第8話 陽炎姫は森へ行く

 ヨアンの城に来て一週間。

「今日は、森に行かないか?」

 遅めの朝食の後、ヨアンが言った。城から外に出ることができないフェリシアを案じていたようだ。

「城の中ばかりでは退屈だろう?景色の良い場所があるから、案内しよう」

「はい、是非ご一緒させてください」

 ヨアンの気遣いを感じたフェリシアは笑顔で頷いた。バルコニーから見るだけの緑濃い森を、実際に歩いてみたい気がしていたのだ。美しい声で鳴く鳥や、時折木の枝をかさかさと揺らす小動物の姿も見てみたかった。それでも、城から一人で出ていくわけにはいかない。外に出るのは城の中庭だけだった。


 久しぶりの外出に心が躍る。森には魔物が出るという話を聞いてはいたが、この城の周辺にはヨアンの結界が張られているせいなのか、一度も目にはしていない。それに何より、ヨアンが一緒であれば大丈夫だという安心感があった。

 嬉しそうなフェリシアの様子を見つめながら、ヨアンが優しく目を細めた。


「ユーゴ、馬を用意してくれ」

「承知いたしました」

 ユーゴが馬の用意をしている間、フェリシアは朝焼いておいたフィナンシェを籠に入れた。景色の良い場所に連れて行ってくれるとのヨアンの言葉に、その場所で一緒に食べられたらいいと思ったのだ。

『今日はちょうど外でも食べやすいお菓子で良かったわ。もしかして、ヨアン様はそんなことまで気を回してくださっていたのかしら…』


 フィナンシェを焼く甘い香りは城中に漂っていたが、それは他のお菓子でも同じこと。だが、城のそこここにいるという、フェリシアには姿が見えない使い魔たちを通してヨアンが今日のお菓子を知っていたとしても、何ら不思議はない。ヨアンのことだ、外では食べにくいお菓子の日にわざわざ森に誘うようなことはしないだろう。そういう細やかな心配りを自然としてしまうところが、ヨアンにはあった。


 カヌレを焼いて以来、ヨアンのためのお菓子作りはフェリシアの日課となり、自分の役割ができたことが、そしてそれによりヨアンに喜んでもらえることがフェリシアの何よりの喜びとなっていた。

『ヨアン様は本当にお優しい方だわ。いつでも私の気持ちを思いやってくださるもの。私ももっとヨアン様のお役に立ちたい。お菓子を作る以外にも、私にできることがあるといいのだけれど…』

 フィナンシェを入れた籠を抱え、フェリシアはヨアンに何ができるだろうと考えていた。


「さあフェリシア、乗って」

 毛艶の美しい馬に跨ったヨアンが、フェリシアに手を差し伸べる。指示に従い鐙に足を掛けてその手を取ると、すいっとフェリシアを馬の上に引き上げてくれた。横座りしたフェリシアの腰に腕を回し、手綱をフェリシアにも握らせる。

「しっかり掴まっていてくれ。足場が悪い場所は少し揺れる」

「は、はい」

 ヨアンはフェリシアを落とさないように注意を払っているだけで他意はないのがわかるが、思いのほか身体が密着し、低い声が耳元で響いてフェリシアは顔を赤らめた。

『こんなことで動揺してしまうなんて…。ヨアン様に申し訳ないわ…』

 移動はいつも馬車だったし、馬術は学んでいない。まして男の人と二人で馬に乗るなど初めての経験で、フェリシアは戸惑いを隠せなかった。


「ユーゴ、行ってくる」

「はい。お気をつけて」

 ヨアンがゆっくりと馬を進める。最初は戸惑っていたフェリシアも、初めて足を踏み入れた森の様子と、馬の上という視線の高さが新鮮で、次第に楽しむ余裕が生まれてきた。

「あ、ヨアン様、リスです!リスがいます!」

「ああ、いるな」

「あ、この鳴き声!いつも聞こえていた鳴き声の主は、あんなに美しい小鳥だったのですね!」

「うん、この鳴き声はよく聞こえているな」

「あんなところに小川が流れていますわ。水が綺麗」

「ふふ、そうだな」


 目に映るものすべてが新鮮で、思わずはしゃいでしまっていた自分に気づき、フェリシアは途端に恥ずかしくなった。淑女たるもの、感情を無暗に表すことがないようにと生きてきたというのに、どうもヨアンの城に来てからはうまくいかない。

「す、すみませんヨアン様…。はしたない真似を…」

 頬を赤くして俯くフェリシアに、ヨアンが笑いながら言った。

「何を謝ることがある。俺はフェリシアを楽しませたくて連れてきたんだ。楽しんでくれているようで安心した。俺はフェリシアの色々な表情が見たい。楽しんでいる顔はもちろん、怒っている顔だって。辛いことだって俺の前では我慢してほしくない。どんなフェリシアでも、俺の大切なフェリシアだ」

「――!!」


 さらりと驚くようなことを言われ、心臓が大きく脈打った。

『大切…。大切なフェリシア…』

 鼓動がヨアンにも伝わってしまうのではないかと思わず身体を離しかけたフェリシアの腰を、ヨアンがぐっと抱き寄せる。

「離れると危ない。ここからは少し揺れる。落ちるといけないから、俺に身を預けろ」

 ヨアンの言葉に、きっと他意はないのだ。幼い頃に救われたという思いがあるから、兄が妹を思うように、居場所のなかったフェリシアを気遣ってくれているだけだ。フェリシアはそう自分に何度も言い聞かせた。


 傾斜に馬が揺れ、広い胸に頬が押し当てられた。甘く艶やかなヨアンの香りが一層濃くなる。香りに包まれて、鼓動が加速する。息が苦しくなるような感覚を覚え、思わずヨアンの胸元をぐっと掴むと、ヨアンが心配したようにフェリシアの顔を覗き込んだ。

「どうした?怖かったか?もうすぐ着くからな」

「…はい。大丈夫です」

 やっとのことでそれだけ答えて、フェリシアは深く呼吸をしながらそっとヨアンの胸に身体を預けた。


 傾斜を登り切った所には、湖があった。

 きらきらと光が反射する湖の上を清涼な風が吹き抜けると、鏡のように青空と木々を映し出している水面が揺れる。

「綺麗…」

 ほぅっとため息をつきながらフェリシアが言うと、ヨアンが微笑んだ。

「だろう?フェリシアに見せたかったんだ。この景色を」

 悩みや小さな動揺など、些末なことに思える。心の中で燻る感情が洗い流され、風に乗ってどこかへ行ってしまうような、不思議な感覚。しばし無言でその絶景に見惚れていると、ヨアンが水面を見つめながら、ぽつりと言った。

「ここに来ると、自分の身に起こる様々なことも、どこか遠くの出来事に感じられる。だから不の感情が溜まって苦しくなった時、度々ここに来ていた」

 ヨアンがこれまでどんな道を歩んできたのかを知る者なら、その言葉の重さも頷けるだろう。

『ヨアン様は一人で、どれだけの思いをこの湖に流してきたのかしら』

 フェリシアはそっとヨアンを見上げて、その心情に思いを馳せた。瞳の奥に寂しさの色が見えた気がして、胸が痛む。願わくば、これ以上この方が一人で苦しむことがないように。


「フェリシア、お菓子を持ってきてくれたんだろう?ここでいただこう」

 優美な笑みを浮かべて、ヨアンが言った。先程垣間見えた陰のある表情はもうない。フェリシアはほっとした。

 ヨアンが先に馬を降り、フェリシアを注意深く降ろしてくれた。湖のほとりに座ったヨアンは、ハンカチを出して自分の隣に敷く。

「どうぞ、フェリシア」

「ありがとうございます」


 フェリシアが座ると、ヨアンが小さな水筒を取り出した。

「ユーゴが持たせてくれた。美しい景色の中でティータイムとしよう。――ここには何度も来ているが、フェリシアとここでお茶を楽しめる日が来るとは思ってなかった」

 小さな木のカップにお茶を注ぎ、二人で飲む。冷めているのにとても美味しく感じるのは、きっとこの景色のおかげだろう。ヨアンがフィナンシェを一口食べ、表情を輝かせた。

「いつもながら、フェリシアのお菓子はうまいな。アーモンドの香ばしい香りと焦がしバターの風味が絶妙で、本当に俺好みの味だ。フェリシアのお菓子が毎日食べられるなんて、俺は幸せ者だな」

「お口に合ったようで、良かったです。私の方こそ、ヨアン様に食べていただけて光栄です」

 お菓子を食べるヨアンの嬉しそうな表情を見ると、自分がヨアンの城にいてもいいと言ってもらえているような気がして、胸がいっぱいになる。

 二人はゆっくり、極上のお茶の時間を楽しんだ。


 ヨアンに続きフェリシアが立ち上がると、ヨアンがハンカチをすっと拾い上げた。そのまま無造作に畳もうとした手を、フェリシアの声が遮る。

「ハンカチをありがとうございました。私がそのハンカチをお預かりしても構いませんか?私に、洗わせていただきたいのです」

「かまわないが…。気にすることはないぞ?」

 ためらうヨアンからフェリシアはハンカチを受け取り、大切そうに畳む。

「後日、お返しいたします」

 そう言って微笑むと、ハンカチを仕舞った。


 帰り道も、ヨアンは馬上でフェリシアをしっかりと支えていた。行きよりも馬に乗ることに慣れたフェリシアも、素直にヨアンに身体を預ける。その方がヨアンも馬を操りやすいとわかったからだ。

 ヨアンは来た道とは少し違うルートを選んでいる。できるだけ色々な景色をフェリシアに見せようとしている配慮が伝わり、フェリシアの心は温かくなった。


 その夜、フェリシアは丁寧に洗ったハンカチを前に、裁縫箱を取り出した。デュプラ家の邸にいた頃から刺繍はよくしていた。アレクシスの婚約者でなくなってからは、あり余る時間を費やすのにぴったりだったのだ。

 ヨアンはフェリシアがよく刺繍をしていたことも使い魔を通して知っていたらしく、部屋にはフェリシアのために裁縫箱と色とりどりの刺繍糸が用意されていた。


 フェリシアは多彩な糸の中から、金青こんじょうを選び取った。僅かに金糸も混ぜられたその糸は、星が煌めく夜を連想させた。

 ヨアンはいつも、夜の気配を纏わせている。ひっそりと静かに、穏やかな安息の時間をもたらし、それでいて妖美な夜。涼やかな目元にしっとりとした艶麗さを匂わすヨアンには、こうした色が似合うように思えた。


 ヨアンへの感謝の気持ちを一針一針に込めて、刺繍を施していく。ヨアンのことを思うだけで、胸が高鳴る。名前とともに、同じ色で小さく薔薇を縫い取った。王妃教育の際、薔薇はヨアンのお印だと聞いたことを思い出したのだ。

『感謝の気持ちが伝わるといいのだけど』

 ハンカチの隅に、控えめに添えた思いの正体が何なのか、まだフェリシアは気づいていなかった。

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