Scene #10 老人
人間が存在するとは、「実際に存在する」とは、どういうことなのか。
スポットライトは再度、柴原老人の家を照らしだす。
……
……
日曜の朝八時半、柴原老人は何もない空間を見ていた。
見えるのは、薄汚れた壁だけだ。金色の粒が混じった土壁、木の柱。背後の窓にはカーテンが引かれていて、室内は薄暗い。「あのう、便所行ってきてもいいかね」尿意を感じた老人は何もない空間に向かって言った。
「勝手に行きなよ」壁の少し手前、畳が尻の形にへこんでいる所から一メートルほど上がった所から声がした。
男とも女とも言えない、不思議な声。
柴原老人は小さく会釈して立ち上がり、部屋を迂回するように移動すると、玄関脇にある扉を開けた。くみ取り式便所独特の、薬臭さの交じる便臭が鼻につく。柴原は股引を引き下げ、乱暴に性器を取り出す。昨晩飲んだ酒のせいだろう、アルコール臭のする尿が勢い良く放出される。揺れながら落下していく。タンクに溜まった大便を小便が貫くボソボソボソという音がする。自分以外の人間が使うとなると、汲み取り式便所だという事がひどく恥ずかしいことに感じられた。思わず顔を背けたが、その視線の先にある小さな窓の外には、臭気を逃がすための臭突が立っていて、尚更気を落とさせる。
洗面所を兼ねている台所の流しで手を洗い、いつものように、濡れた指先を下着の太もも辺りで拭った。ふとそれに気付いて、柴原は顔をしかめた。こういうことをあの人は、不潔だと思うかもしれない。ただでさえ汚い、くさい人間なのだ。濡れた手を股引で拭うようなことは、いや、そもそも股引姿で眠ることも、今後は控えた方がいいのかもしれない。
風呂に行かなければ。
「あのう」隣の部屋に居る「あの人」に声をかけた。
「風呂行くけど、どうするですか」
少しだけ間があって、「行かない」と返事があった。「どれくらいで戻るんだ?」
ほんの三十分くらいです、と答えて、洗面器と石鹸を持つと、柴原は股引姿のまま、外に出た。
家の前は、赤茶けた土を踏み固めただけの地面である。しっかりアスファルトが敷かれているのは、田畑の中を突っ切るあの農道までで、そこから先は未舗装だ。老人はふと立ち止まり、昨日、あの人と出会った農道を眺めた。広い田畑の間を、細く貫く一本道。
広い田畑はまるで海だった。そして農道は橋だ。海に掛かる橋。勤める工場や、生活用品を買うスーパーなどは、すべて橋の向こうにある。あちら側も田舎には違いないが、それでも数万人が住む立派な町であり、柴原老人含めて数人しか暮らしていないこちら側は、まさに陸の孤島、あちら側と橋一本でかろうじて繋がった、半ば隔離された島のようなものだった。
海だと言った田畑にしても、育つのは雑草ばかりで、殆ど棄てられたようになっている。呪われた土地だとでもいうように、人が近づかない。だからこそ昨日自分は死にかけた。柴原は側溝の中で死を考えた自分を、懐かしく思い出した。あの人に引っ張り出してもらわなければ、今もまだあそこで身動き取れないままであったのかも知れない。
地面には水溜まりができていた。雨水に柔らかい土が溶けて染み出した、赤く濁った液体が溜まっている。つっかけた便所サンダルを履き直し、足を踏み入れないよう注意しながら歩き出した。
隣の空き家はもちろん、その隣の家からも、物音一つしなかった。
唯一の隣人だが、もうずっと前から病気で寝たきりになっている婆さんで、近所づきあいは全くない。十年ほど前、工場で配られた大きな白菜を差し入れたことがあったが、顔を見たのはあの時が最後だ。最近は家族の見舞いも途切れがちである。
昨晩、ここの家族は婆さんを見殺しにするつもりなんだとあの人に説明したことを思い出した。あの家族は婆さんを見殺しにする。ずっとそう考えていた。ひどい家族もあったもんだと、あるいは婆さんは既に死んでいるんじゃないかと、誰かと話をしたかった。
だが、誰も居なかった。昨日までは。
老人は昨日までの自分を思い、寒気を覚えた。陸の孤島で暮らしているだけではない。老人は人間関係の面でも、独房で暮らす囚人のごとき生活を送っていた。両親は老人がまだ若かった頃に死んで、親戚とも疎遠になっている。工場の同僚とも、一日に二言三言話す程度のつきあいしかない。仮に突然柴原が出勤しなくなっても、柴原の身を案じる人間は誰も居ないだろう。人員は余っている程なのだ、人件費が減ってよかったと思うかもしれない。
自分を中心に、周りに知り合いの顔を置いていく。自分との距離は関係の深さを示す。脳内にそんな図を作ってみれば、まさにあちら側から隔離されたこの土地のように、老人の周囲には誰の顔もなく、ずっと離れた所に、工場の人間や隣の婆さんが居り、そのもっと離れた所に、何十年も会っていない親戚や、普段利用するスーパーやコンビニの店員などがいて、それで終わりである。
山に飲み込まれかけた寂れた神社を横目に、上へと続く獣道に入る。勾配のきつい坂を登っていく。誰も手入れをしない、暴力的なまでに成長した草が、足に絡みつく。一分ほど登ると小屋が見えてくる。風呂はあの集会所の中にある。老人の家や神社よりは後に建てられたそれは、一応まだ緑と融け合うことを拒絶しているように見える。
集会所の中は埃のにおいがする。
錠のない扉を開け、畳張りの広間には目もくれず、玄関脇にある浴場への引き戸を開けた。湯船に水を張り、ガスコンロに似たスイッチを捻る。カッカッカッと音がして小さな火花が飛ぶ。
湯が沸くまで二十分かかる。
柴原は洗い場に置かれた椅子に腰掛けて、水面をじっと見つめる。内臓に違和感がある。食道から胃にかけて、水飴を流し込まれたような、甘くねっとりした不快感がある。
二日酔いだ、と気付いた。
そうだ、自分は昨日、酒を飲んだ。グラスに何杯飲んだだろう。もとよりアルコールに強い体質ではない、かなり酔っていたはずだ。
あの人も言っていた。爺さん、あんな風に飲んだらそりゃ酔っ払うよ、呂律も回ってないのに、話しまくって、何を言ってるのか分からなかった。
風呂が沸くまでの時間、あの人から言われた様々なことを復習しようと決めた。それだけでもう、寒気のするような喜びを覚えた。目的があるとは何と素晴らしいことだろう。何十年もの間、この時間は暇以外の何物でもなかったのだ。
今まで、老人はただ浴槽の中の水が湯になるのを見て過ごした。薄水色の浴槽の表面に小さな気泡が現れ、やがてそのひとつひとつが痙攣するように揺れる。壁を離れ水中に飛び立ち、それは表面にまで浮かび上がり外気に触れると軽く水面を滑ってから消失する。その繰り返しを何百回と見続ける。
いや、それは繰り返しですらなかったのかもしれない。老人の意識はその気泡と同じく毎回生まれ、揺れ、消え、生まれ、揺れ、消え、生まれ、揺れ、消えた。考えることなど何もなく、また、考えようという意思もなく、老人はただぼんやりと過ごし、湯が沸けば、何も考えず湯船に浸かった。
人間は慣れる生き物だ。長年使われなかった脳みそには蜘蛛の巣が縦横無尽に張っている。何かを思考する以前に、出来事を覚え、記憶として仕舞っておくことすら柴原老人には難しい作業だった。
今朝あの人は、老人を側溝の中から引き上げる代償としての命令を、自分に下した。どんな事を話したのだったか。まずはそれを思い出すことだ。老人は湯船の中に視線を固定し、酔いのせいで思い出すことが困難であろう昨晩の出来事は捨て置き、先ほどの、つまりは今朝目を覚ましてから家を出るまでの記憶を探った。
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