第2話 這い寄る影
街の中をひとり黙々と歩く。
周囲を囲むのは空に届きそうなほど大きなビル。
相変わらず、歩道には私を除けば誰一人としていない。登下校の時に必ず使うこの道を、こんなにスムーズに進めたのはたぶん初めてだと思う。いつもこんな感じなら、朝、もう五分か十分くらい遅く家を出ても余裕で間に合うのに。しかし今となっては毎朝のあの異様に混み合う光景すら懐かしく感じる。
路肩のところどころに停まる車両。遠巻きに眺めるも、中に人影は見えない。……もしかしたら車内に取り残された人がいるかも。そんな願望を胸に、すぐそばの車に近寄り、サイドガラスから中を覗く。
……。
誰もいない。
中に誰かが倒れてる、なんてことはなく拍子抜けする。立て続けに何台かの車両を覗き込む。どの車両ももぬけの殻だった。
路肩に沿って並ぶ無人の車両。彼方まで続くその光景は、まるで墓標のようで、なんだか薄気味悪い。
動くもののない路面だけが、ただただ不気味に地平の果てまで伸びている。多大な手間をかけて舗装された道路も、誰も使わないなら無用の長物に過ぎない。延々と伸びる人工物を眺めていると、それがひどく虚しいものに思えてくる。みんなどこへ行ったんだろう。
「誰か……誰かいますか?」
足を止めて呼びかけると、ビルの壁に反響した私の声が何重にもなって返ってきた。
「はあ……」
どうやら誰もいないらしい。
自然とため息が口を吐く。
誰もいない歩道の真ん中で途方に暮れた。
しかしそんなことをしていても誰かが現れることもなく、私は人を求めしぶしぶ歩き出す。
しばらく歩いた。街は相変わらず静寂に包まれている。音と言ったらアスファルトを鳴らす私の足音くらい。足を踏み出すたびに甲高い音が鼓膜を揺らす。普段だったら気にも留めないのに、今はひどく耳障りだ。
「ふう……」
少し休もう。どうも今の私は気が立っているらしい。
どうせ誰もいないからと、歩道の真ん中に大胆に座り込む。
なんだかさっきから体の感覚が鈍い。まるで他人の体でも使ってるかのような気分。
わけのわからない状況に巻き込まれて、精神が疲れているんだろうか?
不安と苛立ちが交互に襲ってきて意味もなく疲れる。
……このままではよくない。意識的にゆっくりと呼吸してみる。……少しだけ楽になった気がした。
静寂に沈む街。本当に静か。なんて空虚なんだろう。まるで突然戦争でも始まってみんな逃げ出した後みたい。
ついさっきまで無数に居たはずの人たちは一人残らず姿を消した。私が意識を失っていたごくわずかな時間で……。
そんな馬鹿げたことあり得るわけがない。だって私が意識を失ってたのはせいぜい数分なんだから。そんな短時間で街中の人が消えるなんて……。そんなことマジシャンにだって不可能だろう。
それに街全体がこんなに静かなのもおかしい。なんというか……不自然なほどに静かだ。これは人がいないせいだけじゃない。まるで、全ての生き物が消えてしまったかのような……。生命そのものの存在をまるで感じない。
あの黒い穴にぶつかったせいだろうか。
……もしかして私、もう死んでたりして。
実はあの穴はあの世とこの世を結ぶものだった、とか。だから私が今いるこの場所はあの世なんだ。穴を介して私はあの世にやってきてしまったんだ。……そういえばあの穴、いつの間にか消えてたな。
普段だったら考えもしないような突拍子もない話が次々と頭の中に溢れかえる。
しかしそんな戯言(たわごと)が、今の私にはあながちデタラメとも思えない。だってこんなバカげたことに実際に巻き込まれてるんだから。
それともこれは夢なのか。夢だったらむしろ歓迎。内容は歓迎しがたいものだけど、目が覚めれば夢は終わる。悪夢から目覚めて、なんの変哲もない日常へ戻るという結末は、今の私にとっては歓迎すべきものだ。この目の前に広がる光景がただただ現実でないことを祈るばかり。
ぼうっと街を見つめつつ視線を転々とさせる。無人のバス停。人影のないビルの窓。明かりのついてないコンビニ。同じく明りのついてない自販機。ビルの壁に備え付けられた映像の映っていない大型モニタ。あったところで意味のない道路標識。光らない信号。電気を送ってるのかどうかもあやしい電線。灰色の電柱。
つくづく都会には自然がないと気づく。辺り一面を覆いつくすのはことごとく人工物。自分たちの手で作り上げた、だだっ広い灰色の世界がどこまでもどこまでも広がっている。無機質で温かみのない世界を見ていると、だんだんと気が滅入ってくる。……だけど。
空だけはきれいだった。雲のほとんどない天井の高い青空だけは。
そのおかげで私は精神の均衡をギリギリ保っていられた。
なにも考えず、ただぼうっと遠い空を見つめていた時だった。
……………………なに?
なにかが聞こえた気がした。
この静かな空間ではわずかな物音でも容易に耳に届く。
耳を澄ませているとそれは――。
足音だ……。
しかもその音は徐々に大きくなっていく。――確実にここへ近づいてくる。
そう分かった途端、心臓が高鳴り、自らの鼓動が耳まで届く。
だ、誰か来る……! 隠れないと……。
歩道のど真ん中に座り込んでいた私は、大慌てで近くのビルの入り口に身を潜めた。
壁越しに足音のするほうへ注意深く耳を傾ける。
音の感じからして距離にして二十メートルほどだろうか。すでにかなり近づかれている。
……気付かなかった。
……おかしい。これだけ見通しのいい場所なのに。なんでこんなに近づかれるまで気づけなかったの……?
これだけ静かならもっと早く足音に気づけたはず。
足音はなぜか迷うことなくまっすぐにこちらへ向かっている。
なんで? もしかして見られてた? どうしよう……。ビルの中に逃げ込むか……。
音を立てないよう慎重に、ビル入り口の自動ドアの前に立つ。しかしドアは開かない。
――ちょっと! こんな時に……!
周囲には階段も、通り抜けられそうな通路もない。私はビルの入り口に袋小路に閉じ込められていた。
しまった……。もっと逃げ道のある場所に隠れるべきだった。
後悔している間にも足音はさらに近づいてくる。……あと十メートル。
いや、待てよ。なんで私は隠れてるんだ? この足音の主も、私と同じで取り残された街の人かもしれないじゃん。だったらむしろ、すぐにでも合流したほうがよくない? いつまでも隠れてたら、どこかへ行っちゃうかもしれないし……。
それにこの機会を逃したらもう誰にも会えないかもしれない……。
……でもよく考えたら怪しくないか? 誰一人いない街になんでこの足音の主はいるの? それになんで話しかけてこないの? さっきから声を殺すように近づいてくるのはなぜ?
もしも危険な相手だったら……。
どうする……。行くべきか隠れてやりすごすべきか。
考えている間にも足音は迫ってくる。しかも想像よりずっと早く。
いつの間にか壁一枚隔てた向こう側までやってきた足音が、突然止まる。
私は逃げるタイミングを逃した。
厚さ数十センチの壁一枚隔てた向こう側に、足音の主がいる。
相手はなぜか物音ひとつ立てない。
息を殺しながらじっとこちらの出方を伺っているようだ。
なんでそんなことを……。
相手の不自然な挙動に緊張の糸が張る。
なぜかはわからないけど、いつまで経っても壁の向こうの人物は姿をあらわそうとしない。
嫌な時間だけが過ぎていく。
……埒が開かない。
なんなの。……もういっそのこと覗き込んでみるか?
でも頭を出した途端、刃物かなにかで襲われでもしたら……。
じゃあ向こうから出てくるまでずっとこのまま?
ていうか、なんでずっとなにもしてこないのよ。いったいなにがしたいわけ? そっちから近づいてきたんだからなにか用があるんじゃないの?
あー、もう!
私は覚悟を決めると見つからないよう目だけを出し、壁の奥を覗き見た。
…………………………。
壁の向こうには誰もいなかった。
バカな……。
気のせいだったっていうの? ……いや、そんなわけは。
足音はたしかに聞こえた。しかもあれは明確な意思を持ってこちらへ向かってきていた。
その時になって私はやっと足元の気配に気づいた。
私の足元で二つの目玉が私を仰ぎ見ていた。
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