透明考
@roukodama
Scene #0 透明になった男
「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」
(江戸川 乱歩)
夢の中の話だと断れば、人はどんな物語も受け入れる。
これは夢の中の話だ。
……
彼はその時、鏡の中で顔の輪郭が曖昧になっていくのを、自分の問題だと考えた。
貧血か、目の異常か、いずれにせよ自分の何かがおかしいに違いない。彼はそのとき酒を飲んでいたので、酔いのせいかとも考えた。
目を閉じて、空中を回転するようなあの独特の感覚があるか、彼は確かめた。それほど酔ってはいないようだった。頭痛もなく、立ちくらみを覚えることもない。
彼はため息をついて、目を開けた。
鏡には自分が映っていなかった。普通なら、身体に遮られて見えないはずの、対面の壁紙が映っていた。貼られたポスターが、壁に刺された画鋲に引っ掛けられた鍵が、そして中心には、鏡が映っていた。
鏡越しに見るいつもの部屋、見慣れた風景の中に、自分だけがいなかった。
驚きのためか、吸い込む息がひゅっと変な音をたてた。視線を落とすと、それが、鏡の中だけの現象でないことが分かった。
右手で左手のある辺りを探ってみると、確かにそこにあった。何歩か歩いてみると、歩けた。絨毯の上に、自分の足の形の窪みができて、消えた。太ももの辺りを探った。寝間着のスウェットパンツを履いていたはずだ。
だが、感触は奇妙なものだった。それはスウェットというよりは、人間の皮膚に近いもののように感じた。茫然と手を離すと、辺りを見回した。
部屋の中央、ベッド脇には丸い小さなテーブルがある。その上に、飲みかけの赤ワインと煙草の箱が置いてある。近づいて、恐る恐る手を伸ばした。指先がグラスに触れる感触があった。手に取り、眼前に掲げた。不思議な光景が目の前で展開された。グラスが、宙に浮いていた。
彼は事態を理解した。特に無理なく、理解した。ワインを飲もうとグラスを口に近づけたが、腕も見えず、唇も見えない中では、それすらもなかなか難しい作業であった。
彼は笑った。
一言で言えば、愉快だった。
そして、自分の笑い声が聞こえていることに、新鮮な驚きを感じた。あ、あああ、ああ、と試しに言ってみた。声は健在らしい。いよいよ愉快な気分になった。
恐ろしいとは思わなかった。やはりもっと飲みたいと、自分の顔をワイングラスにゆっくりと近づけていき、唇がその縁に達すると、グラスを掴んで傾けた。
口内に、むっとするワインのにおいが広がった。噛むように勿体つけて、飲み込んだ。もう一度口に含み、飲み込むと同時に視線を落とした。食道を流れ落ちるワインは、見えなかった。
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