Scene #8 あなた

 画面の中に、スポットライトの輪郭が現れる。細かく揺れ動き、像がぼやける。


 突然、眩しい光がすべてを消去する。微かに黄ばんだ世界、何もない世界。


 視界の隅に小さな違和感がある。黒い、羽虫のような点。そちらに意識を向けるべきか読者は考える、随分遠くだ。だが、他に見るべきものはない。


 点というよりそれは黒い穴だ。近づいていく。穴は大きくなる。その中に何かの像が見える。なんだろう。誰かの顔だ。あれは……見覚えがある。物語の冒頭、少しだけ現れて、以降は一度も見ない顔……そう、あれは。


 ……


 行きつけの古着屋。カウンターにもたれ、馴染みの店長と話している時に、彼はやってきた。


 あなたは一瞬で、彼を好きになった。


 結膜炎で目やにがひどく、その日はメガネをかけていた。度数の高い分厚いレンズは、物を実際よりも小さく見せる。それでも彼は大きく見えた。


 背は高くないが、適度な筋肉をまとい、中性的な顔立ちに、長い髪。独特の存在感が、彼を大きく見せていた。


 制服を着ていたから、彼が高校生であることはすぐに分かった。だが、彼が何歳で、どこの学校に通い、どんな生活を送っているかよりも先に、彼がどんな性格の男で、何を好み、何を嫌うのか、どんな話し方をし、どんな眠り方をするのかよりも先に、あなたはただ彼を欲しいと思った。


 好き、というのは要するに、欲しい、ということだ。


 あなたはあなたの容姿に、ある程度の自信を持っていた。もちろんあなた以上に魅力的な女性は世の中に多く居たが、統計的に、体験的に、あなたが望めば、多くの男があなたを求めるだろう事は分かっていた。それが自信の根拠だ。決して、見苦しい自己陶酔によるものではない。自分は可愛い、綺麗だなどと理由なく思えるほど、あなたはあなたを好きではなかった。


 昔馴染みの店長を通じて、彼と連絡先を交換した。彼は淡々と電話番号を教え、あなたが聞くままに、だいたいの住所を教えた。


 その日の夜、あなたは車の中から彼に電話した。君の家の傍にいるんだ、ちょっとだけ出てこれないかな。そう言いながら、あなたはいやらしい匂いのする香水を少量振り、暗い車内で映えるよう少しだけ濃い目にメイクを直した。彼の住んでいるのは薄暗い住宅街で、所々に五階建てくらいのマンションが建っている。


 あなたは性器に予感を覚えた。そういえば、ゴムは残っていただろうか。ダッシュボードを空ける。あった。正方形の包をひとつ取り出してジーンズのポケットに入れた。唇を使って装着させてやると男たちは喜ぶ。あなたは思わず舌先で歯をなぞった。


 やがて暗い道路を彼が歩いてくるのが見えた。眠っていたのだろうか、左右に揺れながら、だるそうに歩いてくる。あなたはじっとそれを見つめる。彼があなたの車に気付いて、一瞬立ち止まり、それからゆっくりと近づいてくる。あなたは窓を開けたりしない。こちらから声をかけたりしない。彼には気付いていない振りをして、タバコに火をつける。ライターの光が一瞬だけ照らしたあなたの顔を、彼はきっと、見ている。


 運転席側には回らずいきなり助手席の扉を開けた彼に、あなたは少し驚く。そして、彼が外行きの格好ではなく、長袖のTシャツとスウェットという寝間着姿のままであることに気付く。彼は無言で車に乗り込む。どちらかと言えば小柄な身体は、この車の狭いシートにも無理なく収まる。先週乗せた別の男は、その長い足を折り畳み入れるのに随分苦労していたのに。


 ちらりとこちらを伺って、すぐに目をそらし、照れるというよりは不貞腐れたような表情で黙っている彼を、あなたは一層欲しいと思う。


 あなたは咥えていた薄荷入りのタバコを人差し指と中指で挟み、そのまま彼の口元に持っていく。あなたの指先には薄いピンク色のマニュキュアが塗ってある。無論この暗さでは見えないが、近くを車が通ったりする時など、そのライトを反射して爪先が微妙に光る。男はそういう小さな女らしさに弱いものだ。タバコの吸い口はあなたの唾液でたっぷり湿らせてある。


 あなたの指から唇でタバコを受け取った彼が、その冷たいフィルターに驚いて、そしてごくりと唾を飲み込んだのが分かった。あなたは今渡したばかりのタバコを乱暴に奪い、彼の唇に吸い付く。彼の驚きが唇から伝わってきて、それは一瞬であなたの性器に落ちていく。


 もう濡れ始めている。準備は始まっている。彼と唇で繋がったまま、タバコを持った手を伸ばし、スピーカーから鳴っているハードコアバンドの曲のボリュームを一気に上げる。冷房で硬くなった車中の空気を、ギターの音がザクザクと切り刻む。身体を彼にもたれかからせる。意外に厚く感じる胸板、赤ん坊を思わせる高い体温、彼の不器用な舌が唇を割って入ってくる。あなたはそれを優しく、落ち着いて受け入れる。


 男は女を抱きたいのではない。抱かれたいのだ。


 唐突に顔を離し、もう一度彼の口にタバコを咥えさせる。彼は慣れた手つきでそれを吸う。音楽のボリュームを落とし、自分も新しいタバコを咥え、火をつける。マルボロメンソールライト。女用の細くて長いタバコは嫌いだ。


 なんかキミの唇はキスしたくなるね、ダメだった? あなたの言葉に彼は首を振る。そんなことないよ、いつでもしていいよ。


 ドライブしよう、あなたは笑って、車を発進させる。あの時の彼の反応をあなたはどう受け取ったのだろう。そんなことないよ、いつでもしていいよ、だって。


 虚勢? それとも女慣れしている男だと感じたのか。あるいは、ただ彼があなたを受け入れた事を確認できれば、それだけでよかったのか。


 重いステアリング、砂利敷きの空地から紺色の小型車が出て行く。古い車。今ではすっかり見なくなった旧式の外国車。故障も多いが、男からの評判もいい。あなたはその車を気に入っている。バックミラーにはあなたの大好きなキャラクターのぬいぐるみがぶら下がっていて、ダッシュボードには先ほどレコード屋で買ったばかりの中古CDが数枚、黒いビニール袋に入ったまま投げ置かれている。


 レコード屋の店員と一緒に選んだその四五枚のCDのことを考えている時、あなたの中に、彼への想いがどれほど存在していただろう。


 彼への興味のピークは既に過ぎていた。古着屋で彼を見つけ、あの空地から彼に電話をした時、彼がその呼び出しに応えた時、その姿が暗がりの中に現れて、あなたの唇を受け入れ、舌を差し入れてきた時、あなたは彼を手に入れた。好き、というのは、欲しい、ということだ。


 あなたは、いつか友人に向かってこう話した。


 好き、というのは、欲しいってことでしょう。手に入れてしまったら、それはそれで大切かもしれないけれど、もう「欲しいもの」じゃない。その人が自分のものじゃないっていう前提がなければ、私は誰かを好きにならない。


 あなたは助手席の彼と手を繋いで、次にどのCDをプレーヤーに入れようか考えている。


 夜中の道を走る。彼はどこか落ち着かなそうに視線を動かしている。彼は恐らく実家暮らしで、もしかしたら親が厳しいのかもしれない。日曜のこんな時間、明日も朝から高校に行かなければならないのに。


 彼は多分、嘘をついて家を出た。コンビニに行ってくるとか、ちょっと走ってくるとか、昼間知り合った女に会いに行くとは、多分言わなかった。あるいは黙って出てきたのかもしれない。


 彼の落ち着きのなさは、車が躊躇なく、彼の家からの距離を伸ばしているせいかもしれない。あなたは意地悪な気持ち、つまり、そんな彼を虐めてやろうと、わざと遠くへ遠くへと車を走らせているわけではない。


 ただ、精神的には既にあなたの所有物となった彼を、肉体的に味わうために、その食事場へと移動しているに過ぎない。


 あなたはもう、彼のことを好きではない。

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