第3話 幸福がなければ不幸もない

 カーテンの隙間から朝日がさしこみ、僕の横顔を照らす。起きろ、と言われているようで起きた。時刻はすでに正午をまわっていた。結局僕は無意識のうちにこの部屋にたどり着いたようである。タクシーから降り、部屋までの階段をのぼった記憶はなかった。僕は昨日のことが嘘でなかったことを確認した。ポケットのなかにはやはり角が痛いほどに尖った名刺が、空想的な現実としてあった。昨日は気づかなかったものの、裏側を見るとすぐに電話番号と知れる数字の羅列が殴り書きで書かれていた。

「はぁ。」

 僕は自然とため息をもらす。というのも、そんなことは僕にとって面倒臭いことだったからだ。女性とのつきあいはもう諦めている。できれば期待もしたくない。過去の彼女は一人といえど、僕は相手から僕への好意というものが少しでも感じられた瞬間に重く感じてしまうのだ。責任を押し付けられているような気がする。私はあなたのことが好きだから、あなたは相応の態度とリターンを私に与えなさい、と言われてもいないし、相手は考えてもいないのだろうけど、それでもそういうふうに僕は感じてしまうのだ。微かな期待がなかったといえば嘘である。一瞬、電話をしようかと頭をよぎったことは事実だ。が、その期待は切られる方が正解である。普通に生活している僕が普通以上を求めれば碌なことはない。名刺をゴミ箱になげた。これでいい。僕は言い聞かせるように胸中で繰り返した。


 一気に身支度を整えて僕は職場へ向かった。大学を卒業し就職したのは、小さなピザ屋だったから、大学を卒業した意味などなかった。そこの店長は大卒をとることにこだわっていた。

「大卒以外はたいていダメだよ。すぐに仕事をやめるし、無断欠勤も平気でするしね。大卒は奨学金っていう重りをもっているだろう? だからやめないんだよ。ひと月でも仕事をしない月があれば地獄だからね。」

 面接の際に店長は釘をさすように言った。勘違いしないでほしいことは、けっして彼は悪い人間でもないし、彼の言っていることがまちがっていないということだ。実際、僕には少しの猶予もなかった。働かねば、そして借金を返さねばとお金が僕を急き立てるのだ。そもそも、もっといいところに就職できたんじゃないかとも思うのだが、それはたらればで、僕はいくつもの面接におちた。心を病みそうになった僕は大卒歓迎のこの職場を選んだのだ。そうすればまだ自分は必要とされているという実感が持てるような気がした。ただ、わかるとおり、その職場が求めていたのは僕などではなく大卒というレッテルに過ぎなかった。

「おはようございます。」

 僕は厨房にはいって大声で叫んだ。それが暗黙のルールとなっていた。

「おはよー。」

 と厨房にたつ頭巾をかぶったパートのおばさんが返す。なんというか、アットホーム的な雰囲気をこの職場は大事にしていた。店長もそうなのだが、みながある一定の常識を前提に話す。間違えてでも空気の読めないことを呟けば白い目で見られるのがオチなのだ。

「今日遅かったねー、二日酔い?」

 おばさんは笑いながら尋ねる。

「はい。すいません。」

 と、僕は正直に謝る。酒に浮腫んだ僕の顔を朝から見るのはさぞかし辛いだろう。僕がおばさんの立場なら帰ってしまうかもしれない。奥の事務室でパソコンをいじる店長にもひとこと謝り、制服に着替えてホールに立つ。誰も機嫌が悪くないのはその日が比較的空いている日だったからだろう。僕はいつものようにホールで席の片付けをしたり、客の空いたグラスに水を注いで回った。

「なんかありました?」

 突然、ほんとうに突然僕に尋ねたのはバイト生で大学生の重本さんだった。

「えっ、なんで?」

 重本さんは若く瑞々しい瞳を僕に向けていた。目の奥で僕の内奥にひそむ何かしらの変化を見つけようと必死なのがあからさまだった。

「これ。」

 見せられた伝票の価格欄に書き込まれた合計金額にゼロが一つ足りなかった。こんなことは今までになかった。僕は大卒であるのに、と言われないよう完璧に仕事をこなしてきたのだから。

「あぁ、ごめん。」

 僕は急いでその伝票を奪い取りゼロをひとつ付け足した。焦っていた。僕は自分が浮かれていることに気づいていなかった。あの名刺は捨てたはずなのに、僕の中で期待は少しも途切れていなかったのだ。たぶん、僕が焦っていることはバレているだろう。そしてそれがなにかあったのかという問いへの答えにもなっていたに違いない。僕は急いでトイレへ向かい顔を洗った。顔面に張り付いた期待を冷水で拭った。僕に幸福などいらないのだと言い聞かせながら、なんども顔に水をぶっかけた。

「二日酔いなんだ。ごめんね。」

 と、僕はトイレから出るなり自分から重本さんに告白した。重本さんは、

「いえいえ、大丈夫です。」

 と笑って応じてくれた。向こうのほうが大人で、世間なれしているようで少しだけ悔しかったが、それ以上に今は嘘を隠し通すことのほうが重要であったから、それ以上はなにも言わなかった。


 帰途、身体中というよりは体の奥のほうが疲れていた。これが心なのかと思うと、心は意外と胸の奥の肋骨の向こう側にあるのだとわかった。僕は自分に何度も言い聞かせた。お前に幸せなどいらない、幸せは絶望の種なのだから、と。なんどもなんども言い聞かせ、そのたびにアクセルを強く踏んだ。そうすれば目の前のものは通り過ぎていくはずだから。

 家につき、やっと運転という労働から解放された。部屋はアパートの3階で、エレベーターはなかった。すたんすたんという足音がコンクリートに反響して、その空間を満たす。そのときだった。僕のポケットでスマートフォンが振動した。マナーモードのそれは、その身が狭いポケットに押し込まれ悶えているようだった。反射的に僕はスマホをポケットから取り出す。画面には登録されていない長ったらしい番号の羅列が見えた。しかし、僕にはわかっていた。下4桁が7093。あの名刺と同じだ。階段をのぼる足はいつしか止まり、僕は振動を手の中に、スマホの画面を一心に見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る