第6話 陽炎姫と魔王の絆

 朝食の間も、フェリシアはヨアンの気遣いを絶えず感じた。

 口数はそれほど多くないながらも、会話が途切れてしまうことのないように、少しずつ優しい口調で語りかけてくれる。それでいて、答えに窮すようなことは聞いてこない。人との距離感が自分と似ているのかもしれない。その心地の良さに、フェリシアはなんとなくそう感じていた。


 朝食が終わると、ヨアンが城の中を案内すると言って、当たり前のようにすっとフェリシアの手を取った。穏やかに微笑み、歩き出す。また、胸がきゅうっとした。


「城の中のものは好きなように使っていい。必要なものがあれば、遠慮せず言え」

 フェリシアの歩みに合わせて、ヨアンは丁寧に城のことを教えながら歩く。

 言葉は少し無骨な印象を受けるが、紳士的な仕草や洗練された身のこなしは”最恐の魔王”のイメージとは乖離していた。


 城自体は古いが、内装は落ち着いていて上品だ。隅々まで綺麗に掃除が行き届いている。

 元々王族が住んでいたと聞くこの城は、古いがそれなりの広さがある。とてもユーゴ一人で美しく保つのは無理な広さだ。これも使い魔たちが行っているのだろうか。


「素敵なお住まいですね」

 この城に流れている空気は、しんと澄んで穏やかだ。城全体がヨアンの気配に満ちているようだった。静謐を好むフェリシアは、素直な感想を述べた。

「気に入ってもらえてよかった。──さあ、ここが図書室だ」

 どこか安心したような微笑を浮かべ、ヨアンが重厚な扉を開く。部屋に満ちる本の香りがさあっと流れてきた。


 ずらりと本が並ぶ図書室には、窓際にこじんまりしたテーブルセットが置かれており、そこだけが外からの光を取り入れて、ライトに照らし出されているかのように明るい。

 時がゆっくりと流れているような、落ち着いた心地良い空間。集中して読書ができそうだ。


 蔵書に目をやると、フェリシアの好きな作家やジャンルの本もたくさん揃っていた。

「この本、私も大好きです。閣下もお好きですか?」

 特にお気に入りの1冊を見つけ、手に取りヨアンを見上げる。

 ヨアンは甘やかに瞳を細め、微笑みながらフェリシアを見つめていた。

 まっすぐな視線に思わず顔が赤くなる。

「ああ、俺も好きだ」

 低く響く声に酔ってしまいそうだ。鼓動が速い。こんな気持ちは初めてだった。


『本、本の話ですわ…』

 ヨアンの言葉が向けられた先を自分に言い聞かせて、心を落ち着かせようとする。

「この図書室ももちろん、いつでも好きな時に利用していい。この城では、フェリシアが過ごしたいようにして過ごすんだ。フェリシアもこの城の住人になったのだから。――それと、俺のことはヨアンと呼べ」

 ヨアンは窈窕ようちょうな笑みを浮かべたまま、フェリシアが手にしていた本に手を添える。とてもではないが、簡単に心は落ち着いてくれなさそうだ。


「ヨアン様…ですか?」

「そうだ。一緒に暮らすのに、閣下はないだろう」

「でも…」

 国王の異母弟である公爵を、そう簡単に名前で呼ぶなど、とフェリシアが躊躇いを見せると、ヨアンが少し拗ねたような表情を見せた。また新しい一面を知り、フェリシアの心臓が跳ね上がる。

「俺がそう呼んで欲しいと言っている。何か問題があるか?」

「いいえ、ございません。それでは、仰せの通りに」

 踊る心臓を宥めるように胸に手を当て、フェリシアは頷いた。


 思えば、アレクシス以外の男性とこれほど長く二人でいたことも、話したこともなかった。

 アレクシスは婚約者だったが幼馴染みでもあり、もう一人の兄のように感じていた。親愛の情は抱いていたが、こんな落ち着かない気持ちになったことはない。


 未知の感情にフェリシアが戸惑っていると、突然足元に黒いものが擦り寄った。どこから入ってきたのか、黒猫がフェリシアの足に身を擦らせる。

「ノア?」

 ちょうどフェリシアとアレクシスの婚約が破棄となった後くらいからだっただろうか。邸の周りでよく見かけるようになった、見覚えのある翠玉エメラルドの瞳の黒猫。

 毎日のように姿を現すので、ノアと名付けて可愛がっていた。自身を律してきた支えを失くし、そのまま己の存在すら消えていくような不安を抱えていたフェリシアに寄り添い、心を癒してくれた存在。

「にゃあん」

 黒猫は呼びかけに答えるように鳴く。


「俺の使い魔だ」

 ヨアンが抱き上げると、黒猫はその腕に顔を擦りつけてゴロゴロと喉を鳴らす。

「ヨアン様の?よく私の所に遊びに来ていた猫にそっくりです」

「だろうな。その猫だからな」

「え?」

「俺がこいつ──ノアでいいか。ノアをフェリシアの元に行かせていた」

「え?」

 真意がわからず、フェリシアは顔を強張らせる。何の理由があって、ヨアンが自分の元に使い魔を送る必要があるのだろうか?


「──それは、何故…でしょうか?」

 ヨアンはフェリシアの問いかけには答えず、ノアを撫でながら言う。

「よくカラスもいただろう?」

 幼い頃から、邸のバルコニーから見える木の枝に、よくカラスがとまっていたことを思い出す。

 そういえば、王城に行く時にも周囲にカラスの姿をよく見かけていた。

「…いました」

「あいつも俺の使い魔だ」

 バサバサッと窓の外で羽音がして目をやると、そのカラスがこちらを見つめていた。


 先程とは別の意味で、鼓動が速くなるのを感じていた。思わず一歩後ずさる。

「どうして私を?今まで、ヨアン様にお会いしたことはありませんでしたよね?」

 二度も命を狙われた忌まわしい記憶が脳裏をよぎり、声に警戒の色が滲む。信頼できると感じていた自分の直感は外れていたのだろうか?


 そんなフェリシアの様子を見て、ヨアンは苦笑する。

「怖い思いをさせてしまったようだ。すまない。フェリシアに使い魔をつけていたのは、君を守りたかったからだ。――実は、俺たちは会ってるんだ。フェリシアがまだ幼い頃に」

「幼い頃?」

 予想外の答えに、力が抜けた。

 きょとんとしてしまったフェリシアに、ヨアンは少し困ったような顔をして問いかける。

「フェリシアは4歳だったと思う。邸の近くの小道で、倒れていた少年を覚えてるか?」


 4歳の頃…。記憶の糸を手繰り寄せるなか、ひとつの思い出に行き着いた。

 体調を崩していた母に花を摘みに行き、見つけた男の子。兄と同じくらいの年に見えた。黒髪の、とても綺麗な顔をした──。

 青白い顔をして倒れていた少年の姿が脳裏に蘇る。

「あの時の男の子…?」


 ヨアンが静かに微笑みながら頷く。

 彼がヨアンだったのだ。生命の灯が消えかけているかのようなその様子に、幼い自分は思わず手を差し伸べていた。

「あれは、夢ではなかったのですね」

「夢じゃない。俺はあの時、フェリシアに救われたんだ」

「救われたなんて。ただ、あの時、あの男の子はとても顔色が悪くて、呼吸も止まってしまいそうに見えて…」

「そうだ。フェリシアが癒してくれなかったら、きっと俺は死んでいた。暴走した魔力に、身体が持ちこたえられなかったから」

 窓辺の椅子にフェリシアを座らせると、ヨアンはあの時、何があったのかを話し始めた。



 すべてを聞き終えたフェリシアは、あまりに辛い話に、涙を堪えることができなかった。

 ヨアンの指がためらいがちに伸びてきて、フェリシアの涙をそっと拭う。

「あれから、フェリシアだけが、俺の希望だった。守りたかった。だから、ずっと見ていた」

 そして、辛そうに顔を歪めながら、ヨアンは続けた。

「だけど、もしかしたら…。あの時俺を癒したことで、フェリシアは魔力の大半を使い切ってしまったのかもしれない。俺に会っていなければ、救えた命があったかもしれないのに…」


 母と兄のことだ、と悟る。

 この人は、本当にずっと、見守ってくれていた。フェリシアが辛い時、悲しい時、同じように苦しい思いを抱えて自分を責めながら、それでも目を逸らすことなく…。安心できる、信頼できると思えたのは、決して勘違いではなかった――。


「すまない、フェリシア。本当なら、俺はこんな風にフェリシアの前に姿を現してはいけない存在だったかもしれない」

 苦しそうに拳を握りしめるヨアンを前に、胸が締めつけられる。

 あの時の男の子を目の前にしているようで、フェリシアは居ても立っても居られず、自分より大きな彼を抱きしめた。


「ヨアン様、自分を責めないでください。私の魔力は、もとよりとても僅かな力でした。あの時ヨアン様を癒せたことの方が、奇跡なのだと思います」

「フェリシア…」

「ヨアン様は、私を助けてくださいました。ヨアン様が見守ってくださっていなければ、きっと私はもうこの世にいません」

 そう伝えながら、何かが胸に引っ掛かった。

 そう、昨夜、ヨアンは自分を救ってくれた。だが、もっと前にも…。


「ヨアン様、もしかしてあの時も…?私が毒を盛られた時…」

 毒を盛られ生死の境を彷徨っていた時、フェリシアの手を握り、明るい方へと導いてくれた影。あの時の声――。


 ヨアンは弱々しく微笑む。

「あの時…カラスの目を通じてフェリシアが毒に倒れたのを見た時、母の姿と重なって本当に怖かった。俺はフェリシアに救われてから、魔力を磨くと同時に、魔力を目一杯使ったとしても身体が力に飲まれることがないように、ずっと鍛錬を続けてきたんだ。もう二度と、大切な人を失いたくなかったから。フェリシアを、守りたかったから。──二度目は、フェリシアは、救えてよかった」


 一度止まった心臓と呼吸。一体どれほどの力を注ぎ込んでくれたのか。

 あの時、黄泉から引き戻してくれたのは、ヨアンだった。ずっと、ずっと自分はヨアンに守られていた──。


 涙が止まらないフェリシアを、今度はヨアンが抱きしめる。

「フェリシア。もう一度会いたかったんだ。闇を彷徨うような日々のなか、フェリシアだけが俺の進むべき道を照らしてくれる唯一の光だった。フェリシアが生きていてくれることこそが、俺の生きている意味なんだ」


 消えかけた命を繋ぎとめてくれた。

 支えをなくし、傷ついた心を癒すように、ノアを自分のもとに寄こして慰めてくれた。

 再び訪れた危機から救い出し、安息の場所を与えてくれた。

 いつも自分を見守り、手を差し伸べてくれていた人がいたなんて。


「ヨアン様…。ずっとずっと…ありがとうございます。私、本当はもう、何のために生きているのかわからなくなっていたんです。アレクシス様の婚約者でなくなって、私には何の役目もなくなってしまった。母も兄も黄泉へ渡り、父は職務で邸にはほとんどおりませんでした。邸から出ることもほとんどなく、陽炎姫などと呼ばれて、ただただ生きていただけ…。義母と義妹も、私が邸にいては気を遣うばかりだとわかっておりましたが、どうすることもできなかったのです。だから、隣国へ嫁ぐと決まった時も、私などを求めてくれる人がいるのなら、それに従おうと思いました。私の居場所が見つかるのならと…」


 気がつけば、フェリシアはヨアンの腕の中で今まで誰にも打ち明けることのできなかった思いを吐露していた。

 陽炎姫と呼ばれ、本当に自分が透明になって消えていくような気がしていた。生きていても、生きていないような、現実感のない日々。心配をかけたくなくて、父にも明かせなかった思い。

 知らず知らずのうちに居場所を求めていたフェリシアに、ヨアンが居場所をくれた。それだけではない。自分が生きていることこそが、ヨアンが生きている意味だとまで言ってくれた。


「私…、せっかくヨアン様が命を救ってくださったのに、何のために生きているのだろうなどと…。ヨアン様が繋いでくださったこの命、大切に生きてまいります。ヨアン様にいただいた、この場所で…」

 逞しい腕に抱かれ、そっとヨアンの胸に手を当てると、ヨアンがフェリシアを抱きしめている手にぐっと力を込めた。そのぬくもりに包まれて、自分がやっと輪郭を取り戻し、今ここにいると実感ができたような気がする。


 静まり返った図書室で、二人は長い間寄り添い、互いを支え続けてくれていた存在の温かさを噛みしめていた。

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