第5話 陽炎姫は魔王に囚われる
目を覚ましたフェリシアは、見慣れない部屋に一瞬戸惑った。
柔らかく身体を包み込んでいたベッドから身を起こし、部屋を見回す。
『そうだわ、ここは魔王様…ドゥメルク公爵閣下のお城…。昨夜のこと、夢ではなかったのね』
フェリシアはそっとベッドから降りて、バルコニーに出た。
朝の澄んだ空気が身体を包み込む。
目の前には濃い緑が広がり、鳥のさえずりが心地よく響いていた。
昨夜あれほど恐ろしい目に遭ったというのに、身体は驚くほど軽かった。強く打ちつけた頭の痛みも消えている。
『閣下が癒してくださった…?』
頬や頭に触れたヨアンの手を思い出すと、なぜだか胸がきゅうっとした。
『どうして、閣下が助けてくださったのかしら』
魔王と呼ばれ、森に籠っているヨアンに助けられた理由がわからず、思案に暮れる。
たまたま通りかかったのだろうか?でも、城の外で姿を見た人はいないと聞いているし…。
思いを巡らせていると、ノックの音が響いた。
「フェリシア様、朝食の準備ができておりますが、いかがいたしましょうか」
若い男性の声。落ち着いていて物腰も柔らかい印象だ。ヨアンの従者だろうか。
フェリシアはドアに近寄ると、
「ありがとうございます。支度を整えます」
と返事をした。
「承知いたしました。バスルームはご自由にお使いください。クローゼットにお着替えをご用意しております。お支度が終わられましたら、下の階へお越しください」
男性は穏やかに告げると、ドアの前から去っていった。
その言葉に甘え、部屋に備えられたバスルームを使わせてもらうことにした。
バスルームの窓にはステンドグラスがはめ込まれ、彩り美しい光が差し込んでいる。窓辺には可憐な花も飾られていた。
いつの間に湯を沸かしたのだろうか、程よい温度の湯が張られたバスタブには、色鮮やかな花びらが浮かべられ、甘い香りを放っている。
偶然なのか、透き通った清廉な香りの中に、どこか甘さを感じさせる香りのバスソープは、フェリシアが使っているものと同じだ。ゆっくり湯につかり、身体を流すと、昨夜の恐ろしい記憶もすっかり洗い流されていくような感覚がして、フェリシアはほっと息をついた。
クローゼットを開けると、ドレスがぎっしりと並べられていた。あまりの数に面食らう。
『こんなに…。どれをお借りしたらいいのかしら』
戸惑いながらも、一番端にあったシンプルな藤色のドレスを選ぶ。これなら自分で手入れをして返すことができそうだ。フェリシアは急ぎ身支度を整えた。
王太子の婚約者でなくなってからは、自分の身の回りのことは可能な限り自分でするようにしていた。どんな立場になっても困らないようにと考えてのことだったが、まさか魔王の城で身支度をする未来が訪れるとは想像もしていなかった。人生はいつも、思いもかけないことばかりだ。
階下に降りると、先程の声の主と思われる男性が待っていた。
年の頃は30歳前後といったところだろうか。すっと背筋を伸ばして立つ姿は凛々しく、声のイメージ通りに落ち着いた雰囲気を醸し出している。グレーの髪はきちんと整えられ、栗色の瞳は優しく知的な印象だ。
「フェリシア様、こちらへどうぞ。ヨアン様がお待ちです」
穏やかな微笑みを浮かべ、フェリシアの先に立って歩き出した。
案内された部屋に入ると、ダイニングテーブルについていた男性が、フェリシアを見てさっと立ち上がった。
「おはよう、フェリシア」
「お…はよう、ございます」
――浮世離れした造形の美しさに目を奪われた。
長身の引き締まった体躯。濡れたように艶めくさらりとした黒髪に、すっと高く通った鼻筋。涼やかなのにどこか妖艶な目元からは、
その赤く輝く瞳と昨夜も聞いた低く甘く響く声が、その人物が誰であるかを知らせていた。
悪魔のような面の下に隠されていたその素顔に、驚きを隠せない。
ヨアンは、固まってしまったフェリシアを見てくすりと笑うと、そっと席にエスコートした。
「失礼いたしました」
フェリシアは我に返り、慌ててエスコートに従い席に腰を下ろす。
「驚くのも無理はない。俺もユーゴ以外の人間の前で面を外したのは、この城に来て以来初めてのことだ」
案内してくれた男性が、「ユーゴ」という名前に反応して頭を下げた。
「体調はどうだ?どこか痛むところはあるか?」
自身も席に着きながら、ヨアンがフェリシアの様子をうかがう。
「とても身体が軽くて。痛むところもありません」
「それなら、よかった」
ヨアンは安心したように微笑んだ。花が開くように色香が漂う。その表情を向けられるだけで身体が熱くなる思いがした。
「助けてくださり、本当にありがとうございます」
真っ直ぐに自分を見つめる視線に戸惑う。目を合わせていられなくなって、フェリシアは瞳を伏せ再度礼を言った。
ダイニングの広い窓からは、古い噴水のある中庭が臨めた。
こじんまりとしてはいるが、多彩な花が美を競うように咲き誇り、樹木も整えられている。手入れは行き届いているようだ。ユーゴ以外にも従者がいるのだろうか。
『そういえば、バスルームにもいつの間にかお湯が張られていたし…』
庭を眺めていると、そんなフェリシアの考えを見透かすようにヨアンが言った。
「この城で暮らしているのは、俺とユーゴだけだ。人間は、だがな。目には見えないだろうが、城の中には俺の使い魔たちがいる。身の回りの雑用は、使い魔たちが片づけてくれている。――だが、今日からは人間は三人だな」
どうやら、湯を張ってくれたのも使い魔だったようだ、とフェリシアは納得しながらも、人間は三人、の言葉に戸惑う。
「三人?」
「ああ。三人目はもちろん、フェリシアだ」
当然のように言い切るヨアンに、フェリシアはさらに戸惑った。
「でも、私は隣国に嫁ぐ途中で…」
「問題ない。もうその縁談は無くなった」
「え?」
「君は、ここで暮らす」
何がどうなっているのか、さっぱりわからなかった。あれほど急に、そして強引に決められた婚姻が、何故突然立ち消えになったのだろう?
「フェリシア様、ご心配には及びません。ヨアン様がすべて、手筈を整えておられましたので」
困惑するフェリシアにユーゴが助け舟を出すが、答えにはなっていない。何故そうなったのかはわからないままだ。
「でも、一体どうして…」
「フェリシアの消息は不明とするよう、王都に返したフェリシアの従者たちに命じてある」
「え?」
「心配するな。公にしないだけで、フェリシアの父君や国王には、この城でフェリシアを匿うことは伝えてある」
「匿う…?それは一体…」
「隣国の好色オヤジに嫁ぎたいのか?」
ヨアンはフェリシアの言葉を遮り、彼女の瞳を覗き込む。鮮紅の瞳が魅惑的に輝き、どきりとする。
『私が嫁ぐ予定だった方を、ご存知なのかしら…?』
フェリシアは、ためらいながらもふるふると首を振った。正直、父よりもはるかに年上のいい噂を聞かない相手に嫁がなくて済むのであれば、そうしたかった。しかし、そんなことが本当に許されるのだろうか?義母イヴェットからは、この婚姻は職務で国を離れている父クリストフたっての希望で決まったと聞かされているが…。
「嫁ぎたい相手でなかったのなら、問題ないだろう。朝食にしよう」
これでこの話は終わりだ、とばかりにヨアンはナプキンを広げた。
これ以上は聞いてもどうにもならないことを悟ったフェリシアも従う。ナプキンを広げようとして、自身が身に着けている藤色のドレスが目に入り、はっとする。
「閣下、クローゼットの中の着替えをお借りいたしました。ありがとうございます」
慌てて礼を言う。驚きの連続ですっかり失念していた。
「あれはすべてフェリシアのものだ。自由に使え」
「私の…?でも、あんなにたくさん…」
あれほどのドレスが自分のために用意されていたなど、俄かには信じがたい。誰か他の、大事な人のために用意されたものだったのではないだろうか?
ヨアンの大事な人、と考えた時、フェリシアの胸がきゅうっと痛んだ。少し息苦しいような、心臓をぐっと掴まれたような、未知の感覚だった。
『何かしら、今の…』
自分の中で全く知らない何かが起こっているようで、フェリシアはそのことにも不安になる。
「他に着る者はいない。フェリシアが着ないなら無駄になるだけだ」
そんなフェリシアの疑問と戸惑いを一蹴するように、ヨアンが言った。胸の痛みが、少し和らいだような不思議な感覚。
フェリシアの揺れる瞳をじっと見つめ、その不安を収めるようにヨアンが再度、ゆっくりフェリシアに語りかける。
「俺は嘘はつかない。あのドレスはすべて、フェリシアのためのものだ」
「──わかりました。ありがとうございます」
諭されるように言われ、頷いた。昨夜も感じた安心感。ヨアンの言葉は、何故だか信じられる気がした。息苦しさも引いていき、ほうっと息をついた。
それならば、なぜフェリシアにぴったりのドレスがあんなに用意されていたのかも気になったが、今聞いても答えてもらえない気がして、聞くのをやめた。理由はどうあれ、ここにフェリシアの居場所が用意されていた。それだけが紛れもない真実だった。
準備を終えたユーゴが一礼して部屋から出ていったのを合図に、二人は朝食を取り始めた。
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