Scene #2 老人

 老人は痛みを感じたように顔を歪めた。誰かに助けてもらわなければ死ぬ、という思いと、不潔な自分の姿を誰にも見られたくない、という思いが、混ざり合わずにそこにあった。側溝に嵌ったままの状態が長く続けば、衰弱し、やがて死んでしまうだろうという恐怖と、例えばあと何時間自分は小便を我慢できるだろう、小便を漏らし、それが乾いた作業着はいったいどれほどの臭いを放つだろう、自分はどれだけ不潔な生物と成り果てるのだろうという、不安。この二つの感情は、老人の人生観そのものでもあった。


 生きるためには他人と関係せねばならず、だがその為には、不潔で醜い自分の姿を晒さなければならない。


 老人の考えを知ってか知らずか、やがて夜が訪れた。


 昼間に溜め込んだ熱気が、姿を消した太陽を追って、徐々にいなくなる。風が強くなった。海の波のような、躊躇のない風。それは尺八のような音を立てて田畑の上を滑り、側溝に隠された老人には気づかず勢いそのままに過ぎていく。それが幾度となく繰り返された。誰の声も聞こえず、足音も聞こえず、その気配すらないままに、ただ風と、それによってざわめく草の葉だけが、息づいていた。


 身体の触れている側溝の表面、固いコンクリートもだんだん冷たくなって、それに伴って筋肉が強張り始めた。この状態になってどれくらいの時間が経ったのか分からない。何も見えなかった。重苦しい草葉に遮られ月明かりは届かず、視界は濃紺に塗りつぶされている。ほぼ直立の姿勢だから膝や腰に負荷がかかることはない。だが、自重によってコンクリートに押し付けられている右半身全体に、脈打つような痛みが現れ始めた。


 老人は再び、人生の終わりを考えた。だがそれは、先ほどとはほとんど反対の意味を持っていた。その訪れは、自分の死は、思っているよりも「遠く」にあるのではないのか。


 死ぬのはいい。だが、自分はあと何時間、いや何日、ここで耐え続けなければならないのか。死を迎えるために、どれだけの苦しみを受け取らなければならぬのか。


 病院の待合で見た、皮膚が弾けて膿が垂れる床ずれの写真を思い出して、苦痛を感じた。自分の皮膚もああなるのではないかと思ったからではなく、あんな風に身体に穴が開くまで自分はこの体勢のままでいなければならないのかと考えて、恐ろしくなったのだ。


 老人は改めて、危機感を覚えた。どうにかしなければ、と思った。腕に力を込めて、身体を持ち上げようとした。何も起こらなかった。老人の身体は幅三十センチほどの側溝の中に、ほとんど隙間なく収まってしまっている。仮に身体を支える十分な筋肉があったとしても、地面側に手を付く事ができないので、ふんばりようがない。


 それならば、と、芋虫になった気持ちで、胸と尻とを動かしてみた。それは多少、叶った。だが、僅かに動かせるというだけで、何の意味もなかった。


 誰か、と老人は声を出した。側溝に嵌り込んで、初めて出した声だった。


 誰かいねえか、誰か。


 掠れ声が、口臭と共に側溝の中で反響した。老人はゾッとした。


 誰かっ、と精一杯に叫んだ。


 結果は同じであった。それは側溝内で響くだけで、どう考えても、道路を歩く人間にまで届くようには思われない。胃から食道にかけて、毛の生えたゴム鞠のような不安が持ち上がり、それが口元に達した時、ひっという小さな悲鳴とともに、老人は失禁した。無意識のうちに口が開き、唇が震え、頬が痙攣した。破綻の瞬間がすぐそこまで近づいていた。


 ……


 風に乗って、奇妙な歌が届けられた。


 口笛かもしれない。遠くでテレビが鳴っているようでもある。老人はその音に気付いた瞬間の記憶を、既に失っていた。数秒前に聞こえ始めたようでもあり、ここに嵌り込む前からずっと、聞こえていた気もする。


 分からない。側溝は硬く冷たく、だが、体温が移り始めたのか暖かくも感じる。分からない。老人はもう、何も分からない。


 順番待ちをしていたのだ、と思った。地獄を描く絵本、恐ろしい形相の鬼が、亡者の行列を監督している。亡者たちは、釜茹でにされるために、針の山を上るために、金棒で粉砕されるために、並ぶのだ。おとなしく、従順に。


 自分もその行列に並んでいた。死が間近にあり、死ぬことだけが目的だった。あと数人、沸騰する血液で満ちた釜の中に飛び込めば、次は自分の番だった。死ぬことができれば、身動きの取れない行列、逃げ出すことの叶わない行列、つまりこの側溝の中から、ついに開放されるのだ。だが、老人は恐ろしくなった。皮膚も骨も一瞬で溶けてなくなるはずの釜の中で、これまでに飛び込んだ大勢の亡者が、生きたまま茹でられ続けているのが見えたからだ。


 死は、一瞬ではなかった。死に辿り着くまでには、長い時間が必要なのだ。そういう事を考えている時に、老人はその奇妙な歌を知覚したのだった。


 口笛とも、テレビのノイズとも言えぬ音。地獄に垂らされた縄、突然現れた脱出路、どこに通じているのかは分からない。だが、この機会を逃せば、自分は死ぬだろうという確信があった。継続的な死。発狂するほど長時間に渡る、執拗な死。


「誰か、誰か、いるのか」老人は言った。「おい、誰か、おい」


 声はやはり、側溝の中だけで響いているようにも感じられた。だが、他に方法はない。夜は一層深くなっていて、気温はさらに下がり、先ほど漏らした小便も既に冷たくなっている。体の痛みも増した。この機会を失う訳にはいかない。


「おい、ここだよ、動けねんだ」全力で声をあげた。


 その時、耳の後ろで草をかき分ける音がした。

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