第14話 魔力のさみだれ


「pigeeeeeーーーーーーーーー!」


 目の前の怪物が絶叫と共に、閉じていた瞳をグワッと開く。

 降魔の膨大な魔力が、両腕を伝って私の体に流れ込む。

 すごい。魔力を奪い取った瞬間、さっきまでの不調が嘘のように消えていく。みるみるうちに全身に力がみなぎっていく。


 私の腕の中で暴れる巨大な目玉が、血走って赤く染まっていく。同時、目から粘度の高い汁が流れ出る。

 降魔が暴れるたびに大量の汁が飛び散り、ビシャリビシャリと私の顔に降り注ぐ。


「よ、よせええぇぇぇっ! 離せええええぇぇぇぇっ!」


 この世のものとは思えない、おぞましく血走った巨大な眼(まなこ)が、至近距離から私を恨めし気に睨みつける。


「うわあぁぁっ怖っ!? 怖いぃぃぃぃっ! 生ぬるいぃぃぃぃぃっ!」


 恐怖と不快感の同時攻撃に、私は反射的に顔をそむけた。

 降魔から流れ込んでいた魔力がピタリと止む。


「なにしてんのさ律火! 早く残りの魔力を奪うんだ!」

「だって気持ち悪いしっ!」


 背後から急かしてくるネロアに、背中越しに返事を投げ返す。

 私の手の中で、なおも暴れ続ける目玉の降魔。激しく飛び散ったぬめりのある液体が手にかかり、降魔を掴んでいた手がつるりと滑る。


「あああっ!?」


 束縛から免れた降魔が、フラフラと力なく上空へ逃げていく。


「ま、魔力がぁ……。こ、この私の深淵なる魔力がぁ……」

「ああっ! なにしてんのさ律火!」

「ちょっ、待ちなさい、怖い顔の降魔!」

「ひどいよ……」


 切なげな声を漏らして遠ざかっていくオレンジの背中へ叫ぶが、もちろん止まる素振りなど見せない。

 学校の屋上に取り残された私とネロア。二人そろって、突起が大量に生えてデコボコした降魔の背中を、見上げることしかできない。


「あーあ。律火がノロノロしてるから」

「あーうっさいうっさい。手が滑ったんだから仕方ないでしょ。なにもしてないくせに偉そうにしないで」

「時々応援してるじゃないか。背後で」

「そんなことしたって意味ないでしょ!」

「冷たいなあ。でも逃がしたらまた面倒になるよ。急いで追いかけるんだ!」

「あーもう……。めんどくさっ」


 私はうんざりしながら、顔にべっとりとまとわりつく生ぬるい粘液を手の甲で拭う。


「さあ早く早く!」


 私の背中を二本の白い前足で押して、急かしてくるネロア。


「もー、ちょっと慌てないでよ。顔がベタベタして気持ち悪いんだから」


 まったくこの白猫は……。いい気なもんだ。自分だけ安全な位置からさ。

 私はじっとりとした瞳で露骨に不満をあらわしながら、ネロアの橙色の瞳を見つめた。ネロアはそんなことは意にも介さず、私を残して一人浮かび上がる。白くて柔らかそうなお腹が上空へ離れていく。


「ちょっと待ってよ!」


 学校の屋上から靴の底が離れる。

 私はすぐにネロアの横まで浮かび上がると、


「ねえねえネロア、ちょっと聞いてよ」

「どうしたの?」

「さっきわかったんだけどさ。あの目玉、体温あるよ。恒温生物だよ」

「いや、太陽に照らされて温まっただけの変温生物かもしれないよ」

「あーそうか。ずっと空に浮いてるからね。たしかにそっちの線もありえるかも」

「そうそう」

「そんなこといいから早くトドメを刺して!」

「ほら、律火がのんきに話してるから聖に怒られちゃったじゃないか」

「なんで私のせいになるのよ。ネロアだって楽しそうに話してたじゃない」

「もーいいから早くしてよ!」


 今度はつぐにまで怒られる。

 大鎌を構えたつぐ、そしてその横の聖さんが、降魔の逃げ道をふさぐように空に立ちはだかる。

 私たちはオレンジの怪物を前後から挟み撃ちする形になった。


「ふむ。逃がしはしたけど、さっきので魔力をかなり奪えたようだ。いい感じだ」


 ネロアの言葉に私も目を凝らして降魔の魔力を探る。たしかに最初とは比べ物にならないくらいに、降魔の魔力が落ちている。対して私の体中には魔力がみなぎる。いまや私が身にまとう魔力のほうが降魔より俄然大きい。パワーバランスは完全に逆転していた。

 私はゆっくりと飛びながら降魔へ距離を詰めると、


「さあ、もう逃げ場がないわよ」

「くそぅ……」


 私たちに前後を挟まれ、降魔が恨めしそうな瞳でうろたえる。ボディの下の方からは濁った汁がネトネト垂れている。糸を引きながら空を落下していく粘液を見てると、背筋がぞわぞわする。うう……生理的にきつい。


「チャンスだ律火! 降魔は弱ってる。一気に残りの魔力を奪い取るんだ!」

「でもさあ、なんか汁とかこぼれてて気持ち悪いよ。それに魔力はもう十分手に入ったし、無理に倒さなくてもよくない?」

「降魔を倒さなきゃ向こうの世界に帰れない。僕らには勝つ以外の選択肢はないんだ」


 しかたない。こんな遊ぶところもなさそうな世界に閉じ込められても嫌だしね。


「pipipi……」


 降魔が警戒するように電子音を発する。

 いまや降魔と私の魔力量は完全に逆転している。攻撃力も防御力も私のほうが上だ。降魔もそれを理解しているのだろう。その巨大な瞳に先ほどまでの余裕はなく、私から逃げるように後ずさっている。しかし逃げ場はない。背後にはつぐたちが待ち構えているのだ。


「悪いけど残りの魔力も貰うよ」


 その一言と共に私が飛びかかった瞬間。


「pigeーーーーーーーー!」


 耳をつんざくような降魔の絶叫が、空全体を震わせる。

 凄まじい音圧に、私は両耳を塞ぐと宙で立ち止まった。鼓膜が破れそうなほどのひどい騒音で、これ以上進めそうにない。


「う、うるっさぁ! なんなの、この音……!」


 騒音を発し続ける降魔の体に異変が起こる。無数に生えている突起の、丸みのある先端がプルプルと震え、オレンジ色の皮がツゥー……とめくれる。皮の下から現れたのは小さな目玉。一本一本の突起の先端で小さな目玉がギョロギョロとうごめく。

 中央の巨大な目玉、そして周囲に無数に現れた小さな目玉。そのすべてが、なにをするでもなく静かに私を見つめる。唐突な沈黙。なにも言わず、ただじっと私を見つめ続ける目玉たち。


「うぇ、気持ち悪っ……」

「き、気をつけて律火! なにか様子が変だ!」

「えっ?」


 唐突に降魔の全身がぼうっと光り輝く。よく見ると無数の小さな目玉が光っているようだ。


「ま、まずい! 逃げて律火!」


 言いながら私を残して後方へ飛び去るネロア。

 その直後、小さな目玉たちが一段と強く光り輝き、無数の光の弾を発射した。魔力を帯びた膨大な数の光が、ほんの数メートル先の至近距離から、私へ突撃してくる。


「なにっ!?」


 は、早いっ! それになんて数……!

 ――かわしきれない……!

 両腕を体の前でクロスさせ、私はとっさにガード体勢を取る。

 ガードの上から大量の魔法弾が雨のごとく降り注ぐ。

 一発一発の威力はそれほどでもない。だけどあまりに数が多すぎる。降り注ぎ続ける魔法弾。次第にダメージが蓄積していく……。


「くっ!」

「律火!」


 嵐のような魔法弾の攻撃が終わると、ネロアが心配そうに私の肩まで飛んでくる。


「痛ったぁ……」

「だ、大丈夫!?」


 まだあんな力が残っていたなんて……。

 ガードの上からとはいえ、あまりにも大量の被弾により、両腕が痺れて指先が微かに震える。でも動けないほどのダメージじゃない。降魔の魔力を奪っておいたおかげだ。

 もし魔力を奪う前に今の攻撃を喰らっていたら、ひとたまりもなかった。降魔が臆病なおかげで命拾いしたってことか。

 よく考えたら私たちってずいぶん危ない綱渡りをしてないか?

 もしもこの世界の降魔が強い上に獰猛な性格だったら、私たちは今頃全滅していてもおかしくない。相手のほうが格上だった場合、仮に逃げることができたとしても、元の世界へ帰るためにはどのみち降魔を倒さなくちゃいけない。そう考えるとこの黄昏の世界へやってくること自体があまりに危険なことのような気がしてきた。


「――火! 律火!」

「――! ……ネロア」

「大丈夫? ぼうっとして」

「……ちょっとね」

「ま、まさかさっきのダメージが……!」

「それは平気。深刻なダメージってほどでは無いよ」

「ふんっ、ザマミロ!」


 暴言を吐き捨てながらそそくさと上空へ逃げていく降魔。


「ま、待ちなさい!」


 あの降魔、魔力が落ちているとはいえ油断できない。うかつに近寄れば、またさっきの攻撃を食らうだけだ。だったら……。

 私は右腕を構えると、飛んでいく降魔へ照準を合わせ、光の魔弾を放った。

 高速で飛び出した魔弾が降魔へ向かう。しかし弾の軌道は私の想像から外れていた。

 しまった……腕が痺れて狙いが……!

 魔弾が降魔の頭を薄っすらとかすめて、空の彼方へと消えていく。


「ずあ!?」


 ビクリと身を固める降魔。魔弾がかすった頭のてっぺんからは、プスプスと煙が上がっている。よく見るとちょっとだけ形が歪に変形したっぽい。


「わ、私の均整の取れた頭がぁぁぁ……!」

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