Scene #11 老人

 あの人と話したのは、自分とあの人との、これからの生活についてだ。


 自分の脳内を思い浮かべた。どこかに転がった、あの人との話の記憶を探った。それはなかなかに大変な作業だった。脳内は、何年も放置された屋根裏部屋のような有り様だった。


 脳内の老人は、作業服に加え、防塵マスクと、手袋と、長靴を身につけ、埃の積もった脳の中を掃除していった。長い棒きれを使って、蜘蛛の巣を取り除く。気を抜くと、掃除自体が目的だと錯覚してしまう。思考する事に慣れていないせいだろう。意識は目の前の出来事に占領され、その景色は時間経過と共に更新され続ける。


 老人はまず、今朝自分が目を覚まして最初にとった行動を思い出せなかった。溜息をついた。外見だけではない、自分は、中身の方も醜く不潔なのだ。いや、外見より尚、内側はなおひどい。そう思った。


 風呂に入り、洗濯した衣服を身につければ、外見だけは清潔な雰囲気を保つことができる。パリっとした服装で、顔形の不味さは多少とも軽減されるだろう。だが、中身はどうだ。この何十年か、いや、生まれて七十年近くの間、自分は何度思考を洗い、整えた事があっただろうか。


 老人が彼を「あの人」と呼ぶのは、彼が柴原老人の名を聞いたのに対し、柴原老人は彼の名を聞かず、彼もまた、それをわざわざ告げようとしなかったからである。彼と老人の時間は、生活は文字通り、二人称で事足りるものだった。


 さておき老人は思考するよう努めた。再度、長い棒きれを持って、記憶の中を彷徨い歩いた。


 いつの間にか、湯は沸いていた。


 老人は立ち上がり、下着を脱ぐと、扉の外に投げた。湯はいつもよりも熱く、貧弱な足先に、鋭い刺激を与えた。それは見慣れた風景に、一瞬の電流が流れたような刺激であった。そうだ。


 老人は喜びを感じた。覚えているぞ。今朝あの人が何を言ったのか、私は覚えている。


「しばらくの間、ここに住まわせてほしいんだよ」


 熱い湯の中に肩まで浸かった時、反射作用だろう、近い過去、自分が釜茹でにされるのを想像したことを思い出した。地獄の風景、殺されるために行列に並ぶ亡者の一人となった。針の山、鬼の形相、巨大な金棒、側溝の中で、そう、側溝の中で。老人は側溝の中で、死は一瞬でないと悟ったのだ。小便を漏らした。そしてあの人に救われた。


 自分を爺さんの家に連れて行け、騒ぎ立てず、静かに。


 それがあの人の、老人に対する最初の要求であった。


 あの時老人は負荷を感じた。自分の家を見られることに強い抵抗を感じた。恥ずかしい、と思った。あのボロ屋は、客を招いていいような家ではない。暗くて、じめじめした、不潔な場所だ。「いや、それはできねえです」言った瞬間に胸ぐらを掴まれ、引き上げられた。


 奇妙な光景であった。自分は暗闇に浮かんでいた。自分と、遠くにぽつぽつと浮かんでいる街の灯との間を遮るものは何もなく、それなのにすぐ傍に、強烈な生の息吹を感じるのだ。


 「あの中に戻りたいのか」声は目の前から発生した。音声だけではなかった。田畑から放たれるむっとするような草木の臭いとは別に、微かな口臭を感じた。体臭かもしれない。「こんなに暗くちゃ、誰かが通っても気付かない。今度こそ、間違いなく、死ぬと思うけど」老人はそこに、確かに人間が居るのだと理解した。どんな方法で姿を見えなくしているのか、分かるはずもない。


 怖くはなかった。ただ、分からなかった。だが、分からないという感覚は、何より慣れ親しんだ感覚でもあった。慣れ親しんだものは、怖くはない。老人が黙っていると、「透明人間だぞ、正真正銘の」と声がした。その声から、怯えを感じた。相手のほうが、何かを怖がっている気がする。


 工場で働く若者たちは、手に収まる小さな携帯電話で、車を購入したりする。老人にはついていけない世界だ。科学は発達し、次々と新しい商品が売りだされる。人間を透明にする技術が研究され、こうして実現し、自分の知らない所で実用化されていたとしても、何の不思議もない。透明な服を着るのか、薬を飲むのか、手術でもするのか、方法は分からないが、それは、携帯電話で買い物をする方法が分からないのと、同じだった。


「はあ、それはいいんだが、それよりも」そう、そんな理解不能なことより、この人を自分の家に招き入れねばならない事の方がずっと恐ろしかった。


 ……


 老人は湯の中でじっと目を閉じ、全身に汗を掻きながら考えた。だからこそ、あんな風に酒を飲んだ。自分の住処を見せる恥ずかしさ、そこに入るあの人への申し訳なさによって、自分は平静を保つ事ができなくなったのだ。


 だから酒を飲んだ。老人はそう考えたが、実際には、珍しい来客に舞い上がり、どう対応すればよいか分からず、客には酒を出すものだという安直な考えから、家にあった唯一の焼酎を持ち出したのだった。


 実際に家を見せた時点で、部屋を見せた時点で、あの人がそれに対して特別な感想を述べず、当たり前に入ってきた――もっとも、その姿、表情は見えないのだが、老人にはそう感じられた――時点で、老人のあの人に対する印象は、むしろ共犯者に感じるそれに近かった。精一杯もてなそうと思った。だが、焼酎を酌み交わすこと以外に、どうすればいいのか分からなかった。


 楽しい夜だった。


 浴槽の中で目を閉じたまま、限界が近づく皮膚の熱さに耐えながら、老人は微笑んだ。久々の酒で酔いは早かった。何を話したのか殆ど思い出せない。だが、楽しい夜であった。


 今朝、目覚めた時にもあの人は部屋に居た。姿が見えないので、一瞬、出て行ってしまったのかと考えた。鳥肌が立つほどの悲しみが沸き立ち、「起きたか」と部屋の隅から聞こえたあの人の声に、安堵した。「はい、おはようございます」と言った。


 あの人は昨晩、あの農道で会った時よりも随分落ち着いた口調で、この部屋にしばらく住むこと、毎日の食事を用意してほしいこと、家の中での会話はいいが、外に聞こえるような大声は出さないこと、外部に自分の存在を気取られないようにすること、などを老人に告げた。なぜわざわざこんな家を選ぶのか老人には分からなかったが、無論、文句はなかった。


 老人は微笑んで、全てにはっきりと同意した。しばらく身を隠す必要があるんだ、というあの人の言葉に、老人は笑って答えた。そんな、もう身は隠れているじゃねえですか、あんた、透明なんだ。


 あんな風に自然に笑いが訪れたのは何年振りの事か。皺の寄った固い頬が微笑みを作る時、強ばった顔が柔らかくなった気がした。老人の冗談にあの人が鼻で笑ったのが聞こえた。


「まあそうなんだけど、これはこれで不便なとこもあるんだ」


 老人は愉快な気持ちを味わうように俯いた。これはこれで不便な事もある、とあの人は言った。それが具体的に何を指すのか、老人には分からない。食事を用意しろとのことだが、姿が見えないのだから、コンビニでもスーパーでも行って、売場から何だってかっぱらって食べればいいのにと思うが、そういう事でもないらしい。透明人間なら、まさか万引きで逮捕される事もないだろうが、恐らく老人には与り知らぬ事情が、透明人間にしか分からぬ事情が、あるに違いない。分からない。とにかくあの人がそういうなら、従うまでだ。


 あの人と、もっと、関係したい。


 老人は思った。


 風呂を出たら街に出て、何か美味いものを買ってこようと決めた。それから綺麗なタオルや、ボットン便所用の消臭剤や、あるいは他にあの人が欲しがったものを買い揃える。この辺りに商店はない。休みの日にいちいち街まで出るのは億劫だが、もう、ひとりの部屋ではない。少しでも快適な部屋になるよう、清潔な部屋になるよう努力をするのだ。


 そうすればあの人は、いつまでも一緒に暮らしてくれるかもしれない。

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