第4話 月と亀
「はい。」
おそるおそる発した声がアパートの外階段に反響する。僕の声が受話器の向こうにいる人間に確実に届いていることは知っている。というのも、向こうからは海の波の音のようなものが聞こえていたから。しかし沈黙はしばらく続いた。僕はどうしていいのかわからずに、ただ突っ立って受話器を耳に押し付けていた。
「壮平くん? だよね。」
受話器の向こうから聞こえた声はまぎれもなく前日に聞いた、咲の声だった。
「はい。」
とこたえる。
「今から会いませんか?」
咲は少し申しわけなさそうに尋ねた。だから僕は、彼女が意外とおとなしい性格で、昨日の僕の読み、つまり場慣れした大人な女性というのは間違っていたのではないかと思わせた。
「えっ、どうしてです?」
僕は咄嗟に聞き返してしまった。今にして思うと、もっと素直に「はい、いいですよ」と答えればよかった。そのほうが大人で賢そうに見えるに違いないのに。彼女はもごもごと喋りながら言葉を選んでいるようだった。その間も波の砂にぶつかる音が心地よく受話器ごしに聞こえている。
「まぁいいじゃないですか。」
ふっきれたように咲の明るい声が聞こえ、その途端僕の心から一気にどろどろとした芥が、高圧洗浄機でふっとばされたように思った。
「はい。じゃあ店の近くのコンビニでいいですか?」
「うん。今から行く。」
そう言って彼女は電話を切った。これがいわゆるアフターというやつなのか? 僕にはなぜかそう思えなかった。たぶん僕らはこの後性行為をするわけでもない。いや、絶対にそれはないとわかっていた。ほんとうになぜだかはわからないが、僕と咲とのあいだにそんなことがあってはならないと変に錯覚していたのだ。
「おまたせっす。」
彼女はジーンズに長袖という店での派手さとは対照的な格好で現れた。そこでいくらか僕の警戒心も解けた。
「おつかれさまです。歩いてきたんですか?」
「そーだよ。家すぐそこだから。」
彼女はよくわからぬ方向に指をさして言った。それから彼女は自己紹介も、なぜ会うのかも説明することなく、それが当然であるかのように先頭を切って歩き始めた。僕は少し出遅れはしたものの彼女のあとについた。なにも話さず、ただただ歩く。人通りの少ない道。夕飯時間だからか、家々からは黄色い光が漏れている。彼女はそれでも歩き続けた。15分くらいは歩いただろうか。僕はそこであることに気づいた。湿った風と潮の匂いが近づいている。そして彼女は海に向かっているのだと。
「海?」
「そう。海。心中しようと思って。」
「えっ?」
僕の反応を見て彼女は大声で笑った。お店での雰囲気とは違った。なんというかもっとまっすぐで、太い性格だった。
「冗談だよ。やばい女じゃん。」
「あぁ、まあそうだよね。」
僕はふふっと小さく笑うだけだった。
「それで、なんで会おうと言ったかというとね、」
いつしか地面には白い砂がうっすらとつもっていた。もうすぐ目の前には堤防が見える。
「よいしょ。座りなよ。」
僕は黙って彼女の横に感覚をあけて座った。まだ僕が座りかけているときに彼女は言った。
「会おうと思ったのはね、私とつきあってほしいからなの。」
その声は暗闇の中へ寂しそうに吸い込まれた。彼女はまた冗談を言っているのだろうか。そう思わずにはいられなかった。なぜ僕なのか。シンジやコウのほうが明るくておもしろいだろうに。こんな普通な僕でいいのだろうか。
「冗談じゃないよ、これは。」
彼女はちょっとだけ恥ずかしそうに笑っていた。
「僕でいいならいいんだけど。僕が女ならおすすめはしないよ。こんなつまらない人間そうそういないから。特徴もないし、普通だし。」
僕がそう言うと彼女はまた笑った。それでも僕は、いつしか僕のなかの期待にのみこまれてしまっていた。それがすべて冗談であってほしいなどとはもう考えていなかった。
「いやいや、自分で言うことでもないよ。まぁ返事はオッケーってことね。」
「うん。」
このとき僕はまだ事態の劇的さに気づいていなかったのだろう。彼女は美女と言うには十分な容姿をもっていたし、妖しげな雰囲気もあったから他の男は放っておかないはずだ。そんな彼女と普通の僕が付き合うと何が起きるのか。彼女には愛情以外の意図があるのではないか。そう疑うのが正常というものだろう。それなのに僕はまぬけな犬が餌をもらうため、虐待飼い主に捕まえられに行くように、二つ返事で了承の返事を与えてしまっていたのだ。
「じゃあ、これからはカップルということでよろしくね。」
「うん。」
僕はただバカ素直に返事をするだけだった。
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