌だけだ。


 両手を腰に当てて仰け反るように伸び、空に向かって息を吐く。昨晩は殆ど眠れなかった。睡眠不足で重い身体に、少し冷た過ぎるくらいの空気が行き渡る。坂の下を見た。柴原の姿はもうなかった。坂は五十メートルほど先で左に迂回しており、家は見えない。


 彼は慌てて足を踏み出しかけた。だが、何故かそれを制するような感覚があった。彼は立ち尽くした。虫の声と木々のざわめきが、火事場の野次馬のように彼を取り囲んだ。彼はきつく目を閉じた。瞼の裏側、透けて見える太陽光が、発光する赤い粒となって動きまわった。彼は俯いてから、そっと目を開けた。十秒ほどその風景を見つめ、溜息をつくと、ゆっくりと坂を降りていった。


 老人はなぜか、玄関前に立っていた。


 彼は足を早めて近づいた。ぬかるんだ地面が液体的な音をたて、柴原の頭が動いた。そんなところで何をしてるんだ。五十センチほどの距離で小さく呟くと、焦点の曖昧だった柴原の目が大きく見開かれ、ほぼ同時に、片頬が持ち上がった歪んだ笑みを作り、そのままの表情で首を傾げると、壊れた仕掛け人形のようにカクカクと揺れる。


「出ていっちまったかと思いました」


 録音した声を再生するように柴原は言った。首を傾げ、焦点の合わぬどろりとした目を宙に投げ、引きつった笑いを浮かべている。


 柴原は強く彼を責めていた。そして安堵していた。それが全身から感じられた。


「あんた見えねえから……私、こうして手を探ってね」老人は両手を持ち上げて、遠くのものを引き寄せるような真似をした。海に投げ込んだ網を引く漁師にも見える。彼は柴原が家の中で実際にそうする場面を想像することができた。明かりの失われた暗闇の中で探しものをするのと同じだ。実際彼はこのような日中にあっても姿の見えない無くし物である。


 昨晩、そして今朝、老人が彼のいる場所を大袈裟に迂回して移動するのを何度も見ていた。柴原は彼が居ないことにどこで気付いたのだろう。風呂から戻ってきて玄関を開けた瞬間に気付いたような気もする。老人の、どこか精神病者を思わせる危うい表情がそう感じさせる。


「悪かったよ、ちょっと散歩してたんだ」


 彼はおどけるような口調で言ったつもりだったが、その声は固く細ぼって、少し掠れていた。戸惑いが声に現れてしまっていた。しっ、と柴原は人差し指を立てて口元に当て、左右を見回すような素振りをした。外で喋ったら駄目です、誰が聞いてるかもしれねえ。


「大丈夫だよ、誰にも会わなかったし。あそこに住んでる婆さんも寝たきりなんだろ?」


 駄目です、婆さんは確かに寝たきりだけども、坂の上には何人か住んでるんです、農道に出るにはここを通りかかる、あんたの声を聞かれたら困るでしょうが。


「それはそうだけど、俺の声が聞かれなくたって、あんたがそうやって家の前でぼんやり立ってたら、それだけで変だろ」


 とにかく家に入って下さい、私が扉を開けますから、私の横をすり抜けて、私より前に、家に上がって下さい、そうすれば自然に見えるでしょう。


 彼にはなぜか、柴原の声が自分の内側より聞こえるように感じられた。反対に自分から発せられる声は変に他人じみている。彼の絶対的優位で始まったはずのこの関係が、軋み始めていた。


 柴原に従い無言で台所に上がった。急激な光の縮小。彼は目眩を覚えた。地震の時のように、視界が不自然な動き方で揺れる。慣れない太陽光に長く晒されたからだろう、熱を持った皮膚の表面で、未だ細胞が焼け死んでいるのを感じた。あるいはあの時着ていたまま透過した部屋着の生地が燃えたのかもしれない。


 彼はふらつきながら居間に移動し、既に定位置の雰囲気を醸す部屋の右隅、輝く金粉が壁から離れ落ち、畳の上に薄く層を作っている部屋の角に、倒れこむようにして座った。気分が悪い。


「大丈夫ですか、転んだんですか」大きな音に驚いたのだろう、台所から老人が顔だけ差し込んで聞く。先ほどまでの病的な雰囲気は既に消えている。


 大丈夫、だけど、ちょっと体調が悪いのかもしれない、水が欲しい。


 老人はグラスに水を汲んで持ってきた。いつの間にか茶色いポロシャツに灰色のスラックスという姿になっている。ちゃぶ台の上に置かれたグラスに手を伸ばし、注意深く掴んだ。生ぬるい。水道水? 確かにこんな生活を送る老人がミネラルウォータ―を常備していると考える方がおかしいのかもしれない。だが、汲み取り式便所から数メートルの場所にある蛇口から汲んだ水が清潔だとは思えなかった。水の中を細かな埃のようなものが浮遊しているのが見える。


 彼は口内に溢れた冷たい唾液を飲み込んだ。グラスをゆっくりと口元に移動させ、唇に当て、湿らす程度に口に含む。老人の糞の浮いた水。タンクに溜まった大小便を希釈した水。途端に頭に浮かぶ。無味無臭だが、だからこそ嫌なイメージは何に邪魔されることなく継続し、定着する。


 透明になって以降も彼の感覚、感受性に大きな変化はないようだ。口をゆすぎ、飲み込まずにグラスの中に吐き出す。量が少ないせいでそれは殆ど口内の粘膜に吸収されてしまったようだった。別に便所のタンクに溜まった水を飲んだわけじゃない。そんなことは分かっているのだ。だが吐き気がする。いよいよ気分が悪い。


 思いながら彼は、例えば緊張の晴れ舞台、皆の前を一人で行進せねばならぬような時に同じ側の手足が一緒に動いてしまうのと同様の感覚で、自己制御の方法をど忘れしてしまったように感じる。


 どうやって自分を操縦すればいいのだろう。老人が自分を待っていたという事に対する驚きと不可解が、精神的な不安定をもたらした。その不安定から逃れるために彼は柴原に頼った。結果、今度はあの細かな埃が浮いた汚い水を触媒にして、不安定は肉体へと移行する。


 精神的な不調は今、彼の肉体にまで及び、さらなる拡大と継続を予感させている。その動き、彼の肉体範囲内で起こったそれらの動きが、彼の与り知らぬところで進められるのだとしたら、彼を制御し、保っているものは、一体何で、誰なのだろう。

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