Scene #7 透明になった男
……
……
彼は眠る老人を見ていた。
柴原は酒に弱い体質らしく、グラスに三杯ほどの焼酎を飲んだあたりから言葉が不明瞭になり、だが発せられる文量は増える一方で、悪魔にでも憑かれたように、見た目には何も存在しない空間に向かって喋り続けた。結局それから二三杯を空け、やがて気を失うように倒れこんで、眠ってしまった。
柴原の、砂利の含まれたような濁った吐息に居た堪れないものを感じ、彼は向こう側の見えない磨りガラスに視線を移動させた。
何が起きているのか、自分がどういう状況にいるのか、柴原の一方的な自分語りのせいでよく分からない。
柴原の注いでくれた焼酎の入ったグラスに手を伸ばした。
指先に神経を集中し、ゆっくりと近づけていく。やがてそれはグラスに到達した。手の中に掴むと、グラスの表面に微かな変化が現れる。結露しているような時は、そこにはっきりと、自分の指の形が浮かび上がる。
その様子を初めて目にした時、触れれば触れられるが見た目には全く透明な自分の身体に、最低限の現実感を持つことができた。もしかしたら自分は既に死んでしまっているのではないか、自分は既に存在しないのではないかという、容貌喪失の瞬間には発生し、それからずっと頭を離れようとしない疑いが、少しだけ色褪せて見える程度の、現実感。
だが、グラスは白く汚れており、注がれた焼酎も常温だったせいで、自分に未だ五本の指があることを確認できるほどの変化は現れなかった。
そういえば、今の自分が何かに触れた時、指紋は残るのだろうか。
個人が特定され、有効な証拠になるほどの、確かな指紋が残るのだろうか。単なる思いつきだったが、意外と重要な事なのかもしれない。彼の中で、透明人間としての優位性は、既に下降線をたどりつつあった。姿の見えない事が彼にもたらしたいくつかのメリットの裏側で、それはまたハンディキャップとしても認識され始めていたのだ。
このとき彼の頭の中にあったのは、この状態になってから自分の犯した罪が、指紋という物証から明らかになりはしないかということだった。
補導や逮捕の経験はなかったから、警察が彼の指紋データを持っている可能性はない。だが、まともな印鑑を持っていなかった彼は、過去に何度か拇印を押した経験があった。一人暮らしをしていたあの部屋の契約書にも、赤インキによって転写された彼の親指の指紋が残っているはずだ。警察がどれ程の捜査能力を持っているかは分からないが、場合によっては、犯罪と自分とがその指紋によって結び付けられる可能性もあるのかもしれない。
彼はそして、暴れる女に爪を立てられた頬をさすった。もちろん見えなかったが、ミミズ腫れのようになっている傷跡が指先に感じられ、同時に、ぴりりとした痛みが走った。
ほんの数時間前につけられた傷。柴原老人を見つける少し前のことだ。
彼は小さく呻いて、その後、笑みを浮かべた。はじめて経験したあの強烈な快感が蘇り、喜びの余り笑い声をたてそうになった。その衝動を何とか奥歯で噛み殺すと、彼はまた、畳の上で仰向けに眠っている柴原を見た。
彼が柴原老人に出会ったのは偶然だった。だが、たまたまあの道を通りかかった訳ではない。逃げてきたのだ。人気のない場所を探していて、古い薬局と粗大ゴミ置き場と化した空き地の間にある暗がりに身を隠し、それが単なる隙間でなく奥に繋がる道路である事に気付き、進んでいった。
十メートルほど行くと道は左に折れ曲がっていて、決して遠くはない山の斜面にぶつかるまで、田畑が広がっていた。道は一応アスファルト敷だったが、それは道路というより農道や畦道と呼ぶべき貧弱なもので、暮れかけた太陽によって強烈なオレンジ色に染まっている景色の中では、ほとんど誤差のように感じられるものだった。
身を隠そうと入り込んだのに突然景色が開けて、彼は戸惑った。だが、田畑と山、そして巨大な空以外に何もないその景色は、美しかった。数十秒前まで自分の居た、人工物で溢れた表通りとの対比が、彼の心を子どもに戻した。
彼はその瞬間、存在する全てを愛おしく思った。とりわけ、まだ記憶の中に鮮明な像を結んでいる一人の女、自分の人生の中で、初めて特別な意味を持った女の顔、その肌の感触を想い、思わずありがとう、などと独り言ちてしまいそうになった。
女。それは先ほど彼が強姦した女だ。
女は涙を流して抵抗していた。薄暗い空き倉庫の片隅で、姿の見えない暴漢に組み敷かれながら、生理的反応から発熱してしまった自分の性器と、それを押し広げて入り込む同じく発熱した、目には何も見えないが確かにそこに存在する棒状の何かに、ただただ抵抗を示していた。
女の振り回した手の先、伸びた爪が彼の頬の上をカッターナイフのように切り裂いた時、彼は自分の興奮を知った。それは彼の初めて経験する、女からの抵抗の表情、行為だった。
彼は、人間として、動物として、興奮した。
腕の中にいる相手と交わっているのだという疑いなき実感が、無数の棘を持つ快楽物質として血流内に放出され、それが血管の内側をかりかりと引っ掻いているような感覚。性器同士が擦れ合う肉体的快楽とは別の、まぐわっている相手と共に宇宙を覗くような原始的な体験感が、彼をこの上なく興奮させた。
女の中で射精を迎えると、不思議な事に女は抵抗をやめた。抵抗は、膣内での射精を避けるためにあり、要するに妊娠恐怖であったのかとも考えたが、それが果たされなかった事に女は落胆している風ではなかった。砂のような粒上の埃が積もったコンクリ床の上で、女は無表情で彼から顔を背け、ただ黙って彼の次の行動を待っていた。
彼の両腕を固く握りしめていた手はだらりと床の上に投げ出され、汗なのか体液なのか濡れた太ももには、黄色い埃がまぶされて黄粉餅のように見えた。女はただ弛緩していた。彼は女の身体から性器を引き抜いたが、女は弛緩したままだった。
彼は立ち上がると、自分の性器のある辺りを見下ろした。射精の感覚はあったが、先端部分に触れてみると、精液の感触はなかった。むしろ、それは他の部位同様、のっぺりした曖昧な器官に戻ってしまっていた。皮膚と言えば皮膚だが、合成繊維のようでもある。
自分の身体ながら、仕組みは未だ分からない。だが、このような強烈な性行為が可能だと知れただけで、十分過ぎるほどの収穫だった。
罪悪感などなかった。彼は床に転がった女に愛情を感じていた。愛情を感じている相手に、罪悪感を覚える事はない。むしろ、彼が最も嫌うところである性交後のじゃれあい、互いの身体にふれ合いながら甘い言葉を囁き合うようなあの一番無駄な時間をこの女となら過ごしてもいいと思っていたくらいであった。
だが、女への愛情とは別に、強姦が犯罪であるという常識的な知識から、その場に留まっている事がひどく不自然に思え、彼は振り返ると、先ほど女を押しこんできた扉を一人でくぐった。
彼はそしてあの農道に辿り着き、やがて現れた柴原老人が、彼の存在に気付くことなく通り過ぎ、やがて足を踏み外して側溝に転げ落ちるのを見たのであった。
柴原の登場は、どちらかと言えば彼を不快にさせた。オレンジ一色に染まった美しい景色の中に現れた柴原は、明らかに異物であった。太陽や山や森が、田んぼに張られた水や畑に植わった野菜の葉など自然的なもので構成された視界の中で、作業服を着た白髪の老人という存在は不自然に見えた。穏やかな気分が、さっと引いていくのが分かった。美しい景色が、老人のせいで台無しになったと感じた。
彼はその場――農道を半分ほど進んだあたりに腰掛けて、女との時間を誰に邪魔されることなく反芻した。考えてみれば、身を隠す必要などないのだった。自分は既に容貌を失い、誰の目に留まることもない。
唯一の懸念は、見た目が透明なだけで、身体自体は存在しているということだ。
そして彼は、そもそもなぜ自分がここにいるのかを、嫌々ながらに思い出した。彼は、居場所を見つけに来たのであった。あの部屋にはもう、戻ることができないのだ。
日が完全に沈み、景色の全体に夜が定着しても、彼はその場に座り、自らの思考と二人きりで過ごした。だが、何を考えても結局は、新しい居場所をどうするのか、という問題に行き着いてしまう。
やがて彼は立ち上がると、口笛を吹きながら、側溝の中に嵌り込んでいる老人の近くまで移動した。彼の口笛は、足音の代わりだった。彼自身がそれを必要としていた。
当たりはすっかり暗くなっていて、しかも老人が声を発しないので、その姿を見つけるまでに時間がかかった。分厚い雑草のカーテンを開いて進んだ。
老人は、まるで自分の意思でその狭い空間に収まっているのかと思うほど、ほとんど身じろぎしないまま、幅三十センチほどの側溝の中に収まっていた。
田を背に、横向きの姿勢をとっているので表情を伺うことはできない。だが、近くに来てみると、時々かすかに呻いたり、手足が動いたりしているのが確認できる。意識を失っているわけではないらしかった。それだけに老人の無抵抗は不気味だった。
居場所が必要なんだ、と彼は考えた。爺さんだ。彼は側溝の中の白髪頭を見て、そう思った。作業着姿という事は仕事帰りだろうか。こんな人気のない道を行くということは、この先に家があるのかもしれない。
見えるのは山と森と田畑のみ、家があるとしても恐らくは一軒家で、マンションやアパートといった集合住宅ではないだろう。考えれば考えるほど「いい物件」のように思え、その裏返しとして、昨日まで住んでいたあの部屋での生活がどれだけ危険だったか、あらためて実感された。あのカップルはもしかしたら、既に警察に通報したのかもしれない。
……
柴原がううんと唸って、畳の上で寝返りを打った。
空気が移動し、柴原の体臭らしき臭いが漂った。
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