第22話 魔王は至宝を手にする
謁見の間に消えていくアレクシスの背中を見送ったフェリシアとヨアンは、回廊から美しく花が咲き誇る庭園へ出た。
もうひと時も離さない、とでもいうように、ヨアンはフェリシアの肩を抱いたままだ。フェリシアはそんなヨアンの顔をそっと見上げる。
『本当に、ヨアン様がいる…。これは私の思いが見せている幻想ではないのよね…?』
会いたくて会いたくてたまらなかったヨアンが、自分の隣に、こんなに近くにいる。これは現実のはずなのに、なんだか足元がふわふわして夢の中にいるようだった。
ヨアンに促され花々に囲まれた噴水の脇に腰を下ろすと、甘い香りをのせた風が髪を揺らしながら通り過ぎた。
「──あの日、フェリシアと離れ王城を飛び出してから、ずっと考えていた」
沈黙を破り、ヨアンが口を開いた。
「俺は、これまでずっと陰からフェリシアを見守ってきた。フェリシアが幸せならば、隣にいるのは俺でなくてもいいと思っていた。──だが、気がつけば、四六時中城の中にフェリシアの姿を探してしまう自分がいた。知ってしまったらもう、止められなかった。フェリシアと共に過ごす幸せを。フェリシアに見つめられる喜びを。もう、知る前には戻れなかった。魔王と恐れられる俺ではフェリシアには相応しくないと、何度も自分に言い聞かせようとした。フェリシアは王太子妃、いや、王妃になるべき至宝だと」
フェリシアを映すヨアンの
「でも、どうしても、フェリシアが欲しい」
真っ直ぐな思いが胸に刺さった。
「もう、離したくない。俺がずっと、隣でフェリシアを守りたい。フェリシアを幸せにするのは、俺でありたい。──フェリシアが、好きだ。愛してるんだ」
フェリシアの瞳から、ぽろぽろと閉じ込めていた熱い感情が溢れ出す。
「私も…私もヨアン様が好きです。ずっと…ずっとヨアン様のお傍にいたい…」
伝えるや否や、力強く抱きしめられた。
「本当に…?フェリシアも俺のことを思っていてくれたのか…?」
気持ちが溢れて止まらない。フェリシアはヨアンの胸に身を預けた。
「はい。もう、だいぶ前から…。お会いできない間も、毎日ヨアン様のことを考えていました」
感極まったように、ヨアンがフェリシアの髪に顔を埋める。
「待たせてすまない。これからはずっと一緒にいて。フェリシア」
切実な祈りをのせた、まるで幼い頃出会ったあの男の子が発しているかのような無垢な声。胸がいっぱいで言葉にならなくて、フェリシアは腕の中でこくこくと必死に頷く。
「あぁ、俺の願いが叶うなんて…」
フェリシアの頬に触れ、堪えきれないようにヨアンが顔を寄せる。魅惑的な瞳に自分の姿が映っていることが嬉しくて、幸せで、目が離せない。
「絶対に離さないから。一生かけて愛し尽くす」
唇に熱い思いが降る。何度も何度も、次第に深く。
それは、二人の境目が溶けてなくなってしまうのではないかと思うほど続いた。
二人揃って国王に謁見すると、国王は二人がどんな決断をするのか最初からわかっていたかのように頷いた。今日フェリシアが登城することをわざわざヨアンに知らせたということは、二人の気持ちには当然気づいていたのだろう。フェリシアを王城に呼び出したのも、フェリシアの気持ちを確認するとともに、ヨアンの背中を押すつもりだったのかもしれない。
「ヨアン、フェリシア嬢、幸せになるんだぞ」
「はい。ありがとうございます」
二人が深々とお辞儀をして顔を上げると、国王は優しく微笑んで言った。
「ヨアン。フェリシア嬢へのお前の思いが報われたことを、心の底から喜ばしく思う。これからは王城にももっと顔を出せ。これでも親子ほど歳の離れた弟のことを気にかけていたのだぞ。」
ヨアンはやや困惑したような表情で兄の顔を見上げた。
「私の存在が、国王陛下にご迷惑をお掛けしてしまうのでは…?」
「強固な結界でこの国を守っているのは誰だ?今まで、何人もの王族で力を注いでいた結界を、お前はたった一人で守っているのだぞ。もっと自分を誇りなさい。お前の存在は、この国になくてはならないものだ。だからこそ、至宝を手にするに値すると私は判断したのだ。本来なら、フェリシア嬢には王妃となってアレクシスを支えてもらいたいところではあったがな」
フェリシアがその言葉に頭を下げる。国王が首を振って続けた。
「フェリシア嬢、其方もこれまで国のためによく尽くしてくれた。私の判断のせいで、辛い思いもさせてしまった。どうか、幸せになってくれ。義兄として見守っている」
「国王陛下…。ありがとうございます」
涙ぐんだフェリシアに、ヨアンがそっとハンカチを差し出す。その様子を国王が目を細めて見守っていた。
王城を辞した二人は、ヨアンの馬に乗りデュプラ邸へと向かった。二人で馬に乗るのは、森の外では初めてだ。フェリシアはヨアンに身を預けながら言った。
「また、森の散策に連れて行ってくださいますか?」
ヨアンがフェリシアの腰に回した腕に力を込め、後ろから抱きしめるようにして耳元で囁く。
「もちろんだ。いつでも、フェリシアが望む時に」
二人見つめ合い、微笑む。こんな幸せがあるなんて、知らなかった。
初めて面を外したヨアンの姿を目にしたクリストフは、魔王のイメージからは到底結びつかない人間離れした美貌を目の当たりにして、しばらく呆然としていた。
「フェリシアと結婚することを、どうかお許し願いたい」
ヨアンに請われ、はっと我に返る。
「ヨアン閣下、こちらこそ、フェリシアをよろしくお願いいたします」
慌てて頭を下げたクリストフの後ろから、そっとマクシムが顔を覗かせた。
「フェリシアおねえさま、このかたとけっこんするの?またいなくなっちゃう?」
今にも溢れんばかりに涙を溜めた瞳で見上げられて、フェリシアはたまらなくなる。腰を屈めて、マクシムと目線を合わせた。
「ごめんね、マクシム。ずっと一緒にいてあげられなくて…」
つられて涙声になったフェリシアの横に、ヨアンもさっと膝をついた。
「はじめまして、マクシム。私はヨアン・ド・ラ・ドゥメルクだ。フェリシアお姉様のことが大好きで、この手で幸せにしたいと思っている。フェリシアお姉様と結婚させてもらってもいいか?」
父以外の大人の男性に目線を合わせて話をされることなどなかったマクシムは、ヨアンの顔を驚いたようにじっと見つめた。ヨアンもそんなマクシムをじっと見つめ返している。
「――ヨアンさまのおめめ、すごくきれい…。ルビーみたいだね」
ヨアンの瞳に吸い込まれるように見入っていたマクシムが、ほうっとため息を漏らした。フェリシアも頷く。
「私もマクシムと同じように思っていたわ」
思わぬタイミングで疎ましいと感じていた鮮紅の瞳を褒められ、ヨアンが狼狽する。そんなヨアンを真っ直ぐ見つめて、マクシムが言った。
「フェリシアおねえさまのこと、だいすきなんだよね?フェリシアおねえさまを、ぜったいにぜったいにしあわせにしてくれますか?」
真剣に尋ねるマクシムに、ヨアンも表情を引き締めて頷く。
「約束する。必ず幸せにする」
マクシムはヨアンの隣のフェリシアに視線を移した。
「フェリシアおねえさまも、ヨアンさまがだいすきなの?」
フェリシアも真剣な表情で頷く。
「ええ。ヨアン様が大好きなの」
マクシムはしばらく無言で二人を見つめていた。張り詰めていたその表情が、ゆっくりと解けるように笑顔に変わっていく。
「フェリシアおねえさま、ヨアンさま、しあわせになってください」
「マクシム…。ありがとう…」
フェリシアが涙を零しながらマクシムを抱きしめた。その上からヨアンが二人を抱きしめる。クリストフも涙を流しながら、その光景を見守っていた。
「マクシム、また会いに来るわね。たくさんお手紙も書くわ」
ヨアンとともに森の城に帰ることになったフェリシアが、マクシムの手を握って言った。
「うん。ぼくも、いっぱいおてがみかくね」
理解はしていても、寂しさを堪えられない様子のマクシムは、クリストフの足にしがみつくようにして立っていた。そんなマクシムに、不意にヨアンが問いかける。
「マクシム、猫は好きか?」
突然猫のことを聞かれて一瞬きょとんとした表情になりながらも、マクシムが答えた。
「ねこさん…すき」
すると、いつの間に現れたのだろうか、ヨアンの後ろから黒猫が顔を出した。ヨアンはその黒猫を抱き上げ、マクシムにそっと渡す。
「ノアという。マクシムのそばに置いてやってくれ。フェリシアお姉様への手紙も、ノアに渡せばすぐに届く」
初めて抱いた猫。マクシムは腕の中の柔らかな存在に見入る。ノアも
「――ノア?」
マクシムが恐る恐る名前を呼ぶと、呼びかけに答えるようにノアがにゃあ、と鳴いた。マクシムの表情がみるみる明るくなる。
「ヨアン様、ありがとうございます」
フェリシアも嬉しくなって、泣き笑いのような表情になる。
「ノアも、ありがとう。マクシムをよろしくね」
フェリシアに撫でられ、ノアが気持ち良さそうに喉を鳴らした。
デュプラ邸を出ると、ユーゴが馬車で迎えに来ていた。森の城までは一刻はかかる。さすがに馬に二人乗りでは無理があると、ヨアンがカラスを使いに出していたのだ。
「フェリシア様、お迎えに上がりました。城へ帰りましょう」
ユーゴが”帰る”という言葉を選んでくれたことが嬉しくて、胸がいっぱいになる。
「はい。ありがとうございます、ユーゴさん」
フェリシアは涙ぐみながら笑顔で頷いた。
「ヨアン様、良かったですね」
ユーゴはフェリシアの手を取るヨアンにも微笑みかける。
「――心配をかけたな」
ヨアンが照れくさそうに笑った。それから馬車の扉を開けてフェリシアをエスコートする。
「さあ、一緒に帰ろう」
幸せそうに微笑み合う二人を見ながら、ユーゴがそっと涙を拭った。
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