第11話 陽炎姫は決意する
枕に顔を押し当て、フェリシアはばくばくと暴れる心臓を落ち着かせようと、深く息を吐いた。
深呼吸をしようと目を閉じる。しかし、目を閉じた途端に先程月明かりの下で目にしたヨアンの
『ヨアン様のお顔がとても近くて…。心臓が止まってしまうかと思った…』
ヨアンのさらりとした前髪がフェリシアのそれに触れるほどの距離で見つめられ、ぎゅうっと音を立てていた心臓は、壊れてしまったのではないかと思うほど鼓動が激しいままだ。
魅惑的なあの瞳でまっすぐに見つめられて、とても平静ではいられなかった。ワインのように香り立つ色香に惑わされ、酔わされてしまう。
『私のためって…、このまま朝まで一緒にいようかって…』
甘く官能的なヨアンの香りのローブに包まれて、まるで抱きしめられているかのような錯覚に陥り、ローブごと自分の身体をぎゅっと掻き抱く。
触れられた頬が熱い。もう、自分の気持ちを誤魔化しようがなかった。
『ヨアン様が好き』
狂おしいほどの思いが体中を駆け巡る。恋とは、何と苦しく、しかし幸せな感情なのだろうか。
世界の色が一層濃くなったような、自分の輪郭がよりはっきりしたような、不思議な感覚。心の奥が燃えている。
一分の曇りもない瞳で自分を守ると言ってくれる存在が、たまらなく愛しく心強い。──たとえそれが、自分に救われたという思いから来る義務感なのだとしても。
義務感、と思い至った時、胸がちくりとした。
ぎゅっとしたり、ばくばくしたり、ちくりとしたり。恋をすると心臓が忙しい。
窓から覗く月を見つめながら、眠れない夜が更けていった。
「フェリシア様、今朝はもう少しお休みになられては?ヨアン様も起きていらっしゃる気配がございませんし」
いつもよりぼうっとしている様子のフェリシアに、ユーゴが心配そうに声をかけた。
朝食の準備を手伝いながらお菓子を作る用意をしていたのだが、どうにも寝不足で手際が悪い。
「すみません、ぼんやりしてしまって。邪魔になってしまっていますね」
「いえ、邪魔だなんてことはまったく。ただ、あまりに眠そうでいらっしゃったので」
ユーゴがふふ、と笑った。
昨夜の出来事をユーゴに見透かされているような気がして、フェリシアは赤くなる。
「ちょっと、寝つけなかったもので…。でも、大丈夫です」
どんなに眠くても、ヨアンのためのお菓子は自分で用意したかった。それは、自分の役目だ。自分の力でヨアンを喜ばせることができる、数少ないことの一つ。
『今日のお菓子は混ぜて焼くだけのクラフティにしましょう…。失敗してヨアン様にお出しするお菓子ができなかったら困るもの』
ユーゴが森で採ってきてくれた籠いっぱいのブルーベリーを手に取り、フェリシアは準備に取り掛かった。
「今朝はヨアン様ももう少しお休みになられるようです。フェリシア様、先に朝食を召し上がってください」
いつもより手間取りながらも、なんとかクラフティを作り上げた頃、ユーゴに声を掛けられた。
フェリシアがこの城に来てから、毎朝朝食はヨアンと一緒に取っていたが、どうやらヨアンも今朝は起きられないらしい。無理して早起きしてくれていた疲れが出てしまったのではないかと心配顔になったフェリシアに、ユーゴが首を振る。
「フェリシア様の癒やしの力のおかげで、ヨアン様の体調はすこぶる良好です。昨夜はなかなか寝つけなかっただけのようですよ。――フェリシア様と同じですね」
やはりユーゴには、すべてお見通しなのかもしれない。フェリシアはまた赤面して俯いた。
城の主人よりも先に朝食をいただくのは気が引けたが、今ヨアンの顔を見たら昨夜のことを思い出して、どうしたらいいのかわからなくなりそうだ、と思い直し、ユーゴの言葉に従うことにした。
「それではお言葉に甘えて、お先にいただきます」
フェリシアが朝食を終えてクラフティを切り分けていると、再びユーゴが声を掛けてくれた。
「ヨアン様が起きていらっしゃいましたよ。朝食はもうよいとのことで、フェリシア様のお菓子をご所望です」
ヨアンという名前を聞くだけでどきりとする。
「ありがとうございます。すぐにお持ちいたします」
速くなっていく鼓動に戸惑いながらも、できるだけいつも通りのトーンで返事をした。
ダイニングルームには、普段に輪をかけて眠たげなヨアンがいた。気怠げに伏せられた瞳から溢れ出る色香は万物を惑わせそうだ。
ヨアンはフェリシアに気づくと、艶美な笑顔を浮かべる。
「おはよう、フェリシア。今朝は朝食を一緒に取れずすまなかった」
目が合っただけで心臓が止まりそうになりながらも、フェリシアも精一杯微笑む。
「おはようございます、ヨアン様。私の方こそ、先に朝食をいただいてしまい、失礼いたしました」
こんな時こそ、しっかりしなくては。
フェリシアは身体に染みついている所作を今一度確認するかのように、丁寧に心を落ち着かせながらお茶の準備を始めた。
「フェリシアの周りで起こったことについて、調査をしようと思っている」
クラフティを堪能した後、お茶を飲みながらヨアンが切り出した。
「辛いことを思い出させたくなくて、先延ばしにしているうちに一月が過ぎてしまったが…。二度もフェリシアの命が狙われた。このままにはしておけない。」
フェリシアも自分が襲われた時のことは、できるだけ考えないようにしていた。恐怖もあったが、それ以上にヨアンの城に来てからは、自分の居場所ができたことが嬉しくて、あえて目を逸らしていたともいえる。しかし、やはりこのままにはしておけないのかもしれない。フェリシアもティーカップを置き、きゅっと口を結んだ。
「やはり、先日の馬車の襲撃も、最初から私を狙ってのことだとお考えでしょうか?」
「そうだろうと思う。あいつらは明らかにフェリシアの馬車を待ち伏せしていた。隣国へ抜けるための近道とはいえ、この森の近くを馬車が通ることはほとんどない。あの時逃げた馬車を使い魔に追わせたが、馬車は国境付近に乗り捨てられていて、御者は行方不明だった。あらかじめ申し合わせて御者が人気のない道を通り、暴漢に襲わせたと考えるのが自然だ。フェリシアを狙っていたとしか思えない」
フェリシア一行を襲った暴漢たちは、ヨアンが現れ襲撃が失敗に終わったと悟るや否や、すぐさま全員自決した。自決用の毒物を所持していたことをはじめ、その迷いのない行動。恐ろしいほど統制が取れていた。
逃げた御者と暴漢の痕跡を使い魔に探らせたところ、やはり連中は仲間で、どうやら隣国から送り込まれた暗殺集団だったようだと目星がついている。それぞれが商人として別々に国境の審査をくぐり抜けたようだった。
「フェリシアがこの城にいれば、俺の結界で守れる。今こそ、フェリシアを狙う者が誰なのかを明らかにし、鉄槌を下す」
ヨアンが鮮紅の瞳に強い光を宿し、宣言する。
そんなヨアンに、フェリシアは躊躇いながらも迷える心情を吐露した。
「──先日の襲撃では、私を守ろうとしてくださった方々にも危険が及んでしまいました。私のせいでこれ以上、誰かを危ない目に合わせてしまうのは辛いです。周囲の方を巻き込んでしまう前に、解決しなければ…。けれど、真実を知ろうとすれば、今度はヨアン様を危険に晒してしまうかもしれません。それはもっと、耐えられないのです…」
爪が食い込むほどに拳を握りしめていたフェリシアの手を、ヨアンが優しく両手で包む。
「心配するな。俺は最恐魔王と呼ばれる男だぞ。国中、いや、世界中を探しても、俺の魔力に敵う者などいない。そう自負できるだけの研鑽は積んできた」
ヨアンはフェリシアを安心させるように、不敵な笑みを浮かべてみせた。
「俺の魔力は、フェリシアのためだけに磨き上げてきたんだ。フェリシアのために使わずしてどうする。それに、これでも俺は王弟だぞ。今まで疎ましいものでしかなかったこの立場も、フェリシアのために活かせるのなら悪くない」
「ヨアン様…」
「俺のことはまったく心配ない。ただ、真実を明らかにすることで、フェリシアが傷つくこともあるかもしれない。俺は、フェリシアに辛い思いをさせたくはない。すべてを知ることは怖い。誰だってそうだ。だから、動くか動かないかはフェリシアの決断に委ねたい。フェリシアが望まないなら、俺は動かない。フェリシアを守ることだけに徹する」
どうするべきなのだろうか。
自分の命を狙っている人間がいるなんて、考えるだけでも恐ろしい。しかし、真実は知りたいし、犯人をこれ以上野放しにして周囲の人まで巻き込んで危険に晒したくない。まして、それがヨアンならば尚更…。けれど、知ろうとすること自体に危険が伴うのであれば…。
迷うフェリシアの背中を、ヨアンの一言が押した。
「フェリシアの命が狙われたこととフェリシアの兄君の死は、無関係ではないと俺は考えている」
──脳裏に兄の顔が浮かんだ瞬間、これまで胸の奥にしまっていた悔しさと、あの時どうしても拭えなかった違和感が鮮明に蘇った。
それまでとても元気だったのに、突然体調を崩し、あっという間に黄泉へと渡ってしまった兄。
前途洋洋だったはずの兄の未来が、もしも他者によって奪われてしまったのだとしたら、どんなに兄は悔しかったことだろうか。兄の死に秘密が隠されているのならば、必ず真実を明かして兄の無念を晴らしたい。
フェリシアは、ぐっと顔を上げてヨアンを見据えた。瞳には強い決意が浮かぶ。
「ヨアン様、私にお力を貸していただけますか?」
ヨアンはフェリシアを見つめ返し、力強く頷く。
「もちろんだ」
幼い頃から、黄泉の国はいつもフェリシアのすぐ近くに口を開け、待ち構えているように感じていた。
母、兄、そして自分。いつ黄泉に旅立っても、仕方がないことなのかもしれない、それが運命なのだと諦めていた。ともすれば、黄泉に呼ばれるのであれば、もうそれでいいと思っていたことすらあった。
『そんな運命などなく、他者によってもたらされた災厄なのだとしたら、私は立ち向かわなければいけない。もう戦えないお兄様の分まで、私が戦わなくては』
そこにいたのは、鏡花水月の陽炎姫ではなく、凛と立つ一人の女性。
ヨアンは眩しいものを見つめるように目を細め、フェリシアの手を握りしめた。
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