Scene #3 老人

 唐突な変化だった。


 誰かが近づいてくる気配はなかった。驚きに打たれ、老人の思考回路は一瞬停止した。そしてゆっくりと、再開した。痛む首をおしてその方向に顔を向けた。


 側溝の中より、僅かに明るい紺色の空が、先の尖った雑草のシルエットの向こう側に見えていた。そこに人影がない事に、老人は落胆した。人間の輪郭は、針の山を思わせる草とは違い、もっと曲線的なもののはずだ。


 そこには誰の姿もなかった。老人は顔を戻した。首が痛かったからだ。だが、草をかき分ける、乾いていて同時に濡れているような音が、まだ続いていることに気付いた。


 痛みを我慢してもう一度振り返ろうか、それを考えた時に、まあ、振り返らなくてもいいだろうと結論付ける程度の違和感が、かすかな波紋として胸を打った。老人は振り返らなかった。田畑の上を滑ってきた風が、道路沿いにこんもりと山になっている雑草にぶつかって、このような音をたてているのだ。人が居るはずはない。何しろ、この目で確かめたのだ。


 だが、次の瞬間、ほんの十センチほどの距離から、聞こえたのだった。達者な口笛だった。何の歌なのかは分からない。長い音と長い音が隙間なく繋がった、子守唄のような柔らかい印象の歌。


 口笛。老人は思わず微笑んだ。自分の思考が混乱し始めた事に対する、照れ隠しのような微笑みだった。実際、老人の思考は、現実を捉えられずにいた。そしてやはり、もう一度振り返ろうとはしなかった。


 やがて口笛がピタリとやんで、入れ違いに、すんすんという音が聞こえた。すんすん、すんすん、すんすん。


「ああ、小便漏らしたのか」


 突然声が聞こえた。


「爺さん、あんた、小便漏らしたの?」


 奇妙な声だった。言葉遣いは若い男を想像させるが、声自体はむしろ、女性のように高かった。老人はさすがに驚いて、痛みに耐えながら、声のした方を振り返った。だが、やはりそこには誰もいない。尖った葉のシルエット、その向こうに見える濃紺の空。老人は目を閉じた。ついに、頭がおかしくなったのだろうか。予感はあったが、契機はなかった。自分はいつ、どうやって発狂したのだろうか。


「見えないよ。透明人間だから」


 その男とも女ともつかぬ奇妙な声は、淡々とした口調で言った。透明人間? いや、何を言っているのだろうか。だが、それは確かに、人の声だった。録音した音声を再生したのではなく、その場で発生した生の声だという確信があった。


 老人は難儀に思いながらも仕方なく振り返った。三度目の正直。「透明人間だから」という言葉の真意は分からないが、声が生音である以上、そこには誰かがいるはずだ。


 だが、いなかった。側溝に転げ落ちた時に、頭を打ったのかもしれない。脳の状態によっては、これほど鮮明な幻聴が聞こえることもあるのかもしれない。首が痛むので、長く体勢を維持することはできない。老人は顔を戻した。一度振り向くだけで、随分と体力が消耗される。


 身じろぎしたせいだろうか、小便の臭いを追加し、さらに複雑な生臭さとなった体臭が――臭いのは作業着なのだが、その臭さの発生源は、自分なのだ――感じられた。老人は思わず目を閉じた。もういいだろう、もういいじゃないか、こんな爺を虐めて何が楽しいのだ、と、その圧力で自らの脳を磨り潰すとでもいうように、閉じた瞼に精一杯の力を込めた。


 その直後、何かが頬に触れた。冷たくて、細い何か。老人は目を開けた。その冷たくて細い何かは、高野豆腐のように張りのない老人の頬を、最初は軽く、徐々に強く、押した。見えていたならば、老人はそれが人の指先だとすぐに分かっただろう。


 だが、見えなかった。それはあくまで冷たくて細い何かであった。冷たくて細い何かは、老人の歯頸に食い込んだ。歯の形一本一本を確かめるように、たるんだ皮膚が溜まる顎に沿って移動した。老人は自分の汚い歯の連なりを思い出し、居た堪れない気持ちになった。そんな不潔なものに、醜いものに、「冷たくて細い何か」が何であれ、触れてほしくはなかった。


「やめてくれ」


 老人は言った。声は震えていた。その冷たく細い何かは一瞬動きを止め、そして控えめに離れた。


 ほっとしたのも束の間、例の男とも女とも言えぬ声が、ねえ爺さん、と言った。


「ねえ爺さん、このあたりに住んでるの?」


 どう反応すればいいのか、そもそも反応していいものなのか。昔テレビで見た心霊番組の中で、この世あらざるものの存在を感じた時は、あるいは接触された時は、とにかく無視する事が重要だと言ってはいなかったか。誰かの寝言に対して返事をすると、夢の世界から戻ってこれなくなるという話もあった。聞こえぬふりをして、このままやり過ごすべきなのかもしれない。


 だが一方で、体の痛みがここにきて一気に増し、小さな無数の粒となって体の中を走り回った。もう限界だった。死ぬことは夢で、発狂は希望であった。どちらも叶わなければ、ただ苦痛しかない。誰かに助けてもらわなければ。


「誰か、誰か、ここから出して」


 結果、老人はその細くて冷たい感触の、その不思議な声の主ではない、誰か別の人間に懇願するような言い方をした。だが直後、こんな言い方をしたら声の主は不快に思うかもしれないという焦りが生まれ、それは急激に膨れ上がった。それは思いのほか短い時間で破裂して、この監禁状態から一秒でも早く抜け出したいという単純な欲求が、雹のようにばらばらと降り注いだ。


「そこに、いるのか?」


 老人は声の主に聞いた。質問の形をとった所に、まだ存在を疑っている理性の、最後の抵抗が感じられた。声の主はしばらく黙っていたが、やがて答えた。


「質問してるのは俺だろ、爺さん。そっちが先に答えてよ」


「質問? 質問って何ですか」老人は言いながら、再び顔を捻ろうとしたが、首筋から背中にかけて鋭い痛みが走り、やめた。


「家の場所だよ。この辺りに住んでいるのかって聞いたんだ」


 身体が震えはじめた。恐怖によるものではなく、肉体の生理反応のようだった。足が攣った時のような、痛みを伴う震えが、どこを震源にしてか分からぬまま全身に広がっていく。老人はほとんど泣き声になりながら、答えた。


「そう、道進んですぐです。助けてください。痛いんです」


「一人暮らし?」声は言った。


「そうです」と答えた。


「今も家には誰もいない?」


「いません」


「家族は?」


「いません」


 短いやりとりがあって、数秒の後、襟首を強く掴まれた。逞しい若者の腕が想像された。水たまりと水たまりが、ほんの一点の接触から一気に同化するように、老人の身体にはその誰かから力が流れ込み、強烈な星の瞬きのような電気信号が、脳に突き刺さるような感覚を覚えた。誰かの腕はぐいぐいと老人の身体を持ち上げていった。


 側溝の中の暗がりから顔が半分出た。出た先も夜には違いなかったが、闇の密度は低く、額に当たる風が心地よい。老人は生気を取り戻しつつあった。生きていける、という確信があった。手を伸ばして雑草をつかもうとした。雑草をつかんで、自分でも身体を引き上げようと思ったのだ。


 だが、その腕は反対に、何かに掴まれて動きを止めた。耳元で声がした。


「助けてやる。助けてやるが、今日からあんたは、俺の言うことを聞く。分かったか?」


 老人は目をぐるりと回した。相手が何を言っているのか分からなかった。


「助けてください」


 頓珍漢な返事をした。姿は相変わらず見えない。だが、そこに人間の存在があることを、老人はもう疑わなかった。掴まれた腕からは、どくどくという、脈の振動が確かに伝わってくる。その脈がさらに速度を増して、その勢いのせいか、視界が上下に揺れた。


「爺さん、俺の言う事を聞く気がないなら、今すぐ手を離さなきゃならない。あんたはこのドブの中に真っ逆さまだ」


「そんな、それは、ダメだ」


「なら、約束してよ、あんたは俺の言う事を聞く」


 どういう仕組みでそうなっているのか、なぜ姿が見えないのに声は聞こえるのか、触れることができるのか。先ほど聞いた「透明人間」という言葉が思い出された。そんな、まさか。


 だが、いずれにしても側溝の中に後戻りする訳にはいかない。助けてもらえるなら、相手が透明人間だろうが何だろうが、構っていられない。老人はほとんど清々しいと言ってもいいような気持ちで、言った。


「約束するから、助けてくれ。ここからすっかり、引き上げてくれ」

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