第30話 駅


(なんだろう、これ……。……穴?)


 穴の向こうにかざした手を、燐子はゆっくりと上下に動かす。穴は不透明で、穴と重なった部分は隠れて見えなくなった。

 手を戻した燐子は、かすかに戸惑いを見せながらも、人差し指を残して他の指を折りたたむ。少女の指先が漆黒の穴へ伸び、そして不用意に触れた。

 燐子の全身を包む浮遊感。

 同時、周りの景色が暗黒に包まれる。


(これは……)


 少女が暗闇に視線を這わせていると、すぐさま闇が引き、視界が開く。一瞬の出来事だった。

 闇から開けるとそこは屋敷の廊下奥。

 ついさっきまで見ていたのと同じ光景。

 しかし変化が一つ。


(穴がない……)


 不気味な現象に固まる燐子の前から、一瞬にして黒い穴が消えていた。


(なにが起こったの……)


 自身の体に触れて無事を確かめるが、別段おかしなところはない。

 振り返ると、窓から差し込む夕陽が廊下を赤く照らしていた。これも先ほどまでと変わらない光景。しかし燐子の内心は穏やかではない。

 いつもよりも早い時間ではあったものの、これ以上ここで時間を潰す気には到底なれず、燐子は逃げるように屋敷を後にした。


 屋敷の敷地を駆け抜けると、そのまま街へ向かって長い下り坂を走る。閑静な住宅街の景色がどんどん後ろへ流れていく。その最中、燐子は、先ほど自らが体験した奇妙な現象を思い出していた。


(でもなんだったんだろう、あの穴。急に消えてしまったけど……。……あ。もしかして、あれが)


 なにかに気づいた燐子が足を止め、


「お化け、だったりして」


 静かな住宅街に少女のつぶやきが響いた。

 最近話題になっている町屋屋敷のお化け騒動。自分はそれに巻き込まれたのではないか。そんな考えが頭の中をよぎったものの。


(そんな訳ないか。お化けというより、ただの穴だったもの)


 すぐに心の中で自分の言葉を否定すると、少女は早歩きで坂を下り出した。制服の背中まで伸びた青い髪が揺れる。


(でもお化けの噂と無関係とも思えない……。まあ調べようにも、あの穴、もう消えて無くなってしまったけれど)


 燐子は内心、あの穴の正体を知りたい気持ちが芽生えたものの、穴が消えてしまった以上、それは無理だろうと諦めた。

 そうこう考えているうちに長い下り坂が終わった。


(…………………………。なんだか……)


 長い坂の麓で、少女は赤い夕陽に照らされながら、かすかな違和感を感じた。


(静かだ)


 閑静な住宅街を抜けて、街中に戻ってきた。普段ならこの時間は帰宅する学生や会社員でごった返す。しかし燐子の周囲には人の姿がまったくない。

 いつもなら車で溢れ返って混雑する車道にも車は一台も走っていない。


(どうなっているの)


 異常を感じた燐子が警戒しながら周囲をぐるりと一周見回す。

 動く影はなに一つない。街は異様とも言える静けさに包まれていた。


(おかしい。なぜ誰もいないの?)


 自らの立てる足音以外、なに一つ音のない世界を、少女は足早に駆け抜ける。時折背後を振り返って、周囲を警戒しながら。

 どこまで走っても、街は不気味に静まり返ったまま。

 途中、横断歩道に差し掛かるも、信号は点灯していない。


(停電してる……? 交通網が機能してないの? だから車が見当たらないのか……。いや、違う。それだと人までいないことの説明がつかない)


 車両は一切走っていないものの、念のため左右を確認しながら横断歩道を駆け抜ける。


(……とにかく家に帰ろう。もうすぐ日が暮れてしまう。この調子だと、じきに街の中は真っ暗……。そうなったら身動き取れない)


 途中、通り過ぎる店舗を横目に、駅を目指す燐子。どの店も照明は点いておらず、店員も見当たらない。

 その様子に燐子の胸の中で嫌な予感が膨らんでいく。


(まずいな……)


 異様に静まり返る街を駆け抜け、駅にたどり着いた。ここまで誰ともすれ違っていない。それどころか人影すら見かけなかった。

 燐子はすかさず、改札に定期をかざした。しかし改札口は開かない。どうやらここも電気が落ちているようだ。


(やっぱり……)


 改札口から駅構内を覗き込むが……。


(ここにも誰もいない)


 構内にも人影一つ見当たらない。

 しかたなく閉じた改札扉をまたぎ、駅構内へ侵入する。

 電光掲示板も消えていて次の列車がいつ到着するのかもわからない状態だった。


(この様子だと列車も駄目そう……)


 おそらく電車が到着することは無いんだろうなという落胆を胸に、少女は線路に近づく。ホームと線路の端ぎりぎりに立ちながら、線路の先を見る。地平の果てまでなにも見えない。やはり電車が到着する様子はまるでなかった。


(歩いて帰るしかないか……。何時間かかるんだろう)


 燐子はしばらく逡巡した後、思い切って線路に降り立った。

 自宅へ向けて線路の上を歩き出す。徒歩で帰るには果てしなく遠い道のり。その一歩を少女は踏み出した。


(男の子が線路の上を歩く映画を昔見たっけ。好きだったなあの映画。まさか自分が同じことをするとは夢にも思わなかったけど……)


 線路の上を15分~20分くらい歩くと次の駅が見えてくる。もうそれを四度繰り返した。最寄り駅まで、あと六駅。先はまだまだ長い。日はだいぶ傾いていた。もうじき夜が来る。


「ふう……」


 四つ目の駅に着いた時、燐子は深く一息吐き、額の汗を手の甲でぬぐった。


(……疲れた。喉乾いたな)


 線路の上から顔だけを出し、薄暗い駅のホームを覗き込む。

 自動販売機が見える。――が、やはり電気は通っていない。正面パネルは真っ暗だった。


(ダメか……)


 落胆を隠せない燐子。

 しかし自販機の横には駅の購買があった。

 広さにして二畳程度。狭い店舗ではあったが、店内には所せましと商品が並んでいる。雑誌、新聞、お菓子、弁当、サンドイッチ、菓子パン、ペットボトル……。


(あっ……)


 いくつも並ぶペットボトルに、燐子が顔を明るくする。


「ん……」


 疲れた体に鞭を打ち、線路からホームへよじ登ると、購買へ向かった。

 緑茶、紅茶、麦茶、オレンジジュース……。その他さまざまな飲み物が並ぶ中から、燐子は麦茶のペットボトルを引き抜いた。

 ふたを開け、飲み口に口をつける。少女の喉がごくりと上下した。


「……ぬるい」


 冷蔵棚の冷房機能は停止しており、陳列されている飲み物はすべて常温だった。保温器の中も同様らしく、中に並ぶミルクティーのペットボトルや缶コーヒーなど、すべて常温。保温器に書かれた温かいの文字が虚しく見える。


(まあ贅沢は言えないけれど……。……それにしても、この街の様子はなんなんだろう。どこまで行ってもずっと停電しているし……。街全体の電気が駄目になっているのかな。だとしてもこんなに長時間復旧しないなんて……。それにいまだに誰も見つからない。街からすべての人がいなくなったとでも言うの? そんな馬鹿な……)


 不可解なことばかりだったが、それ以上考えても答えが出るわけでもなく、少女は静かに麦茶を喉に流し込んだ。

 ペットボトルが空になると、燐子は財布から麦茶の代金を取り出して、誰もいないレジにそっと置いた。


(とにかくできるだけ早く帰ろう。……家も停電してるかな)


 燐子が駅のホームから再び線路に降りようとした時、


『カラン……』


 甲高い音がどこで響いた。

 ピタリと動きを止めた燐子が、慌てて構内へ振り返る。

 確かに聞こえた物音。

 燐子の青い瞳が静かに駅の構内を凝視する。

 視界の中にはそれらしいものは見えない。


(奥か……?)


 謎の物音の出所を探るため、少女は薄暗い構内を奥へ向かって歩き出した。

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