Scene #9 あなた

 五分も行けば、車通りは殆どなくなる。右手にタバコとハンドルを持ち、左手で彼の熱い手を握る。少しだけ伸ばした爪でその甲を引っ掻く。


 彼の手は硬く握られて、その硬さは彼の性器の硬さを思わせる。彼のものは既に、あなたの舌や性器の感触を想像して反り立っている。


 あなたは微笑みすら浮かべない。唐突に、勃起を隠そうとする為か局部の上を覆う彼の左手を跳ね除ける。そこに現れた小山の頂を、今度は爪でなく指の腹で優しく撫でる。


 彼は抵抗せず、苦笑いを浮かべ、あなたの胸辺りに視線を寄越す。電気の消えた定食屋、寂れた中華料理店、反対側にはまだ営業中のバッティングセンター。交差点で赤信号に止められる。前にも後ろにも車はない。あなたはタバコを吸殻入れに落とし、彼の性器を弄っていた手でスウェットと下着を一気に下げ、同時に顔を近づける。充分に硬直している彼の性器は一旦スウェットとパンツに引っ張られ、やがて鞭が振り下ろされるように戻ってくる。それをあなたは頬で受け止める。口に含む。女のような彼の小さな悲鳴。シャワーを浴びたのかボディソープのにおいがした。軽く歯を立てて固定し、口を大きく開いて、ずるずると唾液の音をたてる。


 ガラス越しのテレビのように、視界の端で曖昧な光が動く。あなたは短いフェラチオを終了して顔を上げる。フロントガラスに写り込んだ光の点滅、歩行者信号の青が点滅している。あの感じは男が口の中で射精する瞬間に似ているといつも思う。


 イク直前、男の体はあの信号機のように点滅する。どくどくどくどく。そして赤、つまり発射。


 今日CDを買ったレコード屋の店長は先月、あなたが生理だというと挿入を躊躇った。だって血で汚れるだろ。そして、口でしてくれないかと、申し訳なさそうに言った。あなたは頷いて男のものを咥えた。男は点滅し、硬直し、赤く弾けた。


 郊外にある野外プールの駐車場、だだっ広く邪魔の入らない駐車場で、あなたは彼の性器を自分の中に入れた。擦った。摩擦が気持ちいい。好きじゃなくても、気持ちがいい。


 運転席と助手席のシートを最大まで倒して、あなたと彼は寝転がる。小さなベッド。彼は終始控えめだった。口でゴムをつけてあげると子供がベソをかくような呻き声を漏らした。Tシャツをまくり上げて乳首に歯を立てた。彼の肌はすべすべしていた。車の窓はすぐに真っ白に曇った。彼を使って、あなたはイッた。彼もイッた。ウェットシートで自分の性器を拭い、「ねえ、つきあおっか」と言った。「もう?」と彼は言った。「冗談よ。でもときどき遊ぼう」。彼は悲しそうな顔をした。


 あなたはどれだけ責任を感じているだろう。


 あなたと彼は時々会うようになった。あなたが連絡する時もあれば、彼が連絡を寄越す時もあった。三度目に会った時、高速インター近くに並ぶラブホテルの中で、一番ラブホテルらしくないホテルに宿泊した。打ちっぱなしのコンクリ壁、テーブル、ベッド、そして化粧台。テレビはあったが、アダルトチャンネルは映らない。料金は全てあなたが持った。宿泊費だけではない、ルームサービスで取ったサンドイッチやピラフも、来る途中コンビニで買ってきたワインやビールも、ねだる彼の為におかわりしたコンドームも、全てあなたの金で支払われた。


 あなたが期待した通り彼は喜び、こんな体験をさせてくれる女は初めてだと言った。


 彼は既にあなたの所有物だった。人格を持ったラブドール? 否。セックスのもたらす肉体的快感よりも、あなたにとっては、彼が生身の人間であること、それ自体が重要だった。


 あなたがそれまでに肉体関係を結んできた数十人の男はすべて、意志と個性を持った人間だった。人間があなたの肉体を求めること、その小さな胸を手の平で覆い、指の隙間から乳首を露出させて舌先で転がすこと、あそこだけでは飽きたらず、穴という穴、鼻や耳や果ては臍までを弄くること、眼球を舐めることが好きな男も居た、汗をかき、あなたの体液を啜り、脇の臭いを嗅ぐこと、そのひとつひとつが、あなたという存在を肯定した。


 あなたは自分をそれ程に好きではなかった。


 背は小さく、目の表情はキツく、肌は青白かった。毛量が少なくて、派手なパーマはかけられないし、そもそもロングヘアが似合わない。あなたは外部からの承認を強く求めていた。生身の人間からの、人形ではない明確な他者からの、承認。あなたとヤりたい男たちを確保することで、獣のようにのしかかられることで、性器を口に含んだときに漏れる、湿った呻き声を聞くことで、あなたはやっと、あなたを認めることができた。


 それなりに切実だったのだと思う。


 だが、そういった感覚は、あなたが自分で思っているほど珍しいものではなかった。誰しもが他者からの承認を必要として生きている。その方法として、セックスを選択する人間が多くないだけだ。たくさんの相手とセックスすることで得られる承認は、たくさんの相手とセックスし続けることでしか、継続できない。


 あなたはそんなことも分からなかったのだろうか。


 彼と七度目に会った時、無免許の彼に車を運転させて海に向かい、いつかの男が教えてくれた秘密の場所、海浜公園の駐車場の奥をさらに進んだ先にある、美しい浜辺を独り占めできる穴場に行った。


 車内で彼と一度ヤって、お酒をたくさん飲み、ふたり下半身裸のまま砂浜に出た。真っ暗の空に月が浮かんでいた。あなたは一度車に戻って、流れていたジャジーなヒップホップの音量を上げた。車のスピーカーは貧弱で、音は割れていた。けれど、彼は益々、あなたのことを好きになった。彼はまだ高校生なのだ。年上の、いやらしい、いろいろなことを知っているあなたに惹かれるのは、当然だ。


 だが、あなたはその二日前、彼と知り合ったのと同じ古着屋で、別の男を見つけていた。服飾系の専門学校に通う背の高い男だった。指のきれいな男。白くブリーチした髪にグリーンのメッシュを入れて、それが落ちかけてこんな色になってるんだと男は言って、肩まで伸びたその複雑な色の髪を弄んだ。


 男の指を見てあなたはきれいだと思った。俺、あんたのこと知ってるよ、あいつの女だろう? 男は彼のことを知っていた。あなたは、違う、と答えた。つきあってるわけじゃない、つきあうとか、向いてないのよ。あなたは彼を車に乗せて、近くのホテルに行った。男は蛋白だった。きれいな指はあなたをプラスチック人形のように扱った。あなたは少し寂しかった。欲しい、と思った。


 砂浜の上、月明かりに照らされた彼が、甘えるようにあなたにもたれ掛かり、躊躇なく耳の穴に舌をつっこんで、垢をこそぐように動かした。やめてよ、汚いよ、あなたは言った。汚くないよ、全部、汚くなんてないよ。彼のその可愛い子ぶりが気に障った。好きな人ができたの、と言った。キミの知ってる人だよ、わたし、あの人のこと好きになったのかもしれない。


 あなたはそうやって彼を捨てた。いや、捨てるよりも残酷だった。「じゃあ、どうなるの」必死に平静を装ってそう聞く彼に、あなたは答えた。その後の彼の人生に大きく影響することになる、残酷で、歪んだ哲学を。


 別に今までと何も変わらないわ。お互い会いたいと思う時に会って、したいと思うことをすればいい。


「でも、好きな人ができたんでしょう?」


 あなたは微笑んで彼の頭を撫でる、そのまま後頭部に手を回して引き寄せ、かわいいなあ、と胸に抱く。好きな人ができたからって、キミの可愛さが変わるわけじゃない、ねえ、こんなにも広い世の中で、好きな人を一人選ばなきゃいけないなんておかしいじゃない、それに、いろいろな時があるわ、エッチしたい時もあれば、お酒を飲みたい時もあれば、買い物に行ったり、映画を見たり、ご飯を食べたり、そういうのを全部同じ相手としなきゃけないなんて、変だと思わない?


「でも、自分の知らないところで、他の男と、そういうことされるのは、嫌だ」


 もちろん、何かを感じたり、思ったりすることを止めることはできない、けれど、だからと言って感じた通り、思った通りに世の中が進むわけじゃない、例えばキミが、私がキミ以外の男とセックスするのが嫌だと思った時、どうする? 今みたいに、相手に向かって嫌だと言って、言われた私はじゃあやめるね、キミ以外の男と寝るのはやめるねって、そうなると思うのかな、


 これは論理的な話、つまり、私がキミの嫌だって言葉に、つまり、自分以外の男とヤるなっていう言葉に従うとしたら、キミ自身にそれだけの価値がなければならないわけでしょう、他のすべての男とのセックスを諦めてもいいと思えるような価値が、ねえ、私はキミならこういう感覚がわかると思うから言ってる、例えばキミさ、私がものすごくブスだったらどうしてた? もっとすごく太ってて、なんか臭くて、眉毛とかボサボサの女だったら、どうしてた? 


 絶対にこんな風にはなってないでしょ、キミは私がこういう顔で、まあそんなに美人じゃないけどさ、でもこれくらいの顔で、太ってなくて、多分臭くもないと思うし、お化粧だってちゃんとしてるしね、そういう人間だから、ヤッたんだよ、つまり、ヤってもいいなと思うような価値を、ヤりたいなと思うような価値を、私という対象が持っていたっていうこと、そしてもう少し言うと、私はそれに自覚的だった、


 つまり、男の人にこの女とヤりたいなと思ってもらえるような容姿を、努力して保とうとしてる、魅力を感じてもらえないとしたらそれは私の努力が足りなかったということ、ねえ、これって考え方としておかしい? 


 相手と自分の価値のバランスで物事が決まる、つきあってるから、恋人同士だから、そんな理由で相手を縛って、自分を磨く努力もしないような関係より、ずっとシンプルで、ずっと素敵な関係だと思わない? 


 キミがもし私に他の男とヤッて欲しくないなら、私にそう思わせるような価値を身につけなければならない、もちろん今でも可愛いけどね、でも足りない、誰も助けてなんてくれないわ、それに、努力をサボったところで誰に怒られるわけでもない、


 キミは一人でそれをやるんだよ。

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