第7話 陽炎姫は役目を見つける
森の奥の城に来て2回目の朝。
フェリシアは窓を開け、早朝の爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
緑の香りに混じって、微かにパンが焼けるいい香りが漂ってきていた。
昨日の図書室での出来事を思い返し、ほうっと息を吐く。
自分をずっと見守っていてくれた人に出会えた幸せ。あんな風に自分の気持ちを誰かに話したのも初めてだった。胸が苦しいような、けれども満たされているような、何とも言えない落ち着かない気持ち。
心に芽生えた新しい感情を、まだどう扱っていいのかわからなかった。
身支度を整え階下に降り、厨房を覗き込む。中ではユーゴが手際よく朝食の準備をしていた。
「おはようございます」
声を掛けると、ユーゴが顔を上げた。
「フェリシア様、おはようございます。何か御用がございましたか?」
まだ朝食にはだいぶ早い時間に顔を覗かせたフェリシアに、ユーゴが問いかける。
「いえ、あの、私にも何かできることはないかと思いまして…」
いくらヨアンがフェリシアに居場所をくれたとはいえ、ただ城に置いてもらうというのは、どうにも心苦しかった。早く城の一員になるためにも、自分にも何か役割が欲しいと思ったのだ。
侯爵家で生まれ育ったフェリシアだったが、婚約破棄後はどんな境遇になっても困らないようにと考え、自分の身の回りのことだけでなく、料理をはじめ裁縫など、父に無理を言い家事は一通り学ばせてもらっていた。
一日中邸にいて、何もしない状態に耐えられなかったということもあったが、もはや邸の中はフェリシアにとって心休まる場所ではなくなっていたこともあり、どんな形で邸を出ることになってもいいようにと考えていた。
城の中はやはりヨアンの使い魔たちが隅々まで掃除しているそうで、フェリシアが手を出せることはなかったため、それでは食事の支度の手伝いはできないだろうか、と考えたのだ。
「フェリシア様のお手を煩わせることなど…」
そう言いかけ、所在なさげなフェリシアの様子に気づいたユーゴは言葉を飲み込む。それから少し考え込む仕草をした。
『食事の支度の手伝いを申し出てくださるくらいだから、料理の心得はあるのかもしれない。もしかしたらお菓子も作れるのでは?きっと何か、ご自分にできることを探されているのだろう』
ユーゴが顔を上げてフェリシアに問いかける。
「フェリシア様、お菓子を作られたことは?」
問いかけに対し、フェリシアはこくりと頷く。
「はい、邸でもお菓子は作っておりました」
「わかりました。それでは、ヨアン様にお出しするお菓子をお願いできますか?あの方はああ見えて、甘い物に目がないのですよ。いつもは私が街までお菓子を買いに出掛けるのですが、フェリシア様に作っていただけたら、ヨアン様もお喜びになるはずです」
ぱぁっと表情を輝かせたフェリシアを見て、ユーゴもにっこりと微笑んだ。
ヨアンは魔力を多く消費した後に甘いものを欲しがることが多いと聞き、頭の中にあるレシピのページをめくる。
お菓子作りは色々なことを忘れて熱中できるし、作ったものを振る舞うと父や弟も喜んでくれるから好きだった。家従たちも、フェリシアがお菓子を作ると皆に振る舞うため、いつも楽しみにしてくれていた。義母と義妹からは、太るから、と敬遠されていたけれど。
鍛錬の合間や、読書の合間にお菓子を摘まむというヨアンに、小さめのカヌレを焼くことにした。
身体に染み付いた手順通りに作業をこなし、カヌレが焼き上がるのを待つ。
片付けの手を動かしながら、自然とヨアンのことを考えていた。
佇まいはまさに冷艶清美そのもの。人を寄せつけないような空気を纏い、所作も見惚れるほどに美しい。
しかし、微笑みは蠱惑的に心を揺さぶり、美しい紅玉の瞳で見つめられると、胸が騒ぐ。
一緒にいると、大きな何かに守られているような感覚がする。
飾らない物言いをするが、いつでも気遣いを感じる。
あの低く甘く響く声で語りかけられると──。
──ガチャン!
手が滑り、フェリシアははっとする。と同時に、顔がかあっと熱くなった。
『わ、私、何を…』
誰かを思って我を忘れてしまうなんて、自分が信じられない。
『しっかりしなさい、フェリシア』
自分に言い聞かせるように深く深呼吸をして、再び片付けの作業に集中し始めた。
カヌレが焼きあがった頃、ユーゴが声を掛けてくれた。
「ヨアン様が起きていらっしゃいました。ダイニングルームでお待ちですよ」
ヨアンの魔力は夜になると更に力を増すため、いつも深夜に国を守る結界に力を注ぎ込んでいるそうだ。
だから通常、ヨアンの朝は遅い。昨日は自分のためにわざわざ早起きしてくれたのだと知り、フェリシアの胸はまた落ち着かなくなった。
出来上がったカヌレを持ってダイニングルームに向かうと、起きてきたばかりのヨアンが窓の外をぼうっと見つめて座っていた。昨日ほどではないが、今朝も普段よりは早く起きたようだ。
神が創り出した芸術品のように美しい横顔。
まだ目覚めきっていない無防備な様子が、心を鷲掴みにする。
ヨアンがこちらに気づき、ふっと柔らかく笑った。
「おはよう、フェリシア」
窓から差し込む柔らかな光に包まれたヨアンは神々しく、それでいて少し眠そうな表情が普段の隙の無い美しさの角を削いでいるようだ。
『か、可愛い…』
ぎゅっと胸が苦しくなり、鼓動が高鳴る。完璧な美貌を持つ人の無防備な姿は心臓に悪い。
「おはようございます。ヨアン様」
動揺を悟られまいと、必死に平静を装いながら挨拶をする。
『年上の男性、しかも王族の方に可愛いなどという感情を抱いてしまうなんて、私本当にどうかしているわ…』
耳が熱い。顔が赤くなってしまっていないか、この胸の音が聞こえてしまっていないか、不安で仕方ない。ヨアンの前に立つと、知らない自分が次々に顔を出してしまうことに戸惑いを隠せない。
「それは?」
カヌレの皿を持ったままのフェリシアに、ヨアンが問いかける。
「あの、これは、ええと」
動揺はまったく隠せていなかった。王太子の婚約者として多くの人の前に立っていた時ですら、こんな風に言葉が出なくなってしまうことなどなかったというのに。
「ヨアン様、こちらはフェリシア様がヨアン様のために作られたカヌレです」
焦るフェリシアを見かねて、ユーゴが言った。
「フェリシア様が早くに起きてこられて、何か自分にできることを、とおっしゃいまして。素晴らしい手際でございました」
「フェリシアが?フェリシアが俺のために?」
ヨアンが目を見開いてカヌレを見つめる。瞳が輝いているところを見ると、甘い物に目がないというのは間違いないようだ。
『ああ、どうしよう。もしもお口に合わなかったら?そもそもカヌレで良かったのかしら?』
事前にユーゴに確認を取り、味見もしてもらい太鼓判をもらっていたというのに、フェリシアは不安でたまらなくなる。
「食べても、いいか?」
ヨアンが少し首を傾げながら上目遣いでフェリシアを見つめ、問いかける。無邪気な表情も破壊力がすごい。
「もっ、もちろんです。あ、でも朝食の後の方が…」
「構わない」
ヨアンがさっとカヌレを口に運ぶ。途端に、ぱっと表情が輝いた。
「──うまい。こんなうまいもの、食べたことがない」
ほうっとため息をつき、恍惚の表情を浮かべる。
子どものように純粋で飾らない言葉と表情が、ヨアンの真意を物語っていた。どうやら気に入ってもらえたようだ。
「お口に合ったようで、何よりです…」
フェリシアは真っ赤になって俯く。どの表情にも心を惹きつけられて、もう本当に心臓が持たない。
「これ、全部食べていいのか?」
フェリシアの心中が大変なことになっているなどつゆ知らず、喜びを抑えきれない様子のヨアンがカヌレとフェリシアの顔を交互に見つめる。冷艶清美の最恐魔王はどこに行ったのか。
「はい、全部ヨアン様のものですよ。でも、残りは朝食の後、大切にいただいたらいかがでしょうか?」
いっぱいいっぱいになっているフェリシアに代わり、ユーゴが答える。
「そうだな。一度に食べてしまったらもったいないな」
ヨアンは素直に頷くと、フェリシアからカヌレの皿を受け取る。
「ありがとう、フェリシア。フェリシアが菓子作りをしている様子を見ながら、いつか俺も食べてみたいと思っていた。願いが叶った」
心の底から嬉しそうな笑顔を浮かべるヨアン。フェリシアは心臓がさらにぎゅっと締めつけられるような感覚に陥る。こんなに喜んでもらえるのなら、毎日でもこの顔が見たい。
「願いだなんて、そんな。これからは毎日、ヨアン様のためにお菓子を作ります!」
頬を赤く染めたまま、フェリシアはおずおずと顔を上げて、ヨアンに言った。
「本当か?とても楽しみだ」
そんな二人の様子を眺めながら、ユーゴが嬉しそうに何度も頷いていた。
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