第31話 燐子とネロア
カランカラン……。
甲高い音が駅のホームに響き渡る。
線路に降りる直前で動きを止めた燐子が、薄暗い駅のホームへ振り返る。
(空き缶の転がる音……。さっきの売店のあたりからだ。……風で缶が倒れたのかな)
カランカラン。
再び缶の転がる音が聞こえてきた。
(また……。偶然じゃない。誰かがいる……?)
周囲を警戒した燐子が薄暗いホームを進み、売店まで戻ってくると……。
(誰もいない……)
売店には人影も見つからず、静かなものだった。カウンターの上には燐子が先ほど置いた硬貨が乗っている。
(勘違いだったのかな。……あまりのんびりするわけにもいかない。次の駅を目指そう)
燐子が売店を去ろうとすると。
――カランカラン。
空き缶が地面を転がる音が再び鳴った。
(……もっと奥だ)
青い髪の少女は売店を通り過ぎると、薄暗いホームをさらに奥へと進む。その間も缶の音は鳴りやまない。風で倒れたにしては、大きすぎる音。まるで投げつけられたかのような甲高い音が、断続的に響いてくる。明らかに不自然な状況に、何者かの存在を感じた燐子は、警戒を一層強めた。
しばらく進むと少女の前に駅の天井を支える巨大な柱が現れた。柱の奥からはガサガサと物音が聞こえる。足を止めた燐子が様子を窺っていると……。
柱の影から勢いよく飛び出した缶が、燐子の目の前を横切り、壁にぶつかって地面に落下した。
(誰か、いる……!)
何者かの存在を確信した燐子が、壁際から柱の奥を覗き込む。柱に沿っていくつものゴミ箱が並んでいた。そしてゴミ箱の前には、小さな影がひとつ。
立っていたのは、全身に深緑色のコケが生えた、幼い子供くらいの背丈をしたなにか。床につきそうなほどに不自然に長い両腕。その片方を、缶専用のゴミ箱の中へ伸ばし、中から空き缶を取り出す。指のない丸みのある先端で器用に缶を握り取る。
緑の異形は取り出した缶を逆さまにする。缶の中からこぼれるものはなにもない。空っぽだと確認すると、緑のコケに包まれた長い腕をしならせ、壁へ向かって空き缶を投げつけた。
跳ね返った空き缶がコロコロと駅のホームを転がる。
転がる空き缶を見つめていたコケだらけの生き物が、不意に動きを止めると油の切れたロボットのようなぎこちない動きで、燐子へ顔を向けた。
「誰えー?」
まるで子供のような声。
容貌からして明らかに人ではない。
一目で異常を感じ取った燐子が、身をひるがえし、駅のホームを引き返す。
ぐんぐん遠ざかる少女の背中を、黙って見つめる全身緑の異形。その瞳が、赤く不気味な光を灯した。
改札口まで駆けてきた燐子は、閉じた改札扉を勢いよく飛び越え、街へ躍り出る。
街の中は、やはりどこも停電しているらしく、灯りという灯りがついていない。無人の街は、ひどく静かだった。助けを求めようにも、その相手がいない事実に燐子の焦りは募っていく。
すでに日の傾きかけた薄暗い街を、少女は息を切らせながらガムシャラに走る。長時間歩いた後だけあって、疲労の色は濃い。燐子は重だるい体に鞭打って、硬いアスファルトの歩道を走った。
時折背後を振り返り、さっきの異形が追ってこないことを確かめる。
(追っては来ない……。でも念のため、このままどこかへ隠れよう)
走り続けていると道路脇に高層マンションが見えてくる。
(あそこだ!)
マンションの入り口に駆け込んだ燐子は、階段に座り込むと、乱れる息を整えた。
(さっきのあれはいったい……。いえ、そもそもなぜあんな得体のしれない生き物が……。街に人がいないことと関係あるの……?)
つい先程遭遇した怪異に対して、思考を目まぐるしく巡らせる。
(いや、それ以前に、つい逃げ出したけれどそもそもあれは危険な生き物だったのかな)
その時、ふと、上階で物音が聞こえた。
「……え?」
現実に引き戻された燐子が、上の階を見上げる。
(なに……)
固唾を飲み沈黙していると、上階から聞こえていた音は次第に燐子に近づいてきた。カランカラン……。
(缶の転がる音? なんでこんなところで……)
階段を転がり落ちてきた空き缶が、燐子の視界に入る。缶は止まることなく転がり続け、そのまま燐子の足元を通り過ぎると道路へと転がっていく。
その様子を緊張の面持ちで見守っていた燐子の背後から、
「ねえ誰~?」
燐子の肩に緑色の手が乗っかる。
振り向いた燐子は、赤い瞳と目が合った。
「――っ!」
緑の腕を振り払った燐子がマンションを飛び出す。カツンカタンと硬い足音を鳴らしながら誰もいない住宅街を駆け抜ける。
(なぜ場所がわかったの……!?)
誰もいない歩道を走っていると、上空からなにかが降ってくるのが見え、燐子は慌てて足を止めた。
「だーーーーれーーーー?」
上空から降ってきた緑の異形が、燐子の前に降り立つとその顔をじっと見つめた。
「ニンゲン……?」
一言漏らした怪物の赤い目が、一層強く輝く。険しい眼光から殺気が漏れる。
ただでさえ長い怪物の片腕が、さらに伸び、振り上げられる。
身の危険を感じ取った燐子が咄嗟に背後に飛び退くと、しなるように振り下ろされた腕がアスファルトの地面叩きつける。直前に燐子の立っていた地面が砕けた。
(な、なんて力……!)
えぐられた地面を見て燐子が顔を歪めると、怪物がもう一方の腕を宙へ振り上げる。
さっきよりもさらに早く振り下ろされる攻撃に、燐子はまるで反応できなかった。
(は、早い……!)
緑の腕がぶつかる瞬間、燐子の胸に白い小さな生き物がぶつかる。
「きゃっ!」
尻餅をついた燐子の目の前を、怪物の腕が通り過ぎる。緑の腕が再び誰もいない地面を叩きつけた。
「大丈夫かい!?」
燐子の胸の中で、橙色の瞳をした猫のような白い生き物が燐子に投げかける。
「え、ええ」
「あああ……」
地面にできた二つ目の穴を見つめ、怪物は恨めしそうな声を上げた。
「このままじゃやられる! 僕の背中を触るんだ!」
白い生き物が黒い独特な紋様の描かれた背中を差し出す。
「せ、背中?」
「いいから早く!」
有無を言わせぬ迫力に、燐子はわけもわからぬまま白猫の背中に触れた。
その瞬間、少女の全身を眩い光が包み込む。
「あああ?」
この隙を怪物は見逃さない。
振り上げた両腕を無防備な少女目掛けて思い切り振り下ろす。
自身に迫り来る攻撃に、光の中の燐子が顔を背け、片手で顔を覆った。
直後、怪物の攻撃が少女に直撃した。
「あー!」
攻撃が命中し、満足げに声を漏らす怪物。
「……あ? ………………ああ!?」
しかし、突然驚きの声を上げ、煌々と輝く真っ赤な両目を見開いた。
打ちつけたはずの腕は少女の前で止まっていた。しかも少女には目立った外傷もなかった。驚いた怪物が逃げるように手を引っ込める。
「ど、どうなって……」
状況を理解できない燐子が戸惑っていると、
「よし、成功だ。今のキミなら降魔にも負けない! 戦うんだ!」
「ええ!? 戦うって私が? あと降魔ってなに?」
「あの怪物のことさ。さあ降魔を倒して!」
「そ、そんなこと急に言われても……」
「うあああっ!」
戸惑う燐子の無防備な顔に、緑の拳が撃ち込まれた。不意を疲れた燐子はまるで防御もできずにモロに攻撃を喰らった。
「ううっ!」
渾身の攻撃が直撃し、歓喜した降魔がもう一方の腕を高らかに上げる。
少女の顔面に直撃した拳が引っ込むと、少女は無傷でそこに立っていた。
「ああっ!? ナ、ナンデ」
綺麗な顔で悠然と佇む少女。
燐子は攻撃を受けた自身の顔に触れ、不思議そうな顔をする。
「痛みがない……。ね、ねえ、どうなっているの?」
「僕はネロア。キミは魔法使いに覚醒したんだ。……しかもどうやらキミは魔法使いの中でも特別強い力を持っているらしい」
「魔法使い……」
ネロアは燐子の魔力を探る。少女の全身を包む魔力は、はるか天空へと立ち上り、その先が全く見えない。
(な、なんていう魔力だ。これほどまでの魔力を持った子、初めてだ)
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