第9話 幕が開く……


 五月。第三週の火曜日。朝から猛烈に体調が悪い。

 昨日死んだせいだろうか。それともどこかで風邪でも貰ったとか?

 脇に挟んだ体温計を取り出すと。


「……平熱」


 今のところ咳も出ないし喉や鼻も痛くない。寒気もなし。

 てことは風邪ではないってことかな。

 体温計をケースにしまって机の上に戻した。


「はあ……ダル……」


 全身が重だるく、意識はぼうっとして、目に見える世界はどこかあいまいだった。

 うつろな世界。

 窓から差し込む朝日に目を細める。

 目の前にあるこの景色は本当に現実なんだろうか。

 私は本当に生きているのか?

 昨日、灰色の怪物に殺されたあの場所に、今も私の死体は転がってるんじゃないか?

 死んでることにすら気づかずに、現実と勘違いしてあの世の学校にでも通おうとしてるんじゃないか?

 だとしたらなんて無駄なことをしてるんだろう。わざわざ眠い目をこすりながら目覚ましの耳障りな音に煩わされてさ。馬鹿らしいでしょ。そんなこと。

 手の甲をつねってみた。痛みがない。


「嘘でしょ」


 心臓がドクンと高鳴る。

 焦った私はもっと強くつねった。


「痛っ!」


 今度はちゃんと痛かった。

 じゃあきっと私は生きてるんだろう。そう信じよう。

 そうやって強引に自分を安心させたものの、体調が悪いのは事実なんだよなあ。ベッドから起き上がっただけで意識が遠のいて倒れそうになったし……。


 家を出る直前まで休むか迷った末、結局、私は登校することにした。だってこんなひどい状態で外へなんて出たら、きっとドキドキハラハラできるだろうし。もちろん悪い意味で。制服を装備した私は、重々しい玄関ドアを開き、冒険の旅に出発した。


 朝とあって通学路の人通りは多い。無人のあの世界とはすごい落差。あの時の誰一人いない光景が今も頭に残っていて、もしまた誰もいなかったら……なんて不安だったけど、杞憂だった。ひどいエンカウント率。向こうの世界と足して二で割ったらちょうどよくなりそう。


 やっとのことで学校に到着した頃には、もはや残りHPは僅かだった。いや、ほんとに。

 中学の校門を抜け、昇降口で上履きを装備。二年生の教室は校舎の三階。ああ、階段を上るのがつらい。やっぱり休めばよかったかも。今更な後悔に苛まれながら騙し騙し足を持ち上げ、なんとか階段を登り切る。教室が見えてきた。寝起きの体には随分しんどい冒険だった。教室の後ろ扉をガラリ。もはや見慣れた教室。窓際の最後列。そこが私の席。イスにストンと座る。やっと一息つける。


 始業までまだしばらくある。教室にいる生徒はまばら。不揃いに開け放たれた窓から届く、ほんのりと冷たい風が心地よい。この季節の風が一番好きだ。

 窓際の最前列には、すでにつぐの姿があった。亜麻色の長髪を椅子の背もたれに垂らした小柄な少女。姿勢よく顔を下へ向けてちょこんと座っている。本でも読んでるのかな? つぐはいつも朝早く来て読書してるみたいだし。


 そういえば今日はネロアに魔法使いのことを根掘り葉掘り聞こうと思ってたんだっけ。あの空飛ぶ白猫、今頃どこでなにしてるんだろう。というかネロアって普段どこで寝てるの? 野宿? でもあんな真っ白でぬいぐるみみたいな生き物が動いてたら、怪しまれて人に取り囲まれそうなもんだけど。……ま、そんなことはいいか。


 荷物を置いた私は席を立ち、教室の前へ。つぐの机の前に立つと、窓枠に背を預けた。


「おはよう、つぐ」


 案の定つぐは小説を読んでいた。それも細かな文字がびっしり書かれた小難しそうな感じの。私に視線を向けたつぐは意外そうな顔で、


「あれ、今朝は早いんだね。いつもチャイムぎりぎりで入ってくるのに」

「ぎりぎりなのは、たまにだよ。た、ま、に」

「そうだっけ? じゃ、私の勘違いか」

「そうそう」

「で、今日はなんでこんな早いの?」

「……なんか今日は朝から調子悪くってさ。念のため早めに家を出たんだ」

「えっ、体調悪いの? だったら無理して来なくてもよかったのに。……あれ?」


 眉をピクリと動かしたつぐが、私の顔を見つめたまま黙り込む。


「なにかあった?」

「あ……。ううん、なんでもない。大したことじゃないから」


 うーん。この思わせぶりな態度。そんなふうに言われたら絶対気になるじゃん。

 と、つぐが思い出したように。


「あ、そうか。今日はネロアに魔法使いのこと教えてもらうって言ってたよね。たぶんお昼ごろにはやってくると思うよ」

「学校に来るの?」

「うん。毎日来てるよ。私と聖ちゃん、いつもネロアと一緒にお昼食べてるし」

「……全然知らなかった。でもそんなことしたら目立たない?」

「屋上で食べてるから大丈夫だよ。あそこならめったに人来ないし。今の季節なら温かいし案外快適だよ。……律火?」


 つぐの話を聞いていたら、なぜかだんだんと目の前が暗くなっていく。くらりと来て、私は前によろめいた。


「律火!」


 倒れこむ寸前、とっさに窓のサッシを掴んだ私は、なんとかその場に踏みとどまった。


「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」


 慌てて立ち上がったつぐが心配そうな顔を私へ向ける。


「保健室行く?」

「……ううん、平気。少し席で休んでるね」

「しんどくなったら言ってよ?」

「うん。ありがと」


 なんだろう。やっぱりどこかおかしい。

 つぐに見送られながら自分の席に戻った私は、体調が回復することを願いながら机に突っ伏して目を閉じた。ひんやりとした机の感触が肌から伝わる。気持ちいい。少しだけ気分が楽になった気がした。


 遠くからチャイムの音が聞こえる。瞳を開けると窓から差し込むまばゆい陽射しが顔に当たり、私は反射的に目を細めた。いつの間にか眠っていたらしい。しばらくすると担任の先生が教室へ入ってくる。


「起立」


 学級委員のつぐの号令で生徒が一斉に立ち上がる。あいさつが終わり着席すると、朝のホームルームが始まった。なんの変哲もない退屈な朝のルーティンは、特に変わったこともなく無事終了した。そしてぼうっとしてるうちに一時間目がいつの間にか終わっていた。授業の内容は全く覚えていない。ノートも白紙。あとでつぐに写させてもらおう。

 しかしそのころには私の体調はさらに悪化していた。回復する兆しはなく、刻一刻と体調が悪化していく。

 そして二時間目の授業の途中。


「先生」

「どうしました乙羽さん」


 つぐに呼びかけられた教科担任がつぐへ振り返る。


「桃璃さんが体調悪そうなので保健室へ連れていきます」

「あら……」


 先生とクラスメイトの視線が私へ集まる。


「桃璃さん、朝から体調が悪いみたいなんです」

「そうでしたか。ではお願いできますか?」

「はい」


 立ちあがったつぐが私の元へやってくると。


「行こ」


 つぐに連れられて教室を後にした。普通こういう時は保健委員が連れていく決まりになってるけど、有無を言わさぬつぐの口調で、いつの間にか彼女が連れていく流れになっていた。彼女の行動に異論を唱える者は誰一人としていなかった。つぐは普段の行いがいいからな。信頼されてるんだろう。

 うう、しんど……。絶対、朝より悪化してるよ。

 教室を出ると、つぐはなぜか階段を上り出した。


「どこ行くの? 保健室は一階でしょ」

「話があるの。屋上へ行きましょう」


 有無を言わさぬ雰囲気の断定口調。なんとなく反論しがたい雰囲気があったので、私はなにも言わず、階段を上っていくつぐの後を黙ってついていく。

 屋上の扉の前に辿り着いたつぐがピタリと足を止めた。私も少し遅れてつぐのもとにたどり着く。


「ふう……」


 腰に手を当てて一息つく私を横目に、つぐは扉を開いた。重そうな金属製の扉がキィと軋む音を立てて開かれると、隙間から勢いよく風が入り込み私たちの髪を激しくなびかせる。

 屋上に出ると、吹き抜ける風が全身を包み、少しだけ気分が和らぐ。朝よりはだいぶ暖かい風は、ほんのりと冷たさも混じりちょうどいい塩梅。


「で、どうしたのこんなところで?」


 私は気分が悪いのを我慢しながら言った。


「もしかして律火、朝より調子悪い?」

「うん。だいぶ」

「……やっぱりそうなんだ」


 口元に手の甲を当てたつぐが、なにやら苦い顔をしている。

 なにかあったのかな。この様子だとあまり良いことではなさそうだけど。

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