第20話 至宝は誰の手に

 決戦を終えたフェリシアは、クリストフとともにデュプラ邸へと帰ることとなった。邸では母と姉が犯した罪のことなど何も知らないマクシムが待っていたからだ。

 マクシムはフェリシアの顔を見ると、瞳を輝かせ全身で喜びを表すようにして抱きついてきた。

「フェリシアおねえさま!あいたかった!ぼく、ずっとまってたんだよ」

 フェリシアもマクシムを優しく抱きしめて、頭を撫でる。

「ただいま、マクシム。寂しい思いをさせてごめんなさい」


 元々はイヴェットが罪を犯したことが原因とはいえ、まだ幼いマクシムの母を奪うような結果になってしまった。マクシムの笑顔を前にして、フェリシアは胸が痛くなる。

「ぼくね、フェリシアおねえさまにおしえてもらったきょく、ひけるようになったんだよ。きいてくれる?」

「ええ、もちろん。だけど、今日はもう寝る時間になってしまうから、明日聞かせてね」

「うん!あれ、おかあさまは?」

「お義母様はね…」

 フェリシアが言葉を詰まらせると、後ろからクリストフが声を掛けた。

「マクシム、今日はお母様はいないんだ。フェリシアお姉様が本を読んでくれるから、もう寝なさい」

「フェリシアおねえさまが、ごほんをよんでくれるの?じゃあ、まえによんでくれたいぬのおはなしがいい!」

 大喜びで本を用意しに行ったマクシムの背中を見送りながら、クリストフが言った。

「フェリシア、今夜はマクシムを寝かしつけてやってくれないか?明日、私からきちんと話そう」

「はい、わかりました」

 フェリシアは辛そうに頷いた。


 翌日、クリストフがイヴェットとセリーヌはもうこの家に帰れないということをマクシムに話して聞かせると、マクシムは涙を堪えながら、じっと父の話に耳を傾けていた。

「おかあさまとセリーヌおねえさまは、わるいことをしてしまったんだよね?」

「――そうだ」

「わるいことをしてしまったなら、つみをつぐなわないといけないよね?」

「ああ」

「わかった。ぼく、おかあさまとセリーヌおねえさまのぶんまで、いいこになる。ぼくは、このおうちの、あとつぎだから。ぼくがしっかりしないと、いけないんでしょう?」

 クリストフはマクシムを強く抱きしめた。マクシムの瞳から涙が零れる。

「これからは、父様が一緒にいるから。マクシムは一人じゃない」

「うう…。ふええん」

 マクシムは幼いながらも、デュプラ家後継ぎとしてしっかり成長をしている。マクシムの部屋の外で話を聞いていたフェリシアも、胸を押さえ涙を流した。



 イヴェットたちが捕らえられてから、二週間が経とうとしていた。

 あの日、何も語ることなく王城を辞したヨアンとは、そのまま会えていない。使い魔のカラスの姿は何度か目にしたが、フェリシアが近づこうとすると飛び立ってしまう。森の中の古城でヨアンと共に過ごした日々が遠く感じられ、やるせなかった。

『ヨアン様は、お元気でいらっしゃるかしら…』

 あの時ヨアンに向けられていた視線や言葉を思うと、胸が痛む。自分のために力を尽くしてくれたヨアンに、何もできなかったという後悔で押しつぶされそうだった。


 その日、国王の呼び出しに応じ登城したフェリシアは、謁見の間に通された。アレクシスとクリストフも控えていたが、ヨアンの姿はない。もしかしたら会えるかもしれない、という淡い期待を抱いていた胸が、ぎゅっと痛んだ。


 イヴェットとセリーヌ、そしてレイモン男爵も、多くの証拠を突きつけられ、観念したように罪を認め始めたようだ。今回フェリシアのシャンパングラスに入れられていた毒もレイモン男爵が入手したもので、二年前使用された毒と同じだと特定された。

 さらに、クリストフと王国の諜報員の調べで、レイモン男爵が隣国カルセドニーの貴族と繋がり、武器や情報を流していたという事実も掴めた。レイモン男爵への厳しい処罰と、爵位剝奪は避けられないだろう。レイモン男爵から賄賂を受け取った大臣たちも、自ら名乗り出て国王に謝罪し、職を辞したたらしい。あの時の国王の牽制が効いたのだろう。


「ベルナールの事件については、なかなかイヴェットたちも認めようとしなかった」

 国王が核心に触れた。フェリシアはぎゅっと口を引き結ぶ。

「そこで自白の魔術を用いたところ、予想通り、イヴェットがマクシムを後継ぎにするために、ベルナールに毒を盛ったと供述した。病に見せかけられるよう、数日間にわたり少しずつ遅効性の毒を使ったと」

 フェリシアの瞳から、大粒の涙が零れる。クリストフも天を仰ぎ、涙を堪えた。

 あの時、陰謀に気づいてさえいれば──。

 ベルナールはどんなに苦しかっただろうか。どんなに悔しかっただろうか。黄泉に渡ってしまった命はもう、帰ってはこない。


「レイモン男爵には、かねてよりカルセドニー帝国と通じているとの疑惑があったが、証拠が掴めなかった。レイモン男爵から請われクリストフの後妻にイヴェットが納まることを許したのも、レイモン男爵の動向を探りたいという狙いがあり、クリストフの忠誠に甘えてしまったのだが…。結果としてデュプラ家に多くの災いを招いてしまったことを、詫びねばならん」

 国王に謝罪され、クリストフが首を振り、伏して詫びる。

「いいえ、国王陛下。すべては私の責任です。国の役に立つどころか、国王陛下のお手を煩わせる事態にまでなってしまいました。レイモン男爵の対外的な動向を探ろうとするあまり、邸の中のことをなおざりにし、多くをベルナールに背負わせてしまった私が至らなかったのです。家令たちに確認したところ、ベルナールはイヴェットの散財や勝手を諫めることもしていたようでした。イヴェットはデュプラ家を思うままにできないことに、不満を募らせていたと…。私が至らなかったばかりに、大切なベルナールとフェリシアを犠牲にしてしまった…」

 堪えきれなくなった涙が、クリストフの頬をつたう。

 フェリシアは父の手を取り、大きな悲しみを二人静かに受け止めた。


「あとひとつ、フェリシア嬢に伝えねばならぬことがある。二年前の事件の、後遺症について」

 国王の言葉に、フェリシアは涙を拭い顔を上げた。

「あの時、王城で処置と治療にあたったのは宮廷医だった。だが、其方が意識を取り戻し邸宅へと移された後に子を成せないと診断した医師は、レイモン家が手配した医師だったのだ。ベルナールを過労と診断し、死因を不明とした者と同じ医師だ」

 生死の境を彷徨い一月後に目覚めた後も、フェリシアはしばらく朦朧とした状態だった。王城から邸に戻った辺りの記憶もあやふやだ。当然、診察した医師の顔も思い出せなかった。まさか、あの時兄を診断した医師だったなんて。


「ということは、フェリシアに後遺症はないということでしょうか?」

 クリストフが顔を上げた。

「その可能性は高い。その医師も診断を偽ったと供述している。フェリシア嬢には、再度宮廷医の診断を受けてもらいたい」

「承知いたしました。ご配慮くださりありがとうございます」

 国王の言葉を、フェリシアはお辞儀をして承った。


 数日後、デュプラ家に”フェリシアに後遺症はなし”との診断結果が伝えられた。健康を損なっているところもなく、毒によるダメージからもしっかりと回復しているとの診断だった。

 フェリシアの胸に、あらためてヨアンへの感謝が込み上げる。もう一度ちゃんと感謝の気持ちを伝えたい。ヨアンに会いたい。

 王城からの知らせを受け、フェリシアの心は一直線にヨアンに向かう。だが、知らせはそれで終わりではなかった。

 フェリシアに後遺症がないとわかった今、再度フェリシアをアレクシスの婚約者に、という話が浮上しており、その件について登城してほしいというのだ。


 元々、フェリシアはアレクシスを支え王妃となる立場だった。今回の一件でも、アレクシスは自分を犠牲にして協力してくれたという恩がある。もし、再びアレクシスの婚約者になることを請われれば、断ることなどできはしない。しかし…。

『私は、私の心は…』

 苦悩するフェリシアを、窓の外からカラスがじっと見つめていた。


 翌日フェリシアが登城すると、入り口でアレクシスが待っていた。柔和な笑顔に、フェリシアも微笑みを返す。

『アレク様の、いつもの優しいお顔…』

 心が揺れる。自分はどうするべきなのか。


 謁見の間までの回廊を、二人連れ立って歩いた。

 幼馴染みで、婚約者だったアレクシス。温潤良玉で時に兄のような存在であり、時に共に支え合う同士だった。

「アレク様、本当に色々とありがとうございました」

 あらためて感謝を口にする。アレクシスの協力なしには、今回の計画の成功はなかっただろう。

「いいや。やっとフェリシアを守れなかったことへの贖罪を果たせた気がするよ」

「贖罪だなんて。アレク様には何の非もございませんでしたのに」

 二年もの間、フェリシアを守れなかった償いとして、婚約者の皮を被りセリーヌの動向を探り続けていたなど、どれほどの苦悩があったことだろうか。


 不意に、アレクシスがフェリシアの手を取り立ち止まる。

「フェリシアにずっと、伝えたいことがあったんだ。二年前は最後まで言わせてもらえなかったけど、今度はちゃんと言わせてほしい」

 真摯な瞳を向けられ、フェリシアもまっすぐ見つめ返した。

「フェリシア、ずっと君が好きだった。僕と一緒に人生を歩んでほしい」

「──アレク様…」


 自分の立場は、よくわかっている。幼い頃から共に歩んできたアレクシスを支えたい気持ちも、もちろんある。兄を失った時も、婚約破棄の時も、今回も、アレクシスは誠心誠意フェリシアに寄り添ってくれた。感謝してもしきれない思いだ。

 だが、頭ではどう答えるべきかわかっていても、心が言うことを聞いてくれない。


 俯き答えられずにいるフェリシアを、アレクシスが引き寄せる。

「フェリシア、僕じゃだめかな」

『アレク様の思いに応えなければいけないのに。こんなにも、私を思い寄り添ってくれているのに』

 どうしようもない思いが瞳から零れたその刹那、風が巻き起こり、フェリシアは後ろから黒い影に抱きすくめられた。


「フェリシアは、渡せない」

 耳元で響く、焦がれていた声。

 ヨアンが肩で息をしながら、フェリシアを腕に抱きアレクシスを見据えていた。

 余程急いだのだろうか、山羊の頭蓋骨の面はなく、露になった神が創り上げた芸術のような美しいかんばせに汗が浮かんでいる。乱れた前髪が艶麗さを際立たせていた。

「ヨアン様…」

 ヨアンが来てくれた。ヨアンの腕の中にいる。その事実に、涙が溢れて止まらない。


「──遅いですよ、叔父上。本当にフェリシアを僕のものにしてしまうところでした」

 アレクシスが苦笑しながらヨアンを軽く睨みつける。それからフェリシアに、愛しさと切なさが綯い交ぜになったような表情を向けた。

「フェリシアから断れるはずないのに、ずるい真似してごめん。でも、さっきのは僕の嘘偽りのない気持ち。あの時伝えられなかったこと、僕はずっと悔やんでた。もう二度と後悔したくなかったから、どんな結果になってもちゃんと伝えたかったんだ」

 真剣な眼差しに、思いの深さが表れていた。応えることができたなら、どんなに良かっただろうか。

「アレク様、私…ごめんなさい…」

「うん、わかってる」

 アレクシスが悲しそうに笑う。

「ずっと見てきたから、フェリシアの気持ちにはすぐに気づいたよ。誰を、どんな思いで見つめているか、ね…」

 それからひとつため息をつくと、ヨアンにぐっと詰め寄った。

「叔父上、フェリシアを幸せにしなかったら許しませんよ」

 ヨアンがさらに強くフェリシアを抱き寄せ、決意を告げる。

「絶対に、幸せにする。何があってもフェリシアを守り抜く」

 二人の男はしばし無言で視線を交わした。お互いの覚悟を確認し合うように。


 やがて、アレクシスがふっと表情を緩め、自嘲気味に告げる。

「では、僕は国王陛下に報告してまいります。フェリシアは王弟殿下に奪われました、ってね。──大丈夫だよ。今日フェリシアが呼ばれたのは、無理矢理婚約者に戻すためじゃなく、フェリシアの意思を確認するためだから。もう、確認はできたからね」

 アレクシスは視線をフェリシアへと移し、溢れる感情を飲み込むようにきゅっと唇を引き結ぶ。

 少しの間の後、やや苦し気に笑顔を作り、手を差し出した。

「フェリシア、幸せにね」

 フェリシアも手を握り返す。

「アレク様も」

 自分の気持ちに別れを告げるかのように、フェリシアの手の甲に長いキスを落とし、アレクシスは二人に背中を向ける。

 大きく一呼吸したのが、その背中から伝わった。それからひらりと手を振ると、謁見の間へと消えていった。

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