第3話 邂逅
「――っ!」
驚きのあまり心臓が胸郭から飛び出すかと思った。
私を見上げる小さな瞳と、声を殺したまま見つめ合う。唇をキュッと閉じた私は、心臓の高鳴りが落ち着くのを待った。口を開けば大声で叫んでしまいそうだったから。そうしたらきっとパニックになるだろう。私も、この目の前にいる少女も。
そう。そこにいたのは少女だった。体を屈め、ビルの壁に手をつき、食い入るように私を見つめている。
「……あなたは」
努めて冷静に尋ねると、少女はなにも言わず、ただ黙ってうつむいた。
誰もいない静寂の街で、初めて出会ったその少女は、どこか物憂げな様子だった。
黒い髪を背中まで垂らした幼い外見の少女は、雰囲気から言って小学校低学年くらいだろうか。
「私は律火(りつか)」
少女が口を開かないので私が先に名乗る。
少しの沈黙の後、少女は下を向いたまま「紗奈(さな)」と小さな声を漏らした。
警戒しているのか、それとも人見知りなのか、あるいはただ疲れているだけなのか、あまり元気のない声だった。でも名乗ってくれたことでほんの少し安堵した。やっと人の声を聞けた。なんだか久しぶりに会話をした気がする。
「……紗奈ちゃんも迷子だったりする?」
自分で言っておいて変な言い回しだと思った。
普段から慣れ親しんだ街で迷子もなにもない。むしろ私たち以外の消えてしまった人たちのほうが迷子になってしまったようにも思える。
でも私には不思議とこの表現がしっくりきた。無人の街をさまよっているうちに、まるで世界からはぐれてしまった気がしていたから。
ともかく、少女は私の質問に黙ってうなずいた。
「じゃあ一緒だね。私も迷子になっちゃったみたいなんだ」
微笑みながら語りかけると、少女は緊張が幾分かほぐれたのか、うつむきがちだった顔を上げると、先ほどまでよりも柔らかい表情で私を見つめた。
私たちはその場に座り込むと、ビルの壁にもたれかかった。
視線の高さがさっきよりも近くなる。この方が話しやすい。お互いに見上げ、見下ろしじゃ首が痛くなっちゃうし。
「紗奈ちゃんは私以外の人には出会った?」
「ううん。急にみんないなくなっちゃったから」
「……そっか」
急に、か。
私の時と同じだ。
あれだけたくさんいた人たちが一瞬のうちにすべて消え去るなんて……。
結局、街の人たちがどこへ消えたのかはわからず終いか。
人と話して落ち着いたからだろうか、私のお腹が、ぐうう……と少し強めに自己アピールする。
「う……」
無意識に鳴った自分のお腹の音に驚き、同時に恥ずかしくもなる。
「お腹減った?」
無邪気に尋ねてくる紗奈ちゃんの、澄んだ瞳と目が合って、私は気まずさからすぐに視線を逸らしてしまった。というか、こんな小さな少女に心配されてしまうとは……。
「……少しね」
私がバツが悪そうに答えると、紗奈ちゃんはポケットに手を入れ、もぞもぞとなにかを取り出す。
「これあげる」
少女が差し出したのは一口サイズのチョコレート。
「紗奈ちゃんはお腹減ってないの?」
「減ってる!」
「あはは。じゃあ食べていいよ」
「二個あるから大丈夫」
もう一個取り出したチョコを顔の前でつまんで見せると、少女の小さな顔が明るく笑う。そして一つを私の手に握らせた。
せっかくの厚意だし、ありがたく頂戴するとしよう。
「ちょっと溶けてる」
少女は小さな指で手慣れた感じに包み紙を開き、チョコを頬張る。
「おいしいね」
そう私は返した。
私たちはどこへ行くでもなくビルの壁にもたれかかりながら、おしゃべりする。
「今度の休み遊園地に行くの」
少女は膝を抱えながら淡々とつぶやく。
「それは楽しみね。三人で行くの?」
「四人! 私と妹とお母さんとお父さん」
よほど楽しみなのか、少女は満面の笑みを浮かべながら指を折って家族構成を教えてくれる。
「お姉さんなにが好き?」
「乗り物? そうだなあ。わりとなんでも好きだよ。あ、メリーゴーランド好き。怖くないし」
「私も好き! コーヒーカップは?」
「楽しいよね。だいたい毎回乗ってるかなぁ」
「あとは、じゃあ、観覧車は?」
「観覧車はねぇ、小学生の時、一緒に乗った子が、ふざけてめちゃくちゃ揺らしてさー。それがすっごく怖くて、今は乗らなくなっちゃった。紗奈ちゃんは好き? 観覧車」
紗奈ちゃんは唇を動かそうとしたものの、それを途中で止め、静かに口を閉じ、唇を結んだ。
なにかまずいことを言ってしまっただろうか。
「紗奈ちゃん?」
私が問いかけると、しばらくの沈黙の後、少女の唇が動く。
「みんな帰って来るかな」
なんてことない一言だった。
でもその声は語尾に近づくにつれて消え入りそうなくらい、か細くなっていった。同じ状況に置かれた私には、彼女の不安が痛いほどわかった。
やっと人と出会えたことで内心ほっとしていたけれど、考えてみれば問題はなにも解決していないんだ。この子だって、家族の元に帰れるかわからなければ不安にもなるだろう。それは私だって同じだ。
「大丈夫。きっとみんなすぐに帰ってくるから」
彼女を抱きしめながらそう伝える。それは私の願望でもあった。
きっとずっと不安だったんだろう。少女は私の体に強くしがみついた。
……なんとか家族の元へ届けてあげないと。
とは言ってもいったいどうすれば……。これだけ人に出会えないとなると、手掛かりを探すことすらままならない。
紗奈ちゃんが落ち着くまで手をつないで、じっと座っていた。
どれくらいの時間が経っただろう。私がぼうっと正面を見つめていると、隣に座る紗奈ちゃんが不意に口を開いた。
「ねえお姉ちゃん」
「なあに?」
「なにか聞こえる」
「えっ」
唐突な、少女の一言。
正面を見据えた紗奈ちゃんが聞き耳を立てる。
私も周囲の音に意識を集中させてみる。
街は相変わらず静寂に包まれている。
……特になにも聞こえないけれど。
なにが聞こえたって言うんだろう。
「人の声?」
「ううん。声じゃない。動く音」
「……車とか?」
「……違うと思う」
少女の言っていることがよくわからない。
人でもなければ車でもない。じゃあなんだと言うんだろう。こんな街中で生じる音なんて限られてると思うけど。
両目をせわしなく動かしてみても、視界の中に異常は見当たらない。
しかし、しばらく耳を澄ませていると、たしかになにかが聞こえる。
……なんだ?
地面に触れた手の平からは、一定の間隔で振動が伝わってくる。大地が小刻みに揺れ、わずわかな静寂の後、再び揺れが伝わってくる。車ではない。これは明らかに歩く音だ。
しかも音の感じからすると相当大きい……。
なにかがいる……!
「お姉ちゃん……あれ……」
震える声で私を呼んだ少女が、前方を指さした。顔面は蒼白で、目を見開いたまま固まっている。明らかに様子がおかしい。
車道を挟んでおよそ三十メートル先。
私たちから見て右斜め前方。
ビルとビルの間の道路から、それは現れた。
黒みがかった灰色の毛に全身を包まれた、軽く五メートル以上はある巨大生物。獰猛な肉食獣を想起させる、体毛の上からでも容易にわかるほどに発達した全身の筋肉。とにかく体があり得ないくらいに大きい。
巨大な怪物は向かいの歩道を、二足歩行で左へ向かって歩き出した。時折足を止めては、なにかを探すように顔を四方へ動かしている。目当てのものが見つからなかったのか、今度はビルの窓から中へ向かって醜悪な目を這わせる。その目は、獣の目が夜に輝くような感じで、真っ赤に輝いていた。
何あれ……。
怪物はしばらくの間、謎の挙動を続けたかと思うと、私たちの視線の先で唐突にビルを殴りつけた。
たった一撃、拳が撃ち込まれただけでビルの壁が砂細工のようにもろく崩れ去り、内部が露わになる。
ビルを破壊する轟音が、街を包んでいた静寂を一瞬で打ち破る。
まるで苛立って八つ当たりでもするかのようなその動きに、私は本能的に恐怖を感じた。
雲のほとんどない透き通るような青空の下で、獰猛な怪物が力任せに暴れまくり、街を破壊する。
目の前に広がるアンバランスな景色。まるで画面越しの世界の出来事。現実感のない光景を、私はぼうっと眺めた。
怪物の拳が振るわれるたび、ビルの壁が次々と崩れ、内部があらわになっていく。
隣にいる少女に手をぎゅっと引かれて、私はやっと我に返った。
こちらに背を向けてビルを破壊していた怪物が、唐突に振り返る。灰色の顔で不気味に輝く赤い瞳に、見つかってしまったような気がして、背筋が凍り付く。
すぐに紗奈ちゃんの手を引っ張ってビルの陰に体を引っ込める。なんなのあの怪物……。あんなのに見つかったらなにをされるかわかったもんじゃない。
開かない自動ドアの前から、壁ごしに様子を窺う。怪物は同じ場所をうろつきまわり、一向に姿を消そうとしない。
さっきからなにをしてるの。早くどこか行ってよ……。
そこまで考えて嫌な考えが頭をよぎる。できれば間違いであってほしいその考え。
――あの怪物、もしかして私たちを探してる?
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