Scene #4 老人

 ある作家曰く、小説は、塔に当たったいくつかのスポットライトである。その全景が晒される事はない。浮かび上がる部分と部分を繋ぎあわせ、読者はその全景を頭の中に想像する。


 ……


 老人の家は、側溝のあった畦道を五分ほど行った、表通りからは完全に遮断された暗い土地に建っていた。幅五メートル程度しかない間の狭い二階建てで、同じデザインの建物が他に二棟、ほんの数メートルを隔てて建っている。


 恐らくまだ八時前だというのに、それら三棟の家にはまったく明かりがなかった。すぐ傍に寂れた神社があり、崩れかけた古い神殿にぶら下がった電球が辺りを暗いオレンジ色に照らしているが、慣れない人間なら恐らく、道を真っ直ぐ進むこともできないほどの暗さだ。


 痛むのだろうか、老人は腰に手を置いて、小さく呻きながら歩いた。時々思い出したように振り返り、首を傾げて、また歩き出す。「おい」と声をかけるとびっくりしたように身体を強張らせ、今度は振り返らずに「はい」と答える。


 老人はポケットを弄り、キーホルダーのない裸の鍵を取り出した。それをドアノブの穴に差し込んで、ちらりと隣の家を見やり、聞いてもいない説明を始める。


「隣は空き家で、もいっこ向こうは、寝たきりの婆さんが一人で住んでます」


 彼としては、家の中に入るまで、老人と言葉を交わすつもりはなかった。人気はなく、夜目もきかない暗さだったが、誰かが見ていないとも限らない。老人が、独りで言葉を発していれば、不審に思われるかもしれない。


「ときどき家族が様子を見に来るですが、ありゃあもう、見殺しにするつもりでしょう。いや、本当に、じきに死にますよ」


「早く入れよ」


 彼が急かすと、老人は素直に頷いて、鍵を開けた。木造の扉がぺらぺらのベニヤ板のような軽さで開いて、その向こうに、外よりもさらに深い暗がりが広がっていた。彼は思わず唾を飲み込んだ。


「あの」老人が肩越しに振り返って、言いにくそうに呟く。


「なんだよ」


「散らかってるんで、少し、片付けたほうが」


 彼は呆れて首を振った。そして、その様子が老人には見えないのだという事に気づき、仕方なく声を出した。


「いいよもう、早く入れよ」


 先に中に入った老人が電気をつけた。浮かび上がる風景に、彼は拍子抜けした気分だった。特に整理整頓が行き届いているわけでもないが、散らかってもいなかった。玄関すぐに小さな台所、その向こうに、ブラウン管のテレビと、丸いちゃぶ台と、薄っぺらい布団が見える。男なんてこんなもんだ、と彼は思った。実際、先週まで住んでいた自分の部屋より、片付いているくらいだった。


「汚ねえでしょう。爺の一人暮らしで」


 老人について奥の部屋に進んだ。ぷんと、甘ったるいような、酸っぱいような、独特のにおいがした。


「汚くはないけど、何か臭い」


 彼が言うと、老人の顔が強張った。そして作業着の太ももあたりを握って、へっへっへと笑う。


「どうも、私はちょっと臭いもんで、空気も淀んでいますでね、窓を開けますよ。そうすりゃ多少はよくなりますから」


 老人は布団を半分に畳んで壁の方に押しやると、ちゃぶ台を引きずって部屋の中央まで移動させ、大人二人が座れる一応のスペースを作った。テレビの上に置かれていたリモコンを取り、手の中で上下に振る。上目遣いでこちらに差し出しながら、首を傾げ、くいくいと顎を突き出す。テレビ見ますか、自由にやって下さい、そう言いたいらしい。


「いいから窓を開けなよ」


 違和感を覚え始めていた。いろいろなことが、予想と違っている。こんな展開になるなど、考えてもみなかった。


「窓を開けるんだ」


 戸惑いを振り払うような強い口調で言った。老人はなぜか嬉しそうに「はい」と言い、振り返ると、薄汚れたベージュのカーテンを勢いよく引いた。エンボス加工で波紋のような模様が描かれた磨りガラスが、外の暗闇を透かして、灰色に染まっていた。窓なのに、妙な圧迫感があった。暗闇が物質となって、外側から迫ってくるような感じがする。


 だが、老人は嬉々として、躊躇なく、窓を全開した。

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