Scene #6 透明になった男
暗転。
小説の中で場面転換は一瞬で行われる。
次のライトが照らすのは、それまでとは時間も場所も異なる場面。画面の中を飛ぶ細かなノイズが、これが記憶の再生である事を連想させる。
……
彼の部屋は、JRと私鉄、二つの駅に挟まれたオフィス街の中にあった。朝の数時間と、昼と、そして夕方以降、その街は蟻のように見えるサラリーマンたちの世界になった。蟻の行列は二つの駅それぞれに向かって、あるいは駅から始まって、まっすぐに伸びていた。
二つの駅のちょうど真ん中にある、規模は大きいが築四十年過ぎの古いマンションに彼は部屋を借りていた。エントランスに麻薬や過激派についてのポスターが何枚も張られているようなところで、家賃は格安だったが、その分住人の質は悪く、ヤクザの事務所も何件か入っているらしかった。
近所づきあいは皆無で、偶然に廊下などで顔を合わせても、どちらともなくすっと目を逸らして通り過ぎるような殺伐とした空気が、建物全体を覆っていた。
透明になって以降、彼はそれまで以上に住人との接触を避けてはいたが、一方で、もともと交流の意思の存在しない場所だからと、油断している部分もあった。
彼は概ね、容貌のない奇妙な生活を楽しんでいた。どれだけ考えても、どういう仕組で自分がこうなっているのか分からないし、また、どうすれば元に戻るのか、ということには不思議なほど興味がわかなかった。
透明になる前からの習慣であった夜中の散歩は、それまで通りに継続された。部屋を出る時には、まず少しだけ扉を開けて廊下の様子を探り、誰も居ないことを確かめて、必要最低限な隙間を作って身体を滑り出させる。
夜中のオフィス街には驚くほど人が居ない。だから彼は歩道の真ん中を、大手を振って歩くことができた。太陽を思わせる工事現場の投光機の前で振り返り、背後の壁に何も映っていないことを確認すると、自分には既に影すらも存在しないのだと嬉しくなった。
人間は慣れの生き物だ。それは透明人間になっても変わらない。
その日彼は眠気を感じながら、朝の四時頃、散歩から戻ってきた。エントランスでエレベーターボタンを押そうとして咄嗟に止めた時、自分の油断に気付くべきだった。
彼は指を引っ込めると、小さくため息をつき、面倒くさそうに階段を登りはじめた。
部屋のある七階に辿り着く頃には、誰を気にすることもなく、荒い鼻息を吐いていた。どうしてこんな風にコソコソしなければいけないのかと、投げ遣りな怒りが湧いてきた。
それは、こういう状態になった自分を無理なく受け入れる一方で、この状態で他人と接触しようとは全く考えていない自分に対する、自己嫌悪の裏返しでもあった。
いずれにせよこの時、彼は失敗を犯した。
部屋の扉を乱暴に開け、「糞、なんなんだよ」というような悪態を、決して小さな音量でない声で発した。ぎゃっと掠れた悲鳴がして顔を上げると、三つほど向こうの部屋の扉の前に、驚いた顔で立ちすくむ女の姿があった。
彼は扉を開けたまま、呆然と女を見返した。
水商売の女だろうか、胸の上半分が露出するキャミソールにホットパンツ、高いヒールを履いている。仕事から戻ってきたところかもしれない。
彼より先に女は行動した。真っ赤なバッグの中から鍵を取り出して扉を開けると、「ちょっと来て、ちょっと来て」と部屋の中に向かって甲高い声を上げる。数秒と経たず、上半身裸の丸坊主の男が、「なんだよ」と言って顔を出す。
女は彼の方を指差す。「ちょと見て、あれ、見てよ」男は肩に龍の刺青をしている。その龍の頭の部分をボリボリと掻きながら男は顔をこちらに向ける。彼は部屋の中に飛び込んで勢い良く扉を閉め、鍵を閉めた。
カップルはあの後、彼の部屋の前まで来て、何かを話していた。中に入ってこようとまではしなかったが、女の不信感、そして、男の妙な張り切りが、扉越しに痛いほど感じられた。
女は男になんと説明したのだろうか。今頃になって、最後の行動が後悔された。仮に彼の悪態が女の耳に届いていたとして、あのまま無言で部屋に入り、扉の自然に閉まるのに任せていれば、奇妙な光景には違いないだろうが、扉が勝手に開閉するという心霊現象の一つとして記憶されるに留まったのかもしれない。
だが、彼は慌てて扉を閉め、鍵まで掛けてしまった。その一二秒の事が女に、いや、既に顔を出していた男も含めた二人の中に、それまでとは違った印象を与えた事は明らかだった。
彼は廊下であのカップルが、扉に耳を押し付け気配を伺っている事が手に取るように分かった。
彼はしばらく部屋の真ん中で立ち尽くしていたが、やがて先程の怒りが蘇ってきて、それは聞き耳を立てる外の二人に当然のように向かい、彼は「糞」と呟くと、わざと音をたてて玄関扉の前まで進み、見えない拳を固めると、扉を破るつもりでというよりは、むしろ拳を破壊するようなつもりで、固い金属板でできた扉を激しく叩いた。
彼は二人のひゃっという悲鳴を聞いたような気がしたが、確かとは言えない。彼は大股で部屋の中をうろうろ歩きまわり、やがて、透明になって以来使う事のなかった鍵束を掴むと、苦労しながら、家の鍵だけを取り外した。もう戻らない。ここではもう暮らせない。そもそも、透明人間になってなお、それ迄通りの生活を続ける方がおかしいのだ。
彼はふと鏡の前に立つと、手に持った鍵を顔の辺りまで持ち上げた。
それは空中に浮かんで、微かに揺れていた。彼はそれを口の中に入れた。やはり消えた。
食べ物と同じなのだと彼は思った。体内に取り込まれれば、それは同じく容貌を失う。口の中には鉄錆の味が広がり、何かひどく卑猥なことをしている感じがした。あーん、と開けてみると、口内で上下逆さまになった鍵が見えた。
彼は目を閉じて、舌の上に乗っている鍵に指先を伸ばした。目を閉じていた方が細かな作業がうまくいくことを彼は学んでいた。人差し指と親指でつまみ上げると、その表面は微かに粘っている感じがしたが、それは唾液に塗れているというより、鍵自体にこびりついていた手垢のせいに思われた。
築四十年以上の古ビルだ、この鍵も長く使われているに違いなかった。今までこの部屋には何人が住んで、そのうち何人が鍵を口に含み、その卑猥なまでの鉄臭さを味わったのだろう。
彼は再び鍵を口内に落とし、舌先でその表面を執拗にこそぐようにしながら、この強烈な味には自分以外の人間の手垢が多分に含まれている、俺はいま見知らぬ誰かの手に舌を這わせているのも同然なのだと考え、そういう事をしている自分を愛おしく思った。
あのカップルが、ここで遭遇した怪事件、確かに存在は感じられるが姿の見えない住人について、どういう行動を取るかは分からなかった。だが、彼はもう、この部屋から出ていこうと考えていた。透明人間に相応しい居場所を見つける必要がある。新しい居場所を見つける為の旅に出るのだ。
彼が柴原老人を見つけたのはそれから約一日半後の事だった。
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