第23話 陽炎姫は魔王の城に帰還する
ヨアンの城に帰り着き、入り口へと一歩足を踏み入れると、フェリシアの髪が下からの突風に煽られたようにふわっと浮き上がった。
「えっ!?」
驚くフェリシアの目に、キラキラした何かが自分の周りを飛び回っているのが映る。口笛のような、子どもの笑い声のような、あの音も聞こえる。使い魔たちの笑い声だ。どうやらフェリシアを出迎えてくれているらしい。ヨアンがフェリシアの手を取り、艶麗な微笑みを浮かべた。
「おかえり、フェリシア」
心の底からこの瞬間を待ちわびていたことが伝わる、甘やかな声。またこの場所に帰って来られたこと、受け入れてもらえたことがたまらなく嬉しくなり、フェリシアの視界は涙で滲んだ。
「ただいま…戻りました」
震える声で答えると、ヨアンが優しくフェリシアを抱きしめた。
「フェリシア…この城に帰って来てくれて、ありがとう」
「おかえりなさいませ、フェリシア様」
ユーゴも穏やかな笑顔で頷いている。
『私の帰る場所は、ここなんだわ…』
フェリシアはヨアンの胸の中で、その喜びを嚙みしめた。
頬や耳にふわふわとした感触を覚えて肩先に目をやると、先程も見えていた、キラキラした何かがそこにいた。
「使い魔さんたちも…。ただいま戻りました」
ヨアンがフェリシアの肩の横に手をかざすと、指先にキラキラしたものがとまる。
「こいつらも、フェリシアの帰りを待ちわびていたんだ。何故迎えに行かないんだと、毎日こいつらから責められていた」
じっとヨアンの指先に目を凝らすうち、ぼんやりと小人のような姿が浮かび上がった。褐色の肌をした小さな男の子のようなその使い魔は、頭に山羊のような二本の角を持ち、背中には蝙蝠のような羽根が生えている。鼠のような尻尾がくねくねと動いていた。その周りには、同じく角を持つ蝶のようなものも何羽か飛んでいるのが見えてくる。
「この子が小人のような姿をしている使い魔さんですね?それから、蝶のような姿の使い魔さんたち」
フェリシアの問いかけに、ヨアンが目を見張る。
小人のような姿をした使い魔が、嬉しそうに表情を輝かせ、きゃあっと声を上げた。蝶のような姿の使い魔も、フェリシアの周りを飛び回る。
「――見えるのか?こいつらの姿が」
「皆さん、とっても可愛いです」
フェリシアが頷くと、ヨアンがフェリシアをさらにぎゅっと抱きしめた。
「同じものが見えているんだな。俺が見ている世界を、フェリシアも見てくれているんだな」
フェリシアが同じ世界を見てくれていることが、こんなにも嬉しい。
ヨアンは自分の目に映る世界を理解してもらえないことが、どれだけ自分の心に影を落としていたのかを、そしてそれによって知らず知らずのうちに傷つき、世界を拒絶していた自分がいたことを、初めて気づかされた。
どうせわかってもらえない。どうせ怖がられる。それなら自分から離れてしまおう。目を逸らしてしまおう。誰にも会わなければ、誰にも傷つけられはしない。山羊の頭蓋骨の面を被って、感情を殺し魔王として生きる。そうすれば誰も近寄って来ない。そうやってヨアンは自分の心を守ってきた。
「俺は…、今まで自ら孤独でいることを選んできた。負の感情を向けられるくらいなら、自分から背を向けてしまえばいいと。怖かったんだ。拒絶されることが、そうされて自分の激情が抑えられなくなることが。だからこっちから世界を拒絶した。――それでも、どこかで自分を受け入れてくれる人を切望していたんだと思う。あの時…フェリシアが俺を救ってくれた時、この子ならもしかしたら…、と心の奥でフェリシアに願いを託したんだろう。姿を現して拒絶されるのは怖かったくせに…。だから、フェリシアを陰から見守ると決めた。そして、フェリシアをずっと見ているうち、気がついたら恋に落ちてた」
フェリシアのすべてが愛おしくて、抱きしめる腕に力が籠る。
「俺の直感は正しかったんだ。やっぱり、俺を救ってくれたのはフェリシアだった。フェリシアの前に姿を現した時、拒絶しないでくれたことが本当に嬉しかった。そしたらどんどん欲が出て、気づいたらもうフェリシアがいない毎日に耐えられなくなってた。――だけど、諦めなくて良かった。勇気を振り絞って良かった。フェリシア、ありがとう。俺を見つけてくれて。俺を救ってくれて」
ヨアンの気持ちが痛いほど伝わってきて、フェリシアもおずおずとヨアンの背中に腕を回した。誰よりも大切なこの人に、自分の気持ちも伝わってほしい。
「――ヨアン様は、私に居場所をくださいました。私に恋を教えてくださいました。私に立ち上がる力をくださいました。黄泉へと向かっていた私の命を、心を、光溢れるこの世界へと連れ戻してくださったのは、ヨアン様です」
フェリシアはヨアンの背中に回した手で、ぎゅっとヨアンを抱きしめ返す。
「だから、私の方こそ、お礼を言いたいです。私も、ヨアン様が見ている世界を一緒に見られることが、とても、とても嬉しいです。ありがとうございます、ヨアン様。同じ世界を見て、喜びも悲しみもすべて分かち合って、これから生きていきましょう」
抱き合う二人の耳に、
「ずっといっしょ、ずっといっしょ」
という歌うような使い魔たちの声が響いた。
離れがたくてリビングルームのソファに並んで座り、お茶を飲んでいた二人に、ユーゴが声を掛けた。
「ヨアン様、お部屋はどうなさいますか?もうご婚約されたことですし、ご一緒になさいますか?」
ヨアンが飲んでいたお茶で盛大に噎せ込んだ。フェリシアも動揺してカップを落としそうになる。ハンカチで口元を拭いながらヨアンがユーゴを睨みつけると、ユーゴはしれっとした顔をしてにっこり笑った。明らかに確信犯だろう。
「ま、まだ正式な婚約を交わしていないから、それはまずいだろう」
国王とクリストフから結婚の承諾は得たが、まだ婚約の誓約書は交わしていない。まあ、ヨアンはすぐに手配して喫緊に済ませるつもりではいたが。
「そうですか?では、正式にご婚約されましたら、同室になさいます?」
ユーゴが畳み掛ける。長きにわたり心配をかけたことへの意趣返しだろうか。
「い、いや、同室はちゃんと結婚した後で…の方がいいんだよな?」
気まずそうにちらりとフェリシアに視線を送ると、フェリシアは耳まで真っ赤になって俯いていた。フェリシアの膝の上でくつろいでいた蜥蜴のような姿の使い魔が、動揺するフェリシアを不思議そうに見上げている。
「ヨ…ヨアン様のご判断に、お任せします…」
やっと聞き取れるくらいの小さな声で、なんとか返事をするフェリシアを見て、ヨアンが天を仰ぐ。
『これはだめだ。我慢がきかなくなるやつだ。ユーゴめ、これまで散々心配させたからって…やってくれたな』
もう一度ぎろっとユーゴを睨むと、ユーゴがしてやったり、という顔でにやりと笑った。
『こいつ、たまに子どもの頃に戻ったようないたずらするんだよな…』
ヨアンの乳兄弟でもあったユーゴは、昔から頼れる兄のような存在だった。王城を出ると決めた時も、ユーゴはヨアンについて行くと言って譲らなかった。実際、ユーゴがいなかったらヨアンのここでの生活は成り立たなかっただろう。フェリシアとのことも、ずっと心配して見守ってきてくれた、たった一人の存在だ。自分の従者でありながら、ヨアンはユーゴには頭が上がらないほどの感謝の念を抱いていた。
ユーゴは二人をからかってすっきりしたのか、何事もなかったかのようにいつもの穏やかな笑みに戻った。
「それでは、同室は結婚式が終わった後からがよろしいでしょう。フェリシア様、今までお使いいただいていたお部屋はそのままにしております。バスルームもご用意ができておりますので、いつでもお使いください」
耳どころか胸元まで赤くなったフェリシアが、こくこくと頷く。清楚可憐なフェリシアの胸元が薔薇色に染まっている様子がやけに艶めかしく感じて、ヨアンはそんな感情を抱いてしまった気まずさから慌てて目を逸らす。
『やっぱりちゃんとフェリシアの部屋の用意はしてあるんじゃないか』
心の中でユーゴに毒づきながら視線を送ると、ユーゴは余裕たっぷりに微笑んで言った。
「ヨアン様、結婚式が終わるまでは我慢ですよ?」
『バカ!一言余計だ!』
ヨアンの考えなどお見通しらしいユーゴの言葉に、ヨアンの耳も赤くなった。
部屋の前までフェリシアを送り届けたヨアンは、手を握り、しばし熱を帯びた瞳でフェリシアを見つめた。
「これからはずっとフェリシアがいるんだな。朝目覚めたら、全部夢だったりしないよな」
そう言って、握った手に力を込める。フェリシアも躊躇いがちに手をそっと握り返す。
「私も、こうしてヨアン様の元に帰って来られて、なんだか幸せ過ぎて夢みたいです…」
ヨアンの瞳に一瞬、狂おしいほどの愛しさの色がよぎり、何かを堪えるように少し視線を逸らして深呼吸した。
「俺も、本当に幸せだ。――それじゃフェリシア、今日はゆっくり休んで。おやすみ、また明日」
「はい。ヨアン様も。おやすみなさい」
離れ際、ヨアンが素早くキスをした。みるみる頬を赤く染めていくフェリシアを嫣然と見つめ、廊下の奥へと去って行った。
自室に戻ったフェリシアは、糸が切れたマリオネットのようにベッドに倒れ込んだ。唇に残る感触と、紅玉の瞳から送られた甘い視線の名残で、まだ鼓動が速い。ぼうっと幸せに浸るフェリシアの周りに、使い魔たちが集まってくる。
「ふぇりしあ、とろけてる」
「ふぇりしあ、しあわせ」
歌うような口調で無邪気に言われて、ますます顔が熱くなる。
「ご、ごめんなさい…。私ったら、浮かれてしまって…」
恥ずかしさに顔を覆って謝ると、使い魔たちが頷き合いながら続ける。
「ふぇりしあ、しあわせ、あるじ、しあわせ」
「あるじ、うれしそう。みんな、うれしい」
どうやら、フェリシアとヨアンが幸せそうだと、自分たちも嬉しい、と言いたいらしい。
「ありがとう…。これからもよろしくね」
フェリシアがはにかみながら手を伸ばすと、使い魔たちはその手に擦り寄ってきた。
たった一日で自分を取り巻く多くのことが変化して、感情の整理が追いつかない。
アレクシスとのこと、マクシムのこと。国王の言葉と父の笑顔。
応えられなかった元婚約者の気持ちや、寂しさを堪える小さな弟を思うと、幸せに震えていた胸がちくりと痛む。今のこの幸せは、そうやってフェリシアを送り出してくれた人たちの心の痛みの上に成り立っている。
それでも、どうしても閉じ込めておけなかったヨアンへの思い。初めて自分から欲して、初めて譲れないと思ったもの。何よりも大切にしたい人の存在。
『ヨアン様の隣で、私にできることを精一杯していこう。そうしてこの幸せを守れるように努力しよう。それがきっと、送り出してくれた皆さんの気持ちに報いることに繋がるはず』
フェリシアの決意を、使い魔たちが見守っていた。
「でも、どうして急にあなたたちの姿が見えるようになったのかしら…?」
思い思いにフェリシアの周りでくつろいでいる風の使い魔たちを見つめながら、ふと不思議に思いフェリシアが問うと、小人のような姿をした使い魔が答える。
「ふぇりしあとあるじ、きもちがおなじになった。まりょくのはちょう、かさなった。だから、あるじとおなじもの、みえる。きこえる」
フェリシアとヨアンの気持ちが通じ合ったことで、ヨアンの魔力の波長とフェリシアの魔力の波長が重なり、ヨアンの見えている世界を感じられるようになった、ということのようだ。
「ふぇりしあ、まりょく、ある。おかし、まりょくかんじる。まえからだんだん、ふぇりしあ、かんじてたはず」
以前から声が聞こえたり、気配を感じたりできるようになってきていたのは、フェリシアに魔力があることと、お菓子を通じて使い魔たちとの繋がりができてきていたことにも起因しているらしい。
フェリシアは自分に僅かでも魔力があったことと、そしてそれを自分に残してくれた亡き母とに、あらためて感謝をした。
「なまえ、のあ、うらやましい。みんな、なまえ、ほしい」
フェリシアの袖を小人のような姿をした使い魔が引っ張ってせがむ。以前フェリシアがノアに名前をつけたことを知っていて、それがうらやましかったようだ。可愛い要求に、フェリシアはふふ、と微笑む。
「そうね、皆さんお名前があった方が、私も呼びやすくて嬉しいわ。私が考えてもいいの?」
「ふぇりしあのが、ほしい」
「ありがとう。それじゃあ…」
久々にヨアンの城に帰ってきた夜は、そうして更けていった。
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