第21話 そして魔王の夜は明ける〈side ヨアン〉
フェリシアを狙う者たちをすべて片付けた”婚約破棄式”の夜。
森の奥の城に戻り、どさっとベッドに身を投げ出したヨアンは、目を閉じて大きく息を吐いた。
緊張の糸が解けたせいか、魔力を酷使してきたことへの反動か、それとも精神的なダメージによるものなのか。身体がずっしりと重い。
『今までフェリシアを苦しめ、命を脅かしてきた連中を一掃できて良かった』
計画通りにすべてを成し遂げられたことに安堵する。だが、広間で自分に向けられた視線を思い出すと、心臓を絞り上げられているかのように苦しくなっていった。
──恐怖、嫌悪、好奇。一一歳で城を出る時にも味わった、あの視線。
フェリシアの前でそんな感情をぶつけられている自分に耐えられなくて、思わず逃げ出した。自分の名を呼ぶフェリシアの声が、まだ耳に残っている。
『俺は、情けないままだな』
両手で顔を覆い、ぎりっと歯を食いしばる。堂々とフェリシアの隣に立てる人間になりたかったのに。
コンコン、とドアをノックする音に続き、ユーゴの声がした。
「ヨアン様、入浴の準備が整いました」
「──わかった。ありがとう」
重い身体をベッドから引き剝がすようにのろのろと起き上がり、部屋を出た。
ヨアンの部屋にもシャワールームはあるが、いつもヨアンは階下にある大きな浴室を使っていた。
一番奥の自室から、長い廊下を歩いていく。途中、フェリシアが使っていた部屋の前で立ち止まった。フェリシアがここにいたのはほんの数ヶ月だというのに、すっかりフェリシアに懐いた使い魔たちがフェリシアの不在を嘆き、ドアの前でうろうろ飛び回っていた。
「フェリシアは、もうここには帰ってこないかもしれないぞ…」
ヨアンの言葉に、さらに使い魔たちが騒がしくなる。
「迎えに行けと?最恐魔王と恐れられる俺が?」
使い魔たちの抗議に、絶望したような顔で答える。それができたら、どんなに良いか。自分が皆からどう見られているかを痛いほど思い知らされた後では、軽々にフェリシアを望むことなどできなかった。
『いつもなら、フェリシアがマッサージをしてくれてたんだよな』
入浴後、リビングのソファに横たわり、ぼんやり天井を見上げていると、唐突にフェリシアがいない虚無感に襲われた。
どんなに疲れていても、フェリシアがいてくれるだけで癒された。遠慮がちに肩や首に触れる手は温かく、じんわりと癒されていくのを感じると同時に、まるで自分自身まで浄化されて綺麗になれるような心地がした。
『フェリシア、フェリシア、フェリシア…』
フェリシアがこの城に来る前、自分はどうやって生きていたのだろう。苦しくて、辛くて、呼吸すらままならない。
「ヨアン様、こちらをどうぞ」
いつの間にか、ユーゴがソファの横に立っていた。ユーゴはソファの前のテーブルに、ソルベが入ったグラスをそっと置く。
「フェリシア様が、昨夜作っておられました。きっと明日は、ヨアン様はお疲れになって帰って来られるだろうと。食欲がなくても、ソルベならば食べていただけるかもしれない、とおっしゃって」
フェリシアはここにいないのに、強くその存在を感じて、泣きそうになった。
「本当はフェリシア様が手ずからヨアン様にお出ししたかったのではないでしょうか」
スプーンでソルベをすくって、口に運ぶ。
ひんやりと甘くて、爽やかなりんごの味わいのなかに、ほんのり利いたはちみつが優しい。ソルベがゆっくりと身体に染み渡ると同時に、疲れが癒されていくのを感じる。フェリシアが寄り添っていてくれるような気がした。
「いつだったか、フェリシア様がとても眠そうにしていらして」
ユーゴがソルベを見つめながら話し出す。
「どうやら、眠れない出来事があったようでした。お菓子のご用意は無理をされなくてもいいのですよ、とお伝えしたのですが、ヨアン様のお菓子はどうしてもご自分でご用意されたかったようで。いつもより時間をかけながらも、しっかりと完成させていらっしゃいました」
ヨアンはソルベを食べながら、黙って話を聞いていた。
「──私は、フェリシア様も、ヨアン様のことをいつも考え、思っていらしたようにお見受けしておりました」
ユーゴはそう言ってそっと笑うと、空になったソルベのグラスを下げた。
行き場のない自分の気持ちを持て余しながら、時だけが過ぎていった。
フェリシアの幸せを考えたら、身を引くべきだ。もう二度とフェリシアの前に姿を現すべきではない。理性的な自分が言う。だが、もう一人の自分が──少年の頃からフェリシアだけを見つめ、焦がれてきた自分が、涙を流して訴える。
フェリシアがいない人生なんて、もう耐えきれない。フェリシアに会いたい。フェリシアが欲しい。
せめぎ合う思いを抱え、それでもフェリシアの様子が知りたくて、使い魔を飛ばす日々。
ある日、王城からの知らせに一瞬表情を輝かせ、それから苦悩の表情に変わるフェリシアが見えた。
『フェリシアに、何かあったのか?』
胸がざわつく。フェリシアを悲しませる何かがあるのなら、取り除かねば。
執務室の椅子から立ち上がり、部屋を出ようすると、ドアの外からノックの音が響いた。
「ヨアン様、王城から書状が参りました」
ドアを開けると、ユーゴが王城からの書状を差し出した。急ぎ内容を確認する。
書状には、フェリシアには毒殺未遂事件の後遺症はなかったということ、そして、それにより再度、王太子アレクシスの婚約者にフェリシアを推す声があることが記されていた。
『再度アレクシスの婚約者に…』
ガツンと殴られたような衝撃がヨアンを襲う。
フェリシアに後遺症がなかったことが何より喜ばしいのに、今度こそフェリシアがアレクシスと結婚してしまうかもしれないという動揺が喜びを上回ってしまった自分を殴りたくなる。
『王城から逃げ帰ったくせに。俺にはショックを受ける資格すらないというのに』
眉間を押さえ、再びフラフラと執務机の椅子に腰を下ろした。再び書状に目を落とす。
書状の最後には、フェリシアは明日登城することになっており、国王がヨアンの意向も聞きたいと言っているとの記載があった。国王には、ヨアンがフェリシアに抱く思いもとっくに知れているのだろう。
『俺の意向?俺の意向は…』
先程見えた、フェリシアの苦悩の表情が脳裏をよぎる。それから、ユーゴが言った、フェリシアもいつもヨアンのことを考え、思っていたように見えた、という言葉。
『もしかすると、フェリシアも俺と過ごす未来を思い描いてくれていたのではないか?──いや、そんな都合のいい考えは捨てるべきだ。何より、最恐魔王などという二つ名を持つ俺では、フェリシアに相応しくない』
日が落ち、夜の帳が下りる。答えが出ないまま、ヨアンは塔へと向かった。一0年以上も毎日登っている階段が、ここのところ恐ろしく長く感じる。足に鉛をぶら下げているような感覚から逃れられない。フェリシアがいた頃は、あんなに魔力を酷使しても平気だったというのに。
ヨアンは無意識にナイトガウンの胸に縫い取られた薔薇の刺繍に指を這わせていた。ほんのり伝わる温かさが、フェリシアがかつてこの城にいたことが夢ではないと語ってくれる。フェリシアと過ごした、あの幸せな日々。
いつものように窓を開け、目を閉じて結界へと魔力を注ぎ込む。フェリシアの住むこの国を守るために。離れていても、こうしてフェリシアを守ることができる。フェリシアを守ることだけが、自分の生きる意味。
──それでよかったはずなのに。
目を閉じていると、フェリシアの笑顔が、触れる手のぬくもりが、二人図書室で過ごした時間が、どうしようもなく思い出されて、胸がさらに苦しくなった。
フェリシアの隣で、ずっとフェリシアを守りたい。たとえ相応しくない存在だとしても、一緒に生きていきたい。
──フェリシアを、愛してる。
何を犠牲にしても、どんな目に合っても、何と言われても、フェリシアを愛している。誰にも渡したくない。自分の中のどうしても譲れない思いに行きつき、顔を上げる。目を開けると、東の空が白んでいるのが見えた。
『夜明けだ。俺の気持ちを伝えに行こう。もう、逃げない。フェリシアに相応しい自分になるんだ』
やっと決まった気持ちだけを抱え、森の城を飛び出す。
負の感情が籠った視線が直接浴びせられることを恐れ、外すことのできなかった山羊の頭蓋骨の面も置いてきた。魔王などではなく、ただのヨアンという一人の男として、フェリシアに会いに行く。
決意を胸に馬を駆る。
王城までの道のりは、どんなに急いでも一刻はかかる。間に合うだろうか。アレクシスに請われて、フェリシアは婚約を受け入れてしまうかもしれない。そもそも、フェリシアは自分といることなど望んでいないのかもしれない。それでも――。
『舞台に上がりもせず、終わらせたくない。フェリシア、待っていてくれ』
遠く、朝日に照らされた王城が見えた。
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