Scene #5 老人

 風が吹き込んでくる。視線を上げると、すぐそばに木々の黒い影が見えた。この三軒の古い家は、山並みにできた森のようなものの中にあるのかもしれない。


 風は強い。がさがさと木々を揺らして、攻撃するように家の中に入ってくる。身体が、少しだけ浮いたようになり、彼は驚いて足を踏ん張る。


 容貌を失って、体重が五キロほど減った。それがいったい何の五キロなのか、彼には確かめようがなかった。身体の芯のようなもの、骨の中心を貫く人間の重みのようなものが、失われたのかもしれない。


「もういい、窓を閉めろ。座って、俺の質問に答えるんだ」


 彼が言うと、老人は一瞬何か言いたそうにしたが、結局はそれに従って窓を閉めると、その場にしゃがみ込み、あぐらをかいて座った。


 老人の名は柴原と言った。


 六十九歳らしいが、年齢の割に若く見える。二十歳の頃から同じ工場で働いているらしい。未婚で、子供もいない。両親は既に他界しており、親交のある人間も殆どない。天涯孤独といっていい生活だった。背は低く、髪は豊かだが脂ぎってのっぺりしており、平たい魚のような顔をしている。目が極端に小さくて、どこを見ているのかよく分からない。


「俺、見えないだろ」


「見えねえです」


 柴原は頷いた。彼が言葉を続ける前に、この家はね、とまた聞いてもいないことを話し出す。


「この家は、三十になる前に新築で買ったですよ。別に感動もなかったけどね。貯めた金が全部飛んでいきました。当時からみすぼらしい家だと思ってました。狭いし、暗いし、だけど、一番悪かったのは場所です。ここは捨てられた土地なんだ。まるで開発が進まなくって、未だにほら、ボットン便所ですから。知ってますかボットン便所、あんた若そうだから知らねえかな」


 若そう、だって? と彼は考えた。何を言っているんだ、この爺さんは。


「ちょっと着替えてもいいかね。ほら、臭いといけねえから」


 彼は老人が先ほど失禁したのを思い出して、思わず「いいよ」と言ってしまった。


 台所に消え、汚れた作業着から寝間着姿になった柴原は、何を思ったか、手に一升瓶を持って戻ってきた。反対の手には、水垢で白く濁ったグラスがふたつ。さらに、脇腹には何やら乾き物らしき袋を挟んでいる。


「こんなもんしかねえけど……」


 柴原は申し訳なさそうにそう言いながら、彼の身体に触れぬためか、壁に沿うように歩いて元の位置に戻った。そして、なぜか正座し、埃の被った茶色の瓶から、透明の液体をグラスに注いだ。


「焼酎しかねえです。つまみも、こんなんしかなくてねえ。客が来ることなんてなかったから」


「ちょっと待ってくれよ爺さん、あんた、何を言ってんだ」


「何って、何の話でしたっけね、ああ、そうそう、汲み取り式って言って、ほら、いまじゃ水洗が当たり前でしょう。タンクを、埋め込んで、そこにババする訳です。で、バキュームカーつってね、そのウンコのタンクにホースを突っ込んで……汚ねえ話ですけど、そうする他ねえ訳ですから。汚ねえと言えば、私だって臭くて汚くて、ねえ。臭くないですか、窓開けてたら多少はいいはずなんだが、閉めてた方がいいですかね、腋臭つうわけじゃないと思うんだが、ねえ、独特の臭いがするんでしょう。体臭がきついんです。白いシャツなんて、すぐ脇のところが黄色く染まっちまってねえ。洗濯しても取れねえんだから仕方ないよね、そんでまた、この醜男でしょう。ハンサムだったら、人生いろいろ違ったんだと思うけど。ねえ、ほんと、臭いのは申し訳ねえです。工場の人はもう、慣れたと言うけどねえ」


 彼はこの、まるで壁に向かって独り言を積み重ねるごときの様子に、明確な恐怖を覚え始めていた。寂しい一人暮らしの老人、人里離れた郊外に一人で住む老人を探していた。その家を自分の居場所とする。うまくいくはずだった。それが、どうだ。自分は精神異常の老人に、目をつけてしまった。どう考えても、柴原は異常だった。


「明日は工場休みですから、日曜は休みなんでね、銭湯は明日行きますよ。この家には風呂ついてませんから。すぐそばに神社があったでしょう。その脇を抜けて山沿いに行くとね、集会所があるんです、昔は自治会とか言って、月に何度かは集まったもんですけど。でも、いつの間にか住人がおらんようになって、私と、さっき言った寝たきりの婆さんと、あと、その集会所の向こうをずっと行くと四五軒あるけどね、昔はもっとおったですよ、二三十人は集まったからね、集会所にね。で、何の話でしたっけね、ああそうだ、銭湯ね。それ、集会所なんです。集会所に浴場があってね、そこが私の風呂。よかったら一緒に行きますか、ねえ、誰も来んですから。私が掃除して、管理して、まあ専用風呂みたいなもんで……」


 そこまで言うと、柴原はいきなり黙った。乾き物の入った袋に手をかけて、茶色い艶の浮いた、工員らしい無骨な手で、割いた。袋の中で、柿の種はさらに小さな袋に小分けされて入っていた。柴原はそのひとつを手に取ると、ちらと上目遣いに彼の居る辺りを見ると、ちゃぶ台の上を滑らせるようにして差し出した。戸惑いの表情が浮かんでいた。だがそれはすぐに消えて、また、照れたような妙な笑顔に戻った。


「や、や、愉快だ。愉快ですよ私は。こんな風に誰かと酒を呑むなんて、滅多にありゃしませんから。工場の仲間はみんな酒飲まんですよ、飲むけど、一緒には飲まんです。年に一回か二回か、祭りの日はちょっとね、大瓶一本くらいは飲みますけどね。ああ、私はうまく喋れとりますか。驚くかも知らんけど、私ね、ここ何年も、いや、何十年も、誰とも喋っとらんですわ。仕事でも、持ち場は一人で黙ってやりますから、買い物だってあんた、今じゃ何も喋らんでもできるでしょうが。カゴに物を突っ込んで、金払えば、なんも喋らんですよ。私はほら、臭いでしょう、それに、こんな醜男です。できるだけ静かにね、誰とも関わらんほうがいいです。多分、死んだほうがいいと思うですが、そんな度胸もなくてねえ」


 そして柴原は、小さくため息をついて、言った。


「私は、人とどう接していいのか、まるで分からんのです」

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