第4話 追いかける者
いや、だとしてもなんで私たちを? いったいなんのために。そもそもなんで私たちがここに居るってわかったの?
見るものをにらみ殺せそうなほどに吊り上がった凶悪な朱い目。歪む口元から覗く上下二本ずつの巨大な牙は、先端が鋭くとがり、コンクリートにさえ突き刺さりそう。あの顔はどう考えても友好的には見えないな……。
人の力では天地がひっくり返っても太刀打ちできそうにない怪物。
逃げるか? いや、不用意に飛び出すのは危険だ。こんな誰もいない中を走り抜けるのはさすがに目立ちすぎる。しばらくここに隠れてやり過ごすしかない……。下手に動くよりもそれが賢明だ……。
逃げ出すことを早々に断念し、私はビルの陰に身を引っ込めた。
「大丈夫かな……」
「ここに隠れてれば見つからないわ」
顔を引っ込めてしまったから姿は見えないけど、怪物はまだ暴れているらしい。ビルを殴りつける音が断続的に響いてくる。まず殴りつける衝撃音がして、次にガラガラとビルの壁が崩れ落ちる音。そしてわずかな静寂。その一連の流れがしばらく続いた後、あたりが突然しんと静まり返った。
「静かになったね」
「ええ。でもまだ動いちゃダメよ」
「うん」
しばらく経っても辺りは静まり返ったまま。どうしたというんだろう。暴れていたと思ったら今度は物音一つしない。歩く音さえも聞こえない。ということは怪物は立ち止まっている。なにをしてるの?
さらに待っても、一切の物音がしない。変だ。もしかして怪物の身になにかあった……?
「もういなくなったのかな?」
「……確認してみるね。ここにいて」
ビルの陰から慎重にのぞき込む。……先ほど怪物がいた場所には、なにもいない。灰色の巨体はまるで煙が消えるかのように、こつ然と姿を消していた。
馬鹿な。物音一つしなかったのに、どうやって移動したって言うの?
……いや、あれだけの巨体だ。音も立てずに移動するなんて無理。きっと近くにいるはず。
怪物が破壊したビルの周囲へ目を這わす。しかしその姿はどこにも見当たらない。
まさか壊した壁からビルの中に入り込んだとか? いや、なんのためにそんなこと……。そもそもあれだけ大きいと中へ入るのは無理か。
消えた怪物について考えていると目の前が急に薄暗くなる。
「な、なに?」
次の瞬間、私たちの目の前に突如として二つの赤い光が現れた。
それは灰色の巨大な顔に浮かぶ二つの赤い目。
灰色の怪物がビルの入り口に隠れている私たちを覗き込む。
一瞬なにが起こったのか理解できなかった。
「きゃああああああ!」
背後から響く紗奈ちゃんの悲鳴。
その絶叫のおかげで我に返ることができた。
私は無意識に彼女の手を引っ張って、その場を飛び出していた。
ど、どうなってんの!? なんで突然いるの!?
二人して歩道を駆け抜ける。人のいない歩道を。ああ、よかった。誰もいなくて。スムーズに走れてよかったなあ! なんなのほんと、ふざけんなよ! 捕まったら終わりだ。
荒々しい息遣いがすぐ後ろから聞こえる。走っても走っても一向に振り切れない。いつまでも私たちの後をぴったりとくっついてくる。どうやら逃がすつもりはないらしい。
「紗奈ちゃん頑張って!」
数十メートルを走ったところで、隣を走る少女はすでに息が上がっていた。黒髪を振り乱す少女の、地を蹴る力が徐々に頼りないものになる。走るペースがみるみるうちに落ちていく。怪物はすぐ背後。距離にしてたったの十メートル足らず。少しでもペースを緩めれば簡単に追いつかれる。まずい。このままじゃ時間の問題で……。なんとかしないと……。でもどうすれば……! この子を抱えて走れるほどの力は私にはない。二人で逃げるのは無理だ。じゃあ一人で逃げるか? 私の隣には息も絶え絶えに走る少女の姿。私一人ならたぶん逃げ切れる。そんなことすれば、この子は助からないだろうけど。……絶対に嫌だ。じゃあ、……戦うしかないな。
「紗奈ちゃん! 時間を稼ぐから先に行って!」
「え……。……でも」
「いいから! 逃げ足には自信あるの。すぐに追いつくから大丈夫!」
渋る少女へ強く言い聞かせて先行させる。同時に自分は走る速度を徐々に落とす。
私との距離が開く中、心配そうに私を振り返った紗奈ちゃんへ、努めて余裕のある表情でうなずく。それを見た少女は前を向き直り、必死に地面を蹴る。少女の体がさらに私から離れていく。
私が速度を落としたことが意外だったのか、怪物は不思議そうな顔で私を見下ろしながら、足を止めた。それを見て私もその場に立ち止まる。
間近で見上げると、灰色の怪物は想像を絶するほどの巨体で、対峙しているだけで足がすくむ。今すぐにでも逃げ出したくなったけど、それじゃあ私がここに居る意味がない。
私の出方を窺っているのか、怪物は襲い掛かってくる素振りを見せない。
私は足元に転がる石を握った。自分の拳より少しだけ小さな石。こんなものでどうこうできるわけがない。わかってる。でも今できるのはせいぜいがこの程度。勝ち目など最初からないのだ。
私が凶器を手に取ったというのに、怪物は、いまだ動かない。そんなものではなにもできまいと高をくくっているのか。それとも状況を理解できていないのか。……そんなことはどうでもいいか。――私は握り込んだ石を怪物へ思い切り投げつけた。
私の手を離れた石が、怪物の顔へ勢いよく飛んでいく。
直後、怪物が血のように赤い目をたちまち細める。そして自身へ向かってくる硬い凶器を、巨大な二本の指でいとも簡単に"つまみ取った"。
「えっ――!?」
空を隠すほどに巨大な図体とは裏腹に、俊敏かつ繊細な指先の動き。
怪物は親指と人差し指の二本指で私が投げた石をつまんでいる。
馬鹿な……。
物をつまむという動作は実は複雑で、知能の発達した動物にしかできないって、理科の先生が言ってたけど……。この怪物……。
怪物の指先に力が籠められた途端、まるで砂糖菓子でもつぶすかのようにあっさりと石が粉砕され、砂塵が宙を舞う。なんて馬鹿げた怪力。
やはり敵うわけがない。そう悟ると、怪物から距離を取るようにじりじりと後退する。紗奈ちゃんはすでにかなり遠くまで逃げたようだ。時間稼ぎは十分だろう。隙を突いて私も早くこの場を離れないと。
逃げる方法を考えている最中、突然、怪物が自らの足元を拳で殴りつけた。巨体の足元でアスファルトが広範囲にわたり崩れ去り、まるで隕石でも落ちたかのような巨大なクレーターが、私と怪物との間に出現する。怪物が自ら作ったクレーターの底へ落ちていく。
なにをしてるの? これじゃあ逃げてくれって言ってるようなものじゃない。
またとない好機。これを逃す手はない!
しかし視線の先の光景を見て、私は身動きが取れなくなった。
巨大なクレーターの底に立つ怪物が、地面を蹴り、その巨体が宙に飛び上がったのだ。数百キロ、あるいはそれ以上の体重を誇るであろう肉の塊が、私の遥か頭上を飛び越え、私の背後に降ってくる。巨体の着地と同時にその重量に耐えきれなかったアスファルトが砕けて、盛り上がる。
あっとういう間に立ち位置が逆転し、私の背後には巨大なクレーター。そして目の前には怪物が。逃げられると思ったのも束の間、一瞬にして追い詰められる。にじり寄る怪物に、私は後退を余儀なくされる。しかしそれも長くは続かなかった。……これ以上後退すれば穴に落下して大変なことになる。
逃げ場をなくすためにわざと穴を作ってから回り込んだっていうの? それだけのことを考えて行動したと? 信じられない……。でもさっき石をつまみ取ったことといい、やっぱりこの生き物には、……知性がある。
目の前の怪物が、おもむろに拳を振り上げた。私を攻撃するためだとすぐに分かった。分かったけれど、でも、もう逃げ場がない。抗う術がない。こんな状況だというのに、いや、こんな状況だからこそか。なんだかひどく現実感が失われていく。目の前がぼんやりして、眠りに落ちる直前のような、妙な虚脱感に包まれる。灰色の拳が私へ向かって振り下ろされる。その瞬間、拳が風を切り音を鳴らす。声一つ上げる間もなく、目の前すべてが灰色に覆い尽くされた――。
◇
「まさかこんな街のど真ん中に現れるなんてね。目立ちたがり屋さんなのかしら?」
肩口まで伸びる艶やかな黒髪をかき上げながら、長身の少女はゆったりとした足取りで薄暗い路地裏を抜けた。落ち着いた雰囲気をまとった美しい容貌の少女。キレのある目じりは聡明そうな雰囲気を醸し出し、見る者の目を引く。
制服姿の少女の名は天摩聖(てんま せい)。
「待って、聖ちゃん! 一人で行くと危ないよ」
聖の後を追うように小柄な少女が路地裏から駆けてくる。腰までまっすぐに伸びる亜麻色の髪をふわりとなびかせながら、少女は慌ただしく聖の横に立った。長身の聖と並ぶと、二人の身長差が際立つ。小柄な少女の柔らかみのある色合いの髪は、彼女のおっとりとした雰囲気と相まって、見るものを穏やかな気分にさせた。丸みのある大きな瞳は、クールに見える聖とは対照的に柔らかい印象を与える。
聖と同じデザインの制服に身を包んだ少女、乙羽(おとは)つぐ。
「変ね。見当たらない」
表通りに出た聖は、立ち止まったまま注意深くなにかを探す。彼女たちの周囲には高層のビルが立ち並び、辺りは無音とも呼べる静寂に包まれている。道を行く人は誰ひとりいない。
薄暗い路地裏から、今度は白い生き物が宙をぷかぷかと漂いながら飛んできた。
「裂け目がここにあった以上、そう遠くないはずだよ」
全身が白くシッポの先が黒い、猫のような生き物がそう告げた。やや暗みのある瞳は夕焼けのような橙色。真っ白な背中には独特な形をした黒い紋様が刻まれている。この生き物の名前はネロア。
「急ごう。もしかしたらすでに迷い込んだ人がいるかもしれない」
先導するように宙を漂うネロアが、後ろに立つ二人の少女を急かす。
そんなネロアに対して、聖は冷静な態度で、
「大丈夫じゃないかしら? わかりにくい位置にあったし」
「わからないよ。なんせ人通りの多い場所だったから。ああいうところでも稀に気づいちゃう人がいるんだよね」
「でも近くにそれらしい人影はないわ」
「……ねえ。向こうの方から音が聞こえる気がする」
目を閉じて意識を集中させていたつぐが、向かって右前方を指さした。
「……私には聞こえないわ」
「僕にも聞こえない。けどつぐが言うならそうなんだろう。行ってみよう」
言いながら道路を横切るように飛んでいくネロア。背後のつぐが慌てながら、
「あ! 危ないよネロア。むやみに車道に出ちゃ」
「ふふ、大丈夫よ。車なんて来ないから」
「あ、それもそうか」
聖に言われ、すぐに納得するつぐ。
「ほら、二人とも早く早く」
はやる気持ちを隠し切れないネロアが、顔だけを向けて二人へ呼びかけると、少女たちもネロアの背を追って車道へ走り出した。
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