蜃気楼と蝶

大出春江

蜃気楼と蝶

 七月の初め、大学の帰り道を歩いていた。大学入学を期に北海道に越してきて三年も経つのだと、鬱蒼とした森を横目に思いふけっていた。

 ふと一羽の立派なカラスアゲハがすれ違っていった。それを見た瞬間、大学一年のある夏の日を、走馬灯のように思い出した。


 大学一年目の夏、私はなんとなく海が見たくなった。決して大きな理由などなく、ただ、夏らしいことがしたい、いや、正確には夏らしいものを感じたいのだ。人間というのは、普段は妙に気取って、「人間らしく」生きようと必死だが、このような無邪気な好奇心を失っては、進歩も何もないのだ。

「というわけで、私は今週末にでも海を見に行くのですが、どうですか?」

「どうぞ、楽しんできて」

 そう返したのは彼女、新橋桜(シンバシサクラ)である。

「いえ、ごめんなさい、言い方が悪かったわ。その日は実家に帰る予定だから難しいわ」

「ん——了解。そうですね……せっかくなら夏休み中に、一緒に出かけられたらと思うのですが」

「再来週の月曜なんてどう? 見たい映画があって」

「それにしよう」

 彼女とのデートの約束は取り付けたが、今回の本題はそれではない。まあ、たまに一人で遠出をするというのも、悪くはないだろう。


 当日、私は出かける直前まで悩んでいた。どの海を見るか、である。現実的に、電車が通っている範囲で言えば、小樽か苫小牧が真っ先に浮かぶだろう。函館や釧路まで行くのもいっその事ありかもしれないが、出先で一泊するほどの勢いは私にはない。——結局、苫小牧に向かうのだが、一応の理由は必要だろう。一言で言ってしまえば、小樽は観光に向きすぎている、そう感じた。いや、実際は海を見るだけならば、そうでもないだろうが、できる限りは素の海を見たいと、そう感じた。直感と、陰湿な減点方式で導き出した結論である。

 家に一番近い駅から電車に乗り、一度街中へ出て、それから苫小牧行きの電車に揺られる。

 一人電車に揺られながら考えていたことがある。私という人間は、もしかして、一人で遠出をしたことがないのではなかろうか。いや、間違いなく、そんなことはないのだが、大きな町がそうあるわけでもなく、ただ、迫りくる自然風景を見ながら、一人、という状況には、そんなことを考えさせるだけの力があるのかもしれない。

 およそ一時間半か、もう少しかで苫小牧に到着した。

 駅を出てみれば、もちろん、ビルの一つや二つは当然あるだろう。しかし、私の想像通り、観光客に向けてのアピールというものは、少なくとも、小樽なんかと比べれば、そう多くはなかった。

 ここに到着するまで、あえて周辺の地図を詳しくは見ていなかった。駅に貼ってある周辺地図をじっくりと読み込む。どうやら海まではそれなりに歩くようだ。基本的には真っすぐに歩けば着くらしい。

 駅の近くのコンビニで軽く腹を満たす。冷房が効きすぎていて、今にも体を悪くするかと、そう思った。それから、真夏の北海道の昼過ぎを、一人歩く。北海道は避暑地だ、なんていうのはよく聞く話だが、近年は地球温暖化だとかで、日によっては内地よりも暑い。唯一の救いは、北海道の空気は湿度が低いことである。空気が熱されていようが、日差しが肌を刺そうが、これは、いや、驚くほどに健康的な熱気である。これによって、私は生かされていると言っても過言ではないかもしれない。

 それなりに歩いたところで物々しいビルなんかは姿を消した。これから住宅地に入って、それからお目当ての海が見えるだろう。そんな時だった。

「海は怒っているぞ、海は怖いぞ」

 ちょっとした広場のベンチに座っている、これは男か女かも分からない老人が呟いていた

「海は怒っているぞ、海は怖いぞ」

 何度も、そう呟いていた。いや、もしかしたら呟いたのはたった一度きりなのかもしれない、はたまた、そんなことは言っていないのかもしれない。何故なら、私はこの広場に入って老人に問うたわけではない、ただ、海へ向かって歩いていただけなのだから。しかし、少なくとも、近くを通りがかってしまった私には、老人がそう呟いたように感じた。海は何に、なぜ怒っているのだろうか。怖いのは解る。しかし、怒りとなると何故だろう。

 頭の中がそんなことでいっぱいの中、海に到着した。きれいな海だ。確かに、遊んで回るような、まして、観光目的で来るようなところではないことが見て取れた。北海道の自然とは山や木々、植物だけなどでは決してない。潮風を全身で受けながら、日焼けになるであろう首筋を軽く摩った。

 そのまま、何とはなしに海を眺めていた。すると、突然。ゴオオオオッと音がした。遠くの方にタンカーらしき船が浮いているのが見えた。初めは、なんとも思わなかった。しかし、聞こえる音は止むどころか、より一層、大きな音で空気を揺らした。ちょうどその時。

「津波だ津波だ、逃げねば逃げねば」

 と、あちこちから聞こえてきた。

 聞こえてきた、というよりも、子供が何も言わずに袖を引っ張るような。何かを急かすような感覚だった。私は、何か、気が動転でもしているのではないかと、そう思い、数秒間目を閉じ、深呼吸を繰り返した。

 何事も無かったかのように、パッと目を開ける。そこには、先ほどまで遠くに、小さく浮いていたタンカーの影が大きく大きく迫ってきていた。私は、何も言うまい、いや、言えなかったのが正しいのだが、その場で振り向き、なにも見なかったかのように街へと歩いて行った。早足で歩きながら、広場のベンチをちらりと見ると、立派なカラスアゲハが鳥のように羽ばたいていた。

 後日、この出来事を彼女に話したところ、大変馬鹿にされたのをよく覚えている。


 そんな夏の日のことを思い出した。

 そして、今しがたすれ違ったカラスアゲハに、今度は、何故だか妙に、今は亡き彼女を思い出さずにはいられなかった。あの日、笑ってくれた、彼女に。

 幻だろうか。

 蜃気楼だろうか。

 振り返るべきだろうか。

 否。

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