第5話  リプロダクション

「私、子供産めないからね。」

 付き合って三ヶ月ほどたったころ、生理がこないことをぽろりとこぼした咲はうつむいて、汗のかいたハイボールのグラスを傾けていた。テレビからの雑音がその場の気まずい雰囲気をいくらかやわらげはしているものの、僕らの間にはさまざまな目に見えない言葉たちが飛び交っていた。

「なぜ?」

 と尋ねたくもなるが、その言葉ではないような気がしてのみこむ。彼女が子供を産めないとこぼした理由はもっと他にあるような気もしたのだ。たとえば、実はその子供が枕営業でできてしまった子供であるとか。しかし、さすがにそんなことを彼女に尋ねることはできない。僕は彼女のことを信用している。キャバクラの仕事は僕も受け入れている。それはふたりの間に信頼関係があるから。それなのに僕がその一線をこえてしまえば、強固だと思われていた楼閣はあっけなく崩れ去ってしまうだろう。言葉に迷った挙句、

「そう。」

 と僕は小さく呟いた。なにも問わない。僕はただ受け入れる。それだけが僕に残された選択肢だった。テレビからの音はさらにボルテージを上げている。芸人たちが楽しそうに、楽しそうなことをしている。そんなものなのだ。テレビの向こう側とこちら側とでは世界が違う。違う世界、楽しそうな世界を見て、僕らは自分もその違う世界にいるかのような錯覚を得たいのだ。しかし、それは時にパラドックスを加速させる。ふさわしくない。僕らの間の溝は嫌でも、その明るい世界との対照によって深まるばかりであった。

「明日、堕しに行くね。」

「うん。なにか必要なものがあったら連絡していいよ。」

 そんな優しさはあまり意味がないことを感じつつ、そう呟くしかなかった。


 僕の生活の均衡はその時から少しずつ崩れていったように思う。一気にではない。緩慢に、気づくか気づかないかくらいのスピードで。

 そもそも僕は「普通」以上のことができなかった。むしろ平凡な日常という安定感を必死に守っていた。時に僕はうかれそうにもなった。僕には不釣り合いなほどに美しい彼女を持ち、そんな彼女は僕のことを毎日求める。仕事は居心地こそ悪くなかったものの、けっして良くもなかった。僕に求められるのは僕の言葉ではなく、決められたセリフであり、大卒なりの力量だった。しかし、それでいいのだ。僕の日常に波を作らないのなら、なににだって耐えられるのだから。

 翌日、僕はひとりだった。彼女の帰りをまつ。深夜2時ごろにいつもは帰ってくるはずなのだが、その日は彼女の帰りが遅かった。病院には午前中に行くと言ってはいたことから、仕事が長引いている可能性が高かった。ただ、もっと別の想像が僕の脳内を支配していた。つまりそれは、彼女がどこかでひとり苦しんでいるのではないかということ。僕は考えたのだ。もしも彼女のお腹の子供が他の誰かの子供なのであれば彼女は何も言わずに堕してしまえばいい。そのほうがお互いに楽なのだから。しかし、彼女はわざわざ僕に言った。なにかを伝えようとしていた。が、その「なにか」が僕はわからなかった。彼女は独りでその「なにか」を背負っている。その時ほど平凡な僕は、自分のその平凡さを憎むことはなかった。

 その時、机の上に置いていたスマホの画面がひかり、振動を始めた。着信だ。咄嗟に僕はスマホをつかみとり、画面を見る。「咲」と白い文字が並ぶ。いつ変更したのかも覚えていないが、長ったらしい数字の羅列は彼女の名前に変わっていた。そして、その名前が僕の心を落ち着かせるとともに不安の小さな種を蒔く原因にもなっていた。

「もしもし。」

 僕はなにごともないかのように電話に出た。沈黙はしばらく続いた。深夜3時をそろそろまわる。夜の闇はその日のなかで最も深くなっていた。受話器の向こうの遠くのほうで波の音が聞こえた。

「壮平。」

「今、海にいるの。」

「今日こどもを堕した。」

「昨日の話、ほんとうは色々考えてるんでしょ?」

 きれぎれに聞こえてくる彼女の声は波のリズムを思わせた。僕は相槌をうつでもなく、返事をするでもなく、ただただ彼女の言葉を待った。

「私ね、実は。」

「戸籍。」

「ないの。」

 最後の方の彼女の声はか細く、切れて、消え入りそうであった。僕の心のなかで迫り上がってくるものがあった。それは彼女の抱える事実がそうさせるのではない。そうではなく、その事実を独りで抱えて今まで生きてきた彼女の苦しさが僕の方に流れこんできたのだ。

「そんなこと、どうでもいいよ。」

 僕はつぶれそうになる声を懸命に絞り出して言う。

「だから帰ってきなよ。」

「うん。」

 それだけ言って僕らはお互いに電話を切った。呆然と僕は彼女が今までどうやって生きてきたのか、どういう気持ちで僕と付き合おうと思ったのか。そもそも堕ろすといっても保険証もないのにどうやって病院に行ったのかを考えていた。それが彼女の経験している、経験してきた困難のごく一部に過ぎないことを自覚していた。ただ、ひとつ確実に言えることは、彼女にとっては生きることそのものが障害であったのだろうということだった。

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