第5話 少女と怪物と少女
律火と別れた紗奈は、とあるビルの一室に身を潜めていた。
自身の力ではとても太刀打ちできない相手を前にして、少女は嵐が過ぎ去るのをただひたすら待つことしかできなかった。
広大なフロアを照らすのは、窓から入る自然光だけ。天井に備え付けられた大量の蛍光灯は、どれひとつとして光を放たない。
窓際から離れるごとに急速に薄暗くなる室内には、大量の机が並んでいる。
紗奈はフロア中央の机の下で身を小さくして、じっと息を殺す。悪夢を具現化したようなあの怪物が、早くいなくなってくれることを祈りながら……。しかしどうやらその願いが叶いそうもないことに、彼女は薄々勘づいていた。伝わってくるのだ。定期的な振動が、足元から。あの怪物に違いない。少女は確信していた。
外をうろつく怪物の重い足音が、振動となってビルの内部にまで響く。徐々に近づいてくる足音に、少女は固唾を飲んで身をこわばらせた。
しかし怪物には少女の明確な場所まではわからないのか、足音は紗奈のいるビルに最接近した後、再び離れていった。
なんとかやり過ごした。ほっと安堵した少女だったが、直後、強烈な衝撃音がどこか離れた場所で鳴り響く。遅れて伝わって来る振動が、フロアの床を小刻みに揺らす。隣り合う机が軋む音を立てた。
あの怪物がどこか遠くのビルを破壊したのだ。少女は察した。
その後も立て続けに轟音が鳴る。怪物がビルを壊して回っているのだ。
音は次第にこのフロアへ近づいてきた。
少女は机のより奥へ潜り込み、小さく丸まる。
一歩、また一歩。ビルの壁を破壊する音と振動が少女へ近づいてくる。つい先ほどまでは彼方から聞こえていたそれらの音が、今はわずかにビル数棟を隔てた所から聞こえる。ここへ来るのも時間の問題だった。
さらに近づく音を聞き、紗奈の中に芽生える小さな違和感。
重量物――おそらくビルの壁――が崩れた音の後に、なにか鈍い音が聞こえてくる。しかも音は一回や二回ではなく何度も何度も響いてきた。明らかに壁の壊れる音とは違う異質な音。その奇妙な音の正体がわからず、紗奈は漠然と不安を感じた。
その時、一際大きな轟音が鳴り響きフロア全体が大きく揺れた。デスクの下で少女がビクリと体を震わす。ついに隣のビルにまで怪物が迫ってきたのだ。
次に壊されるのはこのビルだ。わかりきっている。しかしできることはなにもない。緊張に身を固める少女。
しばらくして今までで最も強い衝撃が少女の身を襲った。
突如として少女の周りが明るくなる。ビルの壁が壊されたことを少女は一瞬で理解した。壊れた壁からはさっきよりもうんと多く、日の光が差し込んでいた。
相手と自分とを隔絶する壁が壊されたことに少女は戦慄する。
だがここさえやり過ごせば怪物はどこかへ去って行くに違いない。ここで見つかりさえしなければ助かるのだ。そう思っていた矢先、フロア内が騒々しくなる。重量物を動かす気配。そしてビルの外からは、重量物がアスファルトにぶつかる鈍い音。
少女はさっきから聞こえていた謎の音の正体がようやくわかり、青ざめた。
フロア内に侵入した灰色の手が、机を一つまた一つと握っては、外に投げ捨てる。窓際から順にデスクがどんどん片づけられていく。
(どうしよう。このままじゃ見つかっちゃう……)
考えているうちに、すぐ真横の机が投げ出される。もう一刻の猶予もない。意を決した少女は机から飛び出し、フロアの出口へと駆けだした。
灰色の怪物はそれを見逃さない。即座に反応すると、真っ赤に輝く瞳で少女を捉え、灰色の腕を伸ばす。幼い少女の逃げ足よりも、圧倒的に早い怪物の腕が、少女の逃亡を許さない。
その巨大な腕が紗奈の小さな体につかみかかる瞬間、怪物の顔に亜麻色の髪をなびかせた少女の蹴りが入った。
「ぐあああああああっ!」
咆哮を上げる怪物の体が盛大に吹き飛び、固いアスファルトの地面へ背中から叩きつけられた。
蹴りを入れたつぐが軽やかに地面へ着地すると、ビルの壊れた壁面からすかさず聖が中へ飛び込んだ。
フロア内に飛び込んだ聖が紗奈へと駆け寄り、
「つぐ! 私はこの子を守る」
「わかった。こっちは任せて!」
力強く答えたつぐは、目の前に横たわる怪物を丸い瞳で捉える。
倒れている怪物は、首だけを上げるとつぐの顔をにらみつけた。
「貴様あああッ!」
怒気のこもった、明確に敵意のある叫び。
すぐさま起き上がった怪物が、目の前の小柄な少女へ力任せに拳を振り下ろす。
即座に反応したつぐが、その華奢な体からは想像もできないほどのジャンプ力で後方へ飛びのいた。つい今しがた少女が立っていた場所に灰色の拳が打ち付けられ、一瞬にして路面がえぐり取られ、巨大なクレーターが現れる。
「チィッ! 魔法使いめ!」
攻撃をやすやすとかわしたつぐを、忌々し気に睨みつける灰色の怪物。
つぐの肩先へ飛び寄ってきたネロアが、
「気をつけてつぐ! あの降魔(こうま)かなりの怪力だ! いくら君でもまともに喰らったらまずい」
「みたいだね」
クレーターを挟んで対峙するつぐと怪物。
(ネロアの言う通り、不用意に近づくのは危険……。だったら距離を保ったままチャンスを狙うしかない)
つぐが近寄ってこないとわかると、怪物は路肩に止めてある乗用車に手を伸ばす。
巨大な腕が、まるで小石を摘まみ上げるかのように、軽々と車体を持ち上げた。怪物の口元が醜く歪んだ。
「逃げてネロア!」
つぐが叫ぶと同時、怪物が力任せに車を投げ放つ。
数百キロはある鉄の塊が、少女たち目掛けて襲い掛かる。
逃げ遅れて慌てふためくネロア。
その姿を横目で捉えたつぐは、ネロアの前に立つと片足を引いて重心を落とし、両手を体の正面で構えた。飛び掛かる車体と少女の小さな両手がぶつかり、接触部がへこむ。拍子につぐの足元のアスファルトに靴の形に亀裂が入る。猛烈な勢いで迫って来た車体を、つぐはその場からほぼ動くことなく素手で受け止めた。
「大丈夫、ネロア?」
「う、うん。ごめんよ。足手まといになるから離れてるね」
ネロアは高く飛び上がり、車両の陰に立つつぐを残してその場から離れた。
それもつかの間、怪物が次の車体へ手を伸ばす。そして筋骨隆々の灰色の腕で、車両の影から姿を見せたつぐへ、力の限り投げつけた。回転しながら宙を舞う車体。投げ放たれたコンマ数秒後には、すでにつぐの目前に迫っていた。まともにぶつかればひとたまりもないであろう攻撃を前にして、つぐは冷静に側方へ飛び退き、車体の直撃を回避した。地面に激突した車が、火花を散らしながら路面を滑っていく。
回避されてもお構いなしの態度で、怪物は次の車両へ手を伸ばすと、再びつぐへ投げ放つ。攻撃の手を緩める様子は一切なく、つぐに休む隙を与えない。
(キリがないな。なんとか距離を詰めないと……)
次々と投げつけられる鉄の塊を、縫うようにかわしながら、つぐは気取られないように少しずつ、それでいて確実に灰色の怪物との距離を詰めていく。怪物まで七~八メートルの距離にまで迫った。
(よし。この距離なら私の間合い!)
車両を掴む時、怪物は一瞬ではあるがつぐから視線を外す。その癖を見抜いていたつぐは、怪物が次の車両を掴むのを待った。
すぐに怪物が新たな車両に手を伸ばす。
(今だ!)
怪物に生まれた刹那の隙を突き、つぐは思い切り足を踏み込んだ。
一瞬のうちに間合いを詰めたつぐが、小さな拳を怪物の顔へ放つ。
と、怪物が自動車を握ろうとした手を即座に止め、目の前に迫ったつぐを俊敏な動きではたき落とした。
「あぐっ!」
巨大な掌が少女の華奢な体にモロに直撃し、吹き飛ばされた小さな体が車道を彼方まで転がっていく。
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