第9話 陽炎姫の刺繍
いつも通りの少し遅めの朝食の後、フェリシアがおずおずと刺繍入りのハンカチを差し出すと、ヨアンは目を見開いて数秒静止した。毎日のお菓子だけでも幸せ過ぎると思うほど嬉しいというのに、そのうえ自分のためにフェリシアが刺繍を施してくれるなど、想像もしていなかったからだ。
ヨアンは躊躇いがちに手を伸ばし、信じられない、というような表情でハンカチを受け取る。
「美しい刺繡だ。本当にいいのか?」
縫い取られた自分の名前を、そっと指先でなぞる。
恥ずかし気に頬をほんのりと染めたフェリシアが、こくりと頷く。
「お預かりしたハンカチに勝手に刺繍をしてしまって、申し訳ございません。私はこの城に置いていただけて、毎日がとても幸せで…。何かお礼がしたかったのです…」
「礼を言いたいのはこちらだ。フェリシアが城に来てくれてから、毎日がこの上なく満たされている。フェリシアが作ってくれるお菓子は美味しいし、身体も心も癒され力が湧く。それに何より、使い魔を通してしか見ることができなかったフェリシアがここにいてくれることが、夢のように嬉しいんだ」
その言葉を聞いたフェリシアは耳まで赤くなった。ヨアンの率直すぎる言葉は、いつもフェリシアの心を大いに揺さぶる。
『ずっとユーゴさんと二人きりだったこの城に、過ぎた恩義を感じてくださっている私が来たことで、少しは毎日を楽しんでくださっているということなのでしょうか…』
ヨアンがくれる言葉の奥にどんな心情があるのか、フェリシアは計りかねていた。
真っ赤になって俯いてしまったフェリシアに、大切そうにハンカチを眺めていたヨアンが言った。
「もし…差し支えなければだが。他のハンカチにも刺繍をしてもらえないだろうか?いや、大変ならいいんだが…」
フェリシアはぱっと顔を上げる。ヨアンの表情から、刺繍をしてもらいたいというのは本心のようだと悟る。ヨアンは嘘など吐かないし、変なお世辞を言ったり追従したりはしないとわかっているが、優しすぎる故に自分に気を遣っているのではないかと心配になったのだ。
「もちろんです。お許しいただけるのであれば、是非」
フェリシアが答えると、ヨアンの表情が喜びで満たされていく。
「これと同じ色の糸がいい。好きな色だ。この薔薇の花も、俺の印章を知っていてくれたのか?」
薔薇の刺繍に触れて美麗な微笑みを浮かべる。ヨアンを思って選んだ糸。美しい夜の色。気に入ってもらえたことが嬉しくて、フェリシアも微笑む。
「はい。お印は以前王城でうかがったことがございました。気に入っていただけたようで、嬉しいです」
二人の会話を聞いていたユーゴが、静かに一礼して早速ハンカチを用意しに下がっていった。
朝食後、ヨアンが日課の剣術の鍛錬を始めたので、フェリシアは自室に戻り裁縫箱とハンカチ、紙とペンをテーブルに広げた。数枚あるハンカチは、どれもシンプルな白。しかし、どれも素材は極上で、手触りも光沢も素晴らしい。ユーゴがきちんと厳選しているようだ。
人と会うために外に出ることのないヨアンは、これまで持ち物にほとんど関心がなかったのだと、ハンカチを持ってきてくれたユーゴが言っていた。
『素材の素晴らしさを損なわないようにしなければ…。それに、どれも同じデザインではつまらない気もするし…』
思い浮かんだいくつかの図案をメモする。
『名前の書体も変えてみて…。この書体なら、縁取りをしても素敵かもしれないわ。薔薇の花のお印だけというのもいいかもしれない』
ヨアンをイメージすると次々とデザインが浮かんできて、気づけば自分の周りに何枚も紙が散らばっていた。時計を見ると、そろそろヨアンが鍛錬の合間に一息つくころだ。
デザインの決定は一旦置いておいて、フェリシアは階下へと降りた。キッチンに入り、朝水出しして冷やしておいたアイスティーをグラスに注ぐと、レモンとミントを添えて中庭に運ぶ。
中庭では、ヨアンが汗を流しながら剣を振るっていた。
身のこなしは敏捷でありながら、ひとつひとつの動きが洗練されているせいかとても優雅に映る。それでいて引き締まったしなやかな体躯から繰り出される一刀は鋭く、剣術の心得のないフェリシアから見ても相当な手練れであることは一目瞭然だった。一心不乱に剣を振るう姿は、思わず見惚れてしまうほどに眩しい。
フェリシアがガゼボにお茶の用意をしていることに気づいて、ヨアンが動きを止めた。
開いたシャツの胸元に汗が光る。黒いシャツが白く逞しい胸元をやけに艶めかしく見せて、フェリシアはどきりとし、目を伏せながらタオルを差し出した。
「お疲れ様でございます」
「ああ、いつもありがとう」
タオルを受け取り、汗を拭いながらヨアンがアイスティーを飲む。一口飲んで、満足気に目を細めた。
「香りがいいな」
フェリシアもその様子に安堵して微笑んだ。
「おかわりをお持ちしましょうか?」
「いや、大丈夫だ。あまり飲み過ぎると逆に身体が重くなる。このくらいがちょうどいい」
ヨアンはアイスティーを飲み干して再度汗を拭うと、立てかけてあった剣を握る。
「ごちそうさま。このまま昼まで鍛錬する。午後は一緒に図書室で読書をしよう」
「はい。楽しみにしております」
フェリシアはトレーにグラスを載せながら頷いた。
ヨアンは、午前に剣術や体術の鍛錬、午後に読書と魔術の研鑽を日課としていて、フェリシアが来てからはいつも読書の時間に誘ってくれていた。
毎日のヨアンとの読書の時間は、フェリシアにとって大切な時間になっている。ただそれぞれ思い思いの本を読むだけなのだが、あの居心地の良い図書室でヨアンとその時間を共有するのは、不思議と心が満たされる思いがする。
テーブルを挟んだ向かいにヨアンが座り、一緒に読書をしているというだけで、深い安心感に包まれるのだ。読書の合間にフェリシアがお菓子を用意してお茶を入れるのも習慣化していた。
再び剣を振り始めたヨアンを少し眺めた後、フェリシアは城内に戻った。
自室のテーブルに先程のデザイン画を並べ、ハンカチを持つヨアンの長い指を想像して考え込む。
どのデザインが映えるだろう。どのデザインが、ヨアンが纏うあの気高さを引き立てられるだろう。
『これと…これ。それからこれも…』
いくつかのデザインを選び取り、早速作業を開始した。ヨアンを思いながら、針を刺していく。
――コンコンコン。
ノックの音にはっとして顔を上げる。時計を見ると、いつの間にか昼食の時間になっていた。
「フェリシア様、昼食の準備が整いました」
ユーゴの穏やかな声。フェリシアは慌てて立ち上がった。いつもなら時間より少し前に階下に降りてユーゴを手伝っていたのに、没頭しすぎて時間を忘れてしまった。
「すみません。熱中しすぎてしまったようで、失礼いたしました。すぐに参ります」
「大丈夫ですよ。ヨアン様より、ゆっくりでかまわない、とのことです」
一枚は刺繍が完成している。フェリシアはその一枚を持って部屋を出た。
「お待たせしてしまい申し訳ございません」
部屋の外で待っていたユーゴに詫びる。
「急かしてしまったようですね。失礼いたしました。――もう一枚完成されたのですか?」
フェリシアの手元に目をやり、ユーゴが驚く。
「ええ。刺繍を始めるとついつい没頭してしまう癖がございまして…」
ユーゴが厳選した質の良いハンカチに見合う刺繍になっているだろうか。フェリシアは少し不安になった。
「そちらも大変美しいですね。ヨアン様も喜ばれることでしょう」
感心したように頷くユーゴを見て、フェリシアは胸を撫で下ろす。
「そうだといいのですが…」
「大丈夫です。必ず気に入られますよ」
にっこりと笑ったユーゴとともに、ダイニングルームに向かった。
剣術の鍛錬を終えたヨアンは、今朝渡したばかりのハンカチを手にし、ゆったりとダイニングテーブルについてフェリシアを待っていた。シャワーを浴びて着替えを済ませたようで、
「遅くなり申し訳ございません」
フェリシアが詫びるとヨアンは悠然と微笑んで立ち上がり、椅子を引きフェリシアを座らせながら、また赤面するようなことをさらりと口にする。
「気にするな。フェリシアを待つ時間すら俺には幸福だ」
「――っ」
耳元で囁かれ、答えに窮してフェリシアは俯く。
『ヨアン様、いつもいつも心臓に悪いです…』
思わず手にしていた完成したばかりのハンカチをぎゅっと握りしめてしまい、はっとする。皺にはなっておらず、ほっとした。
「あ、あの、こちらもう一枚出来上がりましたので、どうぞお使いください」
差し出すと、ヨアンが驚喜の表情で、ハンカチを受け取った。
「もう完成させてくれたのか?しかも今朝もらったものと少しデザインが違うな。このデザインもとてもいい」
滲み出る喜びを隠しきれないように顔を輝かせるヨアンを見て、フェリシアは胸がきゅうっとした。もっとこういうヨアンの表情を見たいという願望が湧き上がる。
「ご要望がございましたら、おっしゃっていただければ…。できる限り沿わせていただきます」
ヨアンは微笑みながら首を振った。
「フェリシアが俺のために考えて、これほど美しい刺繍をしてくれているんだ。これ以上のものなどない。幸せすぎて夢のようだ。ただ、根を詰め過ぎないでくれたらそれでいい。――それと、フェリシア、この刺繍なのだが、癒しの力を籠めてくれていたんだな」
ヨアンが二枚のハンカチを両手で大切そうに包み込む。
「え?そうでしたか?意識はしていなかったのですが…」
フェリシアが驚いてヨアンを見つめると、ヨアンも驚いた表情に変わる。
「無意識だったのか?受け取った時から仄かに魔力を感じていたが、今日これをポケットに入れて鍛錬をして、その力を確信した。いつもと同じ鍛錬をしても、疲労感がほとんどないんだ。身体も軽い。昔フェリシアが救ってくれた時と同じ魔力の波動をここから感じる。これほどの癒やしの魔術が無意識に施されたとは…」
ヨアンはハンカチを胸に当てて、その力を感じ取ろうとするように目を閉じた。それからゆっくりと目を開け、頷く。
「間違いない。このハンカチにはフェリシアの癒やしの力が籠められている」
フェリシアは目を見開く。そんなことがあるのだろうか?
「――私はただ、ヨアン様への感謝の気持ちが伝わればいいと思って刺繍をしただけなのですが…。物に力が籠められるなんて、自分でも知りませんでした」
ヨアンは驚きを隠せない様子のフェリシアに、微笑みながら優しく説明する。
「守護魔術のひとつに、ものに守護の力を施す術がある。フェリシアは知らず知らずのうちにそれを施していたんだ」
「そんな魔術があるなんて…。不勉強で申し訳ございません」
「無理もない。魔力を持つのはほぼ王族のみ故に、魔術に関する書籍は王族のみが所持、閲覧を許されている。フェリシアが知らないのも当然だ。俺は生まれつきのこの魔力を制御するために、王城にある書物にはすべて目を通しているからな」
確かに、今まで魔術書などというものは見たことがなかった。母ならば知っていたのかもしれないが、母の魔力はフェリシアよりもさらに弱かったと聞く。魔術書を読んでどうこうしようという次元でもなかったのだろう。
考え込むフェリシアに、ヨアンは言った。
「それと、実は癒しの力を感じたのはハンカチだけじゃない。フェリシアが作るお菓子もだ。口にすると身体の中から癒されていくのを感じる」
「え?お菓子にもですか?」
ヨアンの言葉に、ダイニングの入り口付近に立っていたユーゴも頷いている。いつもユーゴにもお菓子を振る舞っているため、その効果に彼も気づいていたようだ。
自分でも知らぬうちにそのようなことになっているとは。最早驚きを通り越して戸惑いすら感じる。
ヨアンが穏やかな笑みを浮かべ、フェリシアの肩に手を置いた。
「フェリシアの人を思いやる心が、その気持ちを向けた相手に伝わるのだと考えればいい。思いやりに溢れるフェリシアだからこそ、成しえた魔術だろう。そんな気持ちを向けてもらえたことが、俺は光栄だ」
今まで自分に備わった僅かな魔力は、一体何のためにあるのだろうと無力感しかなかった。しかし、その力で少年時代のヨアンを癒やすことができた。そして微々たるものとはいえ、今また感謝の気持ちが伝わる程度には役に立っている。
助けてもらってばかりだと感じていたヨアンに心ばかりの恩返しができているようで、フェリシアは初めて自分に魔力があったことを喜ばしく思えた。
『私にも、やれることがある…』
差し出がましいかもしれない。調子に乗るなと思われるかもしれない。それでも…。いや、ヨアンならそんなことは絶対に思わない。胸の前でぎゅっと手を握りしめ、勇気を振り絞る。
「あの、ハンカチ以外にも…、たとえば、タオルやピローカバーなどの身の回りのものに、少しずつ刺繍を入れさせていただけないでしょうか?邪魔にならないよう、目立たないようなデザインにしますので…。どうか、お願いいたします」
許されるなら、どんなに些細なことであっても、ヨアンの役に立ちたい。フェリシアの真剣な表情と震える指先からその気持ちを感じ取ったヨアンが、フェリシアの気持ちを包み込むような優しい表情で頷いた。
「もちろんだ。フェリシアをいつでも感じていられるなら、そんな嬉しいことはない。でも、重ねて言うが無理は絶対にするな。俺が、フェリシアにこの城にいてほしいと望んでいてもらっているのだということを、忘れないでくれ」
フェリシアは自分の思いが、願いが伝わったことに深く安堵して微笑んだ。
「はい、ヨアン様。本当にありがとうございます」
「ああ。――さあ、昼食にしよう。あまり遅くなると午後のお茶の時間が押してしまう。今日のお菓子は何を用意してくれたんだ?」
「本日はシブーストをご用意しています」
「いいな。シブーストも大好きだ。お茶の時間が楽しみだ」
その美貌を無邪気に輝かせるヨアンに、皿を運んできたユーゴが苦笑しながら釘を刺す。
「ヨアン様、まずはきちんと昼食を取ってくださいよ」
「わかってるよ」
三人で顔を見合わせ笑い合う。昼食の時間は穏やかに過ぎていった。
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