第35話 お昼寝


「……どうなっているの。降魔は一つの世界に一体しかいないはずでしょう? 話が違うじゃない」


 以前ネロアから聞かされていた説明とは違うこの黄昏の世界の状況に、燐子は微かな不信感を表情に滲ませた。


「きっとあの降魔は五体集まることで一つの存在なんだろうね。たまにだけどそういうタイプの降魔もいる。どのみちあの程度の魔力じゃキミの敵じゃないだろう? 取るに足らない相手さ」

「何その言い方」

「え?」


 ネロアの口ぶりに燐子は不快感を隠さなかった。

 それは普段感情を表に出すことのない彼女にしては珍しい、いや初めてのことだった。


「私も降魔も命懸けで戦ってるのよ。そういう言い方しないで」

「どうしちゃったのさ急に。僕、何かおかしなこと言ったかい?」

「相手を侮辱するようなことを言わないでと言ったの」


 青い髪の少女は同色の冷たい瞳でネロアを見つめて言い放つ。


「……? 別に君のことを悪く言ったつもりはないよ。あの程度の降魔がキミに敵うわけがないという事実を言ったまでで――」

「だからっ!」


 突然の大声に驚いたネロアが猫のような長くて白い体をビクリと震わせた。

 燐子の叫びがネロアの言葉をかき消して静かな世界にこだまする。


「ど、どうしちゃったんだよ燐子。なんだか今日、変だよ」


 ネロアの言葉を聞いて聞かずか、燐子はその場で黙り込んだ。

 口を閉じた少女を前に、なんとなく気まずくなったネロアは取り繕うように。


「あ、もしかして休日にこんなことさせてるから怒ってる? 休みの日ぐらい燐子も友達と遊びに行ったりしたいよね」

「……もういいわ」


 少女の口調は、もういつものように冷静なものだった。


「そう? 何か要望があったらいつでも言ってね! 燐子とはいい関係を築いていきたいからさ。……さて、見失うと厄介だ。残った降魔を追いかけよう」

「もういないわ」

「ああっ、本当だ! ど、どうしよう……」


 二人が話している間に、降魔はとっくにどこかへと飛び去っていた。もはやその姿はどこにもない。


「行きましょう」


 だというのに一切取り乱すことなく少女は空高く浮かび上がった。

 そして迷うことなく街の上空を飛んでいく。


「あ、待ってよ燐子!」



「いないなあ」


 消え去った降魔の捜索を開始してしばらく経ったものの、その姿は依然として見つからなかった。


「何か手掛かりでもあればいいんだけどね。まったく、こんな広い街の中からあの小さな降魔を見つけるなんて至難の業だよ。しかも仲間が倒されたことで向こうは相当警戒してるはずだ。そう簡単には姿を見せないだろうね」


 上空から血眼になって街を見下ろすネロアとは対照的に、燐子はどこか気の抜けた様子で宙を漂っていた。

 しかしそんな燐子が唐突に動きを止める。


「どうしたのさ燐子。もしかして降魔が見つかったの?」


 ネロアの問いに答えることもないまま、燐子が突然方向転換して地上へ向かっていく。


「あ、どこ行くのさ!」


 ネロアが慌てて燐子の後を追いかける。

 地上に辿り着くと、そこは芝生に覆われた小高い丘だった。

 少女はそこで大の字に寝転がっていた。


「何してんのさ燐子」

「お昼寝」


 燐子は気持ちよさそうに目をつむりながら答えた。


「ふざけてないで降魔を追いかけてよ」

「あっち」


 そう言って燐子が右手で右の空を指刺した。


「え?」


 少女の行動の意味がわからず、ネロアがポカンとする。


「あっちにいるよ。降魔」


 燐子に言われた方角を見つめたネロアが瞳を四方へ動かしたものの、降魔の姿はその夕焼け色の瞳には映らない。


「いないよ」

「いるよ」


 妖精のような外見の降魔はネロアの視界の中には確かに存在しない。そのことをネロアが告げると少女はすぐさまそれを否定した。ネロアは訝しがりながら燐子に尋ねる。


「なんでわかるの?」

「魔力を感じるから」

「魔力を……? 僕には感じられないけど……」

「ネロアは鈍いのよ。降魔はどこか建物の中でじっと身を隠してる。賢いよ。無駄な魔力消費を抑えているのね」

「そんなことまでわかるの?」

「ええ」


 少女は平然と答えた。


(なんて魔力察知能力だ。視認すらできないほど離れた位置からそこまで詳細にわかるなんて……)


「よかったねネロア」

「え?」

「ピクニックできて」


 突然そんなことを言う燐子に、ネロアは戸惑いを見せる。


「……これだけ天気がいいとピクニックも楽しいだろうね。この世界でさえなければの話だけど」

「そう? 私はこの世界でも十分楽しいけど」

「僕はそんなに楽しめないよ。燐子ほど強くもないし」

「私が守ってあげるから大丈夫よ。たまにはもっとのんびりしましょう」


 ネロアに微かな不安がよぎる。

 まだ降魔を倒してすらいないのに燐子はずいぶんとのんきだった。


「……この世界の降魔を倒さないと元の世界へ帰れないんだよ? そんなのは嫌でしょ?」


 目を閉じて寝転んでいた燐子がおもむろに上体を起こし、冷たい目でネロアを射抜く。


「なに"倒す"って。……殺すんでしょ」


 どこか不機嫌そうな少女の呟き。それはボリュームこそ小さいものの、不思議とよく聞通る声だった。

 普段の燐子だったらとても言いそうにないその言葉に、ネロアは内心驚きながらも冷静に返す。


「殺されないために殺すんだよ。降魔は人を殺す生き物だ」

「ネロアはいいよね。いつも見てるだけで。自分の手は決して汚さない」

「僕にはキミと違って戦う力はないんだ。たとえ戦いたくてもね」

「ねえネロア。いつも戦ってる私の気持ち、考えたことある? ……いや、私ってそもそも戦ったことなんてあるのかな」

「え……。それってどういう……」


 それはネロアにとって思いもよらない言葉だった。

 今まで共に降魔と戦い続けてきたはず少女が何を言いたいのか、ネロアには皆目見当もつかない。

 両者の間にどこか不穏な空気が漂う。


「気付いてしまったの。私がやってきたのはただ虐殺。か弱いものたちへの一方的な暴力」

「そんなことは…!」

「気が付かなかった。降魔にだって感情はある。……あの降魔、怯えてた」


 燐子の中にあったのは後悔の念だった。知らずにしていたこととはいえ、自身が今まで降魔たちにしてきたことを、燐子は今になって後悔していた。

 少女は先ほど自身が指差した方角を見つめながらポツリと。


「私はもう戦わない」


 それはネロアにとって衝撃的な言葉だった。


「た、戦わないだって!? そんなことしたらキミはずっとこの世界に閉じ込められるんだよ。こんな寂しい世界でずっと暮らさなきゃいけないんだよ!? 親しい人だって一人もいない。そんなこと、本気で言ってるの!?」

「じゃあ同じじゃない。ここでも向こうでも」


 感情を感じさせない表情で、感情の籠らない声で少女はさらりと言い退けた。


「ほ、本気なの燐子?」


 燐子はその問いには答えず、再び芝生に寝転がると、胸の前で両手の指を組んだ。

 燐子は至って真面目だった。彼女は永遠にこの世界で生きていくことになっても構わなくと本気で思っていた。どうせどちらでも同じことだ、と。いや、むしろ人のいないこの世界の方が彼女にとっては暮らしやすい可能性すらあった。


「……本気なんだね」


 濁りない彼女の瞳に、ネロアはその覚悟を悟った。


「ねえ燐子。キミの強さは本物だ。だから一つだけ聞いてほしいことがある。……とても大切なことだ」


 ネロアがそこまで断りを入れても、燐子は眉ひとつ動かさない。ネロアは気にせずに続ける。


「近い将来、とてつもなく強い敵が君たちの前に現れる。それは普通の魔法使いには手に負えないほどに強力なはずだ。まともに戦ったところできっと傷一つつけられないだろう。……でもキミは違う。キミは魔法使いたちの中でもズバ抜けて強い力を持っている。キミの力があればもしかしたらその敵とも戦えるかもしれないんだ。だから……!」

「強いものが戦わなきいけないなんてルール、どこにもないでしょ」


 ネロアの熱心な説明も、少女にとってはどこ吹く風。

 自らの声が届かない少女に、ネロアはガクリと肩を落とした。

 燐子にとってネロアは、数か月というごく短い間とはいえ、非日常の中で共に戦った仲間だった。初めて黄昏の世界に迷い込んだ燐子を助けたのもネロアだし、燐子に魔法使いの力を与えたのもネロアだ。誰かと共にする時間の乏しかった燐子にとって、それは楽しい時間だったはずだ。自分がこの世界に残ればネロアだって向こうの世界には永遠に帰れない。ネロアを道連れにしても後ろめたさがないと言えばウソになる。

 うなだれるネロアの様子を横目で見ていた燐子が。


「……わかったわ。あなたまで道連れにするのは悪いものね」


 そう言って燐子は立ち上がった。


「行きましょう」

「えっ! 戦ってくれるの?」

「……さっさとして。気が変わるわよ」

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