Scene #1 老人

 前触れなく場面は変わる。


 これは、夢の中の話だからだ。


 ……


 老人は、ある夕方、田畑を突っ切る道路の側溝に足を踏み入れ、転倒した。


 工場勤務の帰りで、缶ビール片手に歩いていた。酔いはまだ訪れていなかったが、疲れていた。急に高まった気温が、体力を奪っていたのかも知れない。老人はふらつきながら、道路の端の方を歩いていた。


 最後の一段を知らず降りた階段のように、突然床が抜けた。視界が回転し、衝撃が訪れる直前、老人は「転ぶ」と思った。実際に転んでから気付くのではなく、その直前に転倒を予測し、認識できたことを、老人はまんざらではなく思った。衝撃は、面的ではなく、線的だった。右半身に頭頂からくるぶしまでカッターナイフで切り裂かれたような痛みがあった。


 老人はしばらく、自分がどういう状況にあるのかを考えなかった。老人は自分に無頓着だった。自己顕示欲の裏返しとしての無頓着、偽物の無頓着ではなく、実際、自分に興味がなかった。だが、状況は徐々に明らかになった。興味はなくても、目は見えており、耳は聞こえており、身体は痛かった。老人は、道路に沿って嵌めこまれたコンクリ製の側溝に、挟まっていた。


 身体の幅と側溝の幅はほぼ同じで、そこにぴったりと落ち込んでいるために、身動きが取れない。視界は側溝の表面、日の沈みかけた暗がりの中で発光しているようにも見える白いコンクリートだけを捉えている。それほど古いものではない。ここ三四年の内に取り替えられたものだ。この人気のない農道に不似合いな、真新しいユンボが乗り入れ作業していたのを覚えている。


 あの時、新しい側溝が、重ねて置いてあった。のっぺりした灰色。昔ながらのコンクリに比べると、それは妙に艶っぽく、ニスを塗られているように見えた。だが、こうしてその表面を目の前にしてみると、特に美しくはなかった。油染みのような汚れが浮いていて、老人はシャボン液を思い出した。


 シャボン液。そう。粗雑な台所洗剤を水で薄めただけの、シャボン液。


 この道路を行った先、誰も近づかない暗がりに老人の家はあった。以前、確か十年ほど前、あるいは二十年ほど前、小学生か年長組くらいの見知らぬ子どもが二人、家に迷い込んできた事があった。視界の下半分が陽炎に揺れるような、暑い日だった。


 縁側などないので、窓を開け放って、サッシに腰を下ろしていた老人は、その揺らめく景色の中に二人の姿を見つけた。子どもたちの顔は陽炎の一部と化したように、歪み、ぼやけていた。老人は鳥や猫を呼ぶようにちょっちょっちょと口を鳴らし、手招きした。二人は動かなかった。


 老人はサッシから降り、台所に行くと、醤油皿に液体洗剤をわずかに貯め、蛇口を捻って水を加えた。窓際に戻ると、薄暗い室内から見れば発光しているとしか言いようのない四角く切り取られた夏の風景の中に、皿を持った手をつきだした。「シャボンだよう。シャボンだよう。ちょっちょっちょ」眩んだ目を瞬きながら、老人は言った。目が慣れた頃には、子どもたちの姿は既に消えていた。


 ストローを忘れていたな。ああ、ストローがなけりゃ、シャボン玉は吹けねえ。老人は側溝の表面を見ながら、今更ながらに思った。その後しばらくぼんやりして、そして仕方なく、自分の置かれた状況を考えた。さて、どうしたもんか。


 足を踏み外して転倒するという、出来事の単純さとは裏腹に、事態は深刻であった。


 老人は早々に、人生の終わりを考えた。


 もとよりここは人通りが殆どない。あの集落に住むわずかな人間と、ここらの田畑の持ち主以外には誰も通らない道だ。既に日も暮れかけている。このまま何十分、何時間待っていた所で、人一人通らないという事態は、十分にあり得た。それに、運良く誰かが来たとして、その誰かが、自分を見つけてくれるかどうか。完璧なまでに側溝に嵌り込んだ自分に、気付くだろうか。


 五月に入り気温は上昇した。それに併せて雑草の背丈は一気に伸び、密度を増していた。側溝は、鬱蒼たる草の葉に隠れ、見えづらかった。歩き慣れた道を、今日に限って足を踏み外したのも、そのせいだったのかもしれない。


 これは、どうしたものか。草に蓋のされた側溝の中で老人は考えた。だが実際、どうしようもなかった。七十歳に届きそうな身体には、ここから脱する力など、残っていなかった。


 いや、かつてもそんな力があったのかどうか。自分の貧相な身体を思い、老人は溜息をついた。この身体に、一度でも満足な筋肉をまとったことがあっただろうか。


 四十を超えた辺りから、まるで餓鬼のように下腹だけに脂肪が溜まった。痩せているだけに、それは地獄をさまよう亡者や、アフリカで飢える子どもを思わせた。


 おまけに自分は、不潔だった。


 清潔であった事がなかった。


 老人は眼球だけを移動させ、身に着けている作業着を視界に入れた。そのクリーム色の生地は、オイルや、手垢や、あるいはこぼした味噌汁などで汚れている。


 青々と茂る植物から、むっとするようなにおいが立ち上っている中でも、作業着が悪臭を放っていることが分かった。最後に洗濯をしたのはいつの事だったろうか。ただ洗濯機が並んでいるだけのコインランドリー。テーブルの上に、吸殻でいっぱいになったアルミ製の灰皿と、誰かが放置して、その後誰も片付けないまま腐っていったコンビニ弁当の残りを見た記憶がある。丸いマカロニが、蛆虫に見えた。あれはいつのことだったのだろう。


 しかし、仮にそれが昨日だったとして、この作業着が昨日洗濯されたものだったとして、なんだというのか。作業着は事実、いま、くさいのだ。

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