第10話 魔王は陽炎姫に酔う〈side ヨアン〉

『フェリシアの可愛さは一体どうなっているんだ…。こんなに幸せでいいのか?もうすぐ俺は死ぬのか?』

 深夜、塔へと続く螺旋階段を上りながら、ヨアンは感慨に耽っていた。


 フェリシアがこの城に来て早一月。

 最初にカヌレを焼いてくれて以来、毎日自分のためにお菓子を作ってくれている。ハンカチをはじめ、ヨアンの持ち物にはフェリシアが刺繡を施したものが増えた。今着ている黒色のシャツの裾にも、藍色のナイトローブの胸元にも、ヨアンが気に入ったと言った金糸が混ざった金青色の糸で小さく薔薇の印章が縫い取られている。

 ヨアンの衣類はほとんどが黒を基調とした暗い色ばかりだが、フェリシアはあえて同系色の糸を使うことで、刺繍が目立ちすぎないように気を配ってくれているようだった。


 ヨアンとしてはフェリシアが施してくれた刺繍ならこれ見よがしに見せびらかしたいくらいだが、フェリシアは自分が表立つことを望まない。控えめなフェリシアらしい配慮だった。

『まあ、フェリシアはそこにいるだけで人の目を惹いてしまうがな…』

 その天国的な美貌と溢れ出る気品。口を開けば繊細で透き通るような迦陵頻伽で知性ある言葉を紡ぐ。

『そのうえ人の痛みに寄り添うことができるあの優しさと穢れのない心。誰もが一目でフェリシアに心酔してしまうのも無理はない』

 フェリシアへの気持ちが溢れ出し、ヨアンはぐっと胸に手を当てた。


 フェリシアが手掛けたものにはいつも癒しの力が宿っていて、お菓子ならば口にするだけで、刺繍されたものならば持っているだけで身体も心もほんのりと温かくなり、癒されていくのを感じる。まるで、フェリシアがいつも寄り添っていてくれるかのように。

 鍛錬後も疲れを感じることがほとんどなくなり、体力が向上しているのを実感していた。


 フェリシアが自分の城にいるだけでも信じられないほどの幸福をもたらしてくれているのに、そのうえ自分のために何かをしてくれるなんて、覚めない夢の中にでも閉じ込められているのではないだろうか。


 フェリシアは身の回りのこともすべて自分でこなし、ユーゴの手伝いも進んで行う。ユーゴも最初は主人の客人である侯爵令嬢に家事の手伝いをさせるなど、と遠慮していたが、ある程度何かを任せた方がフェリシアが心情的に楽になることを悟って、あえて細々とした仕事をお願いしているようだ。

 主人の気持ちに敏いユーゴは、特にヨアンの身の回りの世話をフェリシアに任せることが多く、ヨアンが鍛錬をしているといつも、フェリシアが冷たい飲み物とタオルを用意してくれていた。

 図書室で一緒に読書をする時間にも、お菓子を用意して美味しいお茶を入れてくれる。二人で過ごすその時間は、ヨアンにとって至福のひと時だった。


 初めて森に連れて行った時にはとても喜んだので、その後も天気が良く、フェリシアが用意してくれるお菓子が外でも食べやすいものの日を選んで、何度か森に出かけていた。美しい景色に目を輝かせたり、無邪気に動物と戯れたりするフェリシアは、抱きしめたくなる衝動を抑えるのが難しいほど愛らしい。


『何でもできることは知っていたが、侯爵令嬢なのに家事も厭わないなんて。お菓子作りの腕も、刺繍の腕も職人並だ。気遣いもできるし、そこにいるだけで癒しをくれる。守護魔術を自然に会得していたのにも驚かされたし…。非の打ち所がないとはまさにこのこと。さすがフェリシアだ』

 自分のことのように誇らしい気持ちになりながら、塔の最上階に足を踏み入れる。


 最上階には小さな部屋があり、毎夜ヨアンはここで国を守る結界に力を注いでいた。

 正直、国がどうなろうとヨアンにはどうでもいいことだったが、フェリシアが暮らす国を守ると思えば、俄然やる気が湧く。そうして10年以上もの間、この日課を続けてきた。

 胸に抱くのは、いつもフェリシアのこと。すべては、フェリシアを守るために。


 窓を開けると、すうっと夜の冷たい風が流れ込んでくる。遠くの空が一部分だけ少し明るい。王都の明りだ。過去の自分が捨てられ、捨てた場所。

 ヨアンは目を閉じて、国全体を覆う結界に意識を集中した。

 ひんやりとした夜の空気が身体を包み込み、魔力を研ぎ澄ましていくのを感じる。結界をより強固なものにするイメージを頭の中で描き、魔力を送り込む。


 魔力を消費すると、体力もかなり消耗する。日々の鍛錬で鍛え上げているため、この日課くらいは何ともないが、それでも疲れが蓄積すれば支障が出ることもある。だが、フェリシアが城に来て以来、そうした心配は皆無だった。フェリシアのお菓子と刺繍のおかげだろう。フェリシアは自分の魔力は微々たるものだと言うが、どうやらヨアンに対してフェリシアの癒やしの力は相当に相性が良いらしい。

『フェリシアはすべてにおいて女神だ。あんなに美しく愛おしく、心を温かく満たしてくれるというのに、そのうえ俺の身体も癒してくれるなんて。フェリシアのために、もっと強くなりたい。今日より明日、明日より明後日。フェリシアに害成すものすべてから守れる力を身につけるのだ』

 ヨアンはぎゅっと眉間に力を込めた。


 フェリシアは、どうやらヨアンが自分に恩義を感じているために自分のことを守ろうとしてくれていると思い込んでいるようだが、ヨアンがフェリシアに抱いている感情は、明らかに恋慕だ。

 フェリシアに救われた当初のそれは、ただ純粋な感謝と恩義だったように思う。まあ、今となればそれも怪しいところではあるが…。もしかしたら、彼女に救われたとわかった瞬間にはすでに、ヨアンは恋に落ちていたのかもしれない。

 ともかく、受けた恩を返したいという強い思いから、使い魔を通してフェリシアの成長を見守るうち、その感情は確固たる恋へ、そして愛へと変わっていった。フェリシアの清らかな心根と、何事に対しても真摯に向き合う姿勢、他者への優しさ。すべてが恋に落ちるには十分過ぎた。もちろん、見た目の完璧なまでの美しさは言葉にするまでもない。


 ヨアンがそんな自分の思いを確信したのは、フェリシアが甥アレクシスの婚約者になった時だ。

 当時フェリシアは8歳、ヨアンは15歳だった。自分より7歳も年下の少女にそんな感情を抱いていると気づいた時には、正直自分に嫌悪感を抱いたが、愛しく思う気持ちはどうにもならなかった。だが、フェリシアとアレクシスの婚約は決定事項。ヨアンは恋心を自覚すると同時に、その思いを封印しなければならなかった。

 それでも、もとよりフェリシアの前に再び姿を現そうとなど考えてもいなかったヨアンが取った行動は、変わらずフェリシアを見守り続けることだった。

 いついかなる時も、何があっても、命を賭してでもフェリシアを守ると誓い、実行してきた。


 だから一月前、フェリシアが隣国の好色伯爵に嫁がされると知った時は、冷静でなどいられなかった。それがフェリシアの幸せにつながるとは、到底思えなかったからだ。

 王城を出てからは定期的な連絡に応えるのみで、まして頼み事などしたこともなかった兄である国王にすぐさま使いを送り、フェリシアの父クリストフに婚姻の承諾を取り消させようとしたが、クリストフはそもそも外交のため国外におり、承諾ができる状況ではなかったはずだとわかった。それどころか、クリストフはフェリシアが嫁がされることすら知らなかったのだ。

 使い魔を通し、フェリシアの様子をうかがっていた時、フェリシアの義母は縁談がフェリシアの父が強く希望したものだと言っていたのを聞いたというのに、だ。その後、詳細を調べる間もなくフェリシアの輿入れの日が決まり、隣国に入る前に止めようと向かったところ、暴漢たちに襲われたフェリシア一行を救出するに至った。


『そもそもすべてがおかしい。何故父親が不在の間に婚姻の話が勝手に持ち上がり、あれほど急に嫁がされることになった?義母の話も嘘だったということだ。しかも、あの道を馬車が通ることはほとんどないというのに、暴漢どもはフェリシアたちが通ることを承知で、待ち伏せていたかのようだった。何者かの依頼で、最初からフェリシアを狙っていたと考えるのが自然だろう。2年前の毒殺未遂といい、これ以上フェリシアの命が危険に晒されることがあってはならない』

 襲撃を阻止した際、御者と馬車だけは取り逃がし、使い魔に後を追わせたが、国境付近で馬車が乗り捨てられ、御者は隣国へと逃げたようだった。

 この婚姻話は不審な点が多すぎると国王も判断したため、ヨアンの城にフェリシアを匿うことが許可され、フェリシアの父親にもそのように連絡がなされている。


 2年前のフェリシア毒殺未遂事件の際、犯人として捕らえられたのは、当時王城で給仕係をしていたメイドだった。

 メイドには事件当日までフェリシアとの接点はなく、何者かに依頼されてのことだろうと推察された。しかし、メイドは捕らえられてすぐに自ら命を絶ったため、誰に依頼されてのことなのかは特定できていない。国王の話では、フェリシアの父親は今も個人的に黒幕を探っているという話だった。


『このまま黒幕を逃がしはしない。フェリシアの命を狙うなど言語道断。ただで済むと思うなよ』

 フェリシアが城に来るまでは離れた場所から見守ることしかできなかったため、とにかく守る、ということだけに尽力していたが、今は違う。フェリシアは自分のもとにいる。フェリシアを守りながら犯人を捜し、断罪することも可能だ。

『ここからは、本気で犯人を捜す。二度とフェリシアを危険な目には合わせない』

 強い決意を瞳に宿し、日課を終えたヨアンは塔を降りていった。


 寝室へ向かう回廊を歩きながら、ふと中庭に目を向ける。

『──フェリシア?』

 噴水の近くに建てられたガゼボに、フェリシアが座って空を見上げていた。

 濃藍の空気に包まれ光を放つような存在感。美しく整った横顔に、しばし見惚れる。銀色の髪が風になびき、月明かりに照らされ輝く様は、高雅でこの世のものとは思えないほどだ。

 じっと見つめていたヨアンの気配に気づいたフェリシアが、ふんわりと花がほころぶように笑顔になった。その様子を目にしたヨアンの胸を、強烈な思慕が駆け抜ける。

「ヨアン様。お務めお疲れさまでございました」

 今すぐ駆け寄って強く抱きしめたい衝動と、必死で戦った。


「こんな時間にどうした?何かあったか?」

 邪念を押し殺し、何事もないかのように問いかける。

「いえ、考え事をしていたら、なんだか眠れなくなってしまって…。月が綺麗だったので、少し眺めていたのです」

 フェリシアの視線の先には、美しく輝く月と、月の明りに照らされた塔があった。

 先程までヨアンが務めを果たしていた塔。

「ヨアン様は毎夜、国のためにあの塔で力を注いでくださっているんだな、と思ったら、見ていたくなって」

 健気さに眩暈がする。天使、いや、女神なのか。己の我慢強さを試されているようだ。

「国のためじゃない。フェリシアのためだ」

 思わず本音が漏れた。

「え?」

「フェリシアが住む国だから、守りたいんだ。他のことなんてどうでもいい」

 真っ直ぐにフェリシアを見つめる。

 フェリシアの頬が薔薇色に染まっていくのを目にすると、たまらず頬に手を伸ばした。

「ヨ、ヨアン様…?」

 触れられた瞬間ぴくんと身体を震わせ、恥ずかしそうに目を伏せるフェリシアが愛しくて仕方ない。

「フェリシア、眠れないなら、このまま俺と朝まで一緒にいようか?」

「え…?あの…」

 触れている頬が熱い。フェリシアから甘く漂う芳香に酔ってしまいそうだ。

 伏せられた長い睫毛の隙間から覗く、濡れたように輝く紫水晶アメシストの瞳に吸い寄せられる。


──だめだ、これ以上は抑えがきかなくなる。フェリシアを困らせたいわけじゃない。

 自分の手を引き剝がすような思いで離れ、ローブを脱いでフェリシアの細い肩に掛ける。

「この森の夜は冷える。風邪を引くといけないから、もう部屋に戻るといい」

「は、はい。そうします…」

 フェリシアは真っ赤になって俯いたまま、こくりと頷いた。

『くそ、可愛いな。離れがたい…』

 ヨアンは煩悩を振り払うようにぐっと拳を握りしめ、天を仰ぎ深く息を吐いてから、そっとフェリシアの背中に手を当て、エスコートした。


 フェリシアを部屋の前まで送り届け、自身の寝室に戻る。

 ベッドに身を投げだすと、はぁーっと長いため息をついた。

「自制心を強化する魔術、あったかな…」

 長年募らせた思いが、フェリシアを求めて暴走してしまうかと思った。そんなことになれば、フェリシアを怖がらせてしまう。

 今はまず、フェリシアを脅威から守り、フェリシアの命を脅かす者を捕えなければ。

『しっかりしろ、ヨアン。俺が危険人物になってどうする。俺がフェリシアを守るんだ。……あぁー、フェリシア、めちゃくちゃ可愛かったな…』

 フェリシアの表情が、声が、頬の感触が、香りが。繰り返し蘇りなかなか寝つけず、何度も寝返りを打った。ピローカバーの隅に縫い取られている薔薇を指先で何度もなぞる。指先からほんのり温かくなり、先程のフェリシアの体温が思い出されて、身体まで熱くなった。


 次の朝、フェリシアの来城以来続いていたヨアンの早起きが途切れたのは、言うまでもなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る