第2話 終わりの始まり
「うぇーい。」
そんな意味のない声にまみれた室内で、僕はどうにかその場の空気に自分を馴染ませていた。高校の頃の同級生らはほとんどが地元の店や、土木会社に就職していた。僕だけが大学卒の会社勤め。
「ねぇ、飲みすぎよ。」
コウのそばに座る女はいくらか綺麗に化粧をしているものの、どこか無理をしているように感じられた。
「いいんだよ、今日は。こいつとさしぶりなんだよ。な?」
コウはそう言って僕に話題をふる。たしかに彼らと会うのは4年ぶりくらいだった。
「あぁ。ほんとにさしぶり。」
と、僕は味気ない返事をする。一瞬だけその場の空気が固まる。というか冷える。こいつもっとしゃべれないのかよ、という声が発せられてもいないのに室内にこだましていた。僕は彼らに誘われて初めてキャバクラに来ており、少しだけ緊張していたのだ。女性との関係も今までに一度しかもったことがなく、それもひと月ほどで別れたから女性経験はほぼゼロに等しかった。
「まぁいいや。それより、アフターどう? もうちょい払えるよ。」
コウはそのことしか頭にないようだった。周囲の同級生らは冷やかしを入れながらも自分もその波にのろうと必死な様子だ。すると僕の左隣に座っていたシンジが口を開いた。
「俺は君がいいな。」
シンジの言葉の先にはもう一人の女性がいた。彼女は終始微笑をうかべ、聞き役に徹していた。それに声もはりあげない。しかし妙に場慣れした雰囲気を醸し出していた。
「私はだめね。店長に怒られるわ。」
浮かぶ微笑は微動だにしなかった。それが覆しようのない否定であることは誰の目にも明らかである。
「じゃあ、また今度。」
そう言ってシンジが早々に諦めるのをよそめに、コウはまだ粘っていた。
「おねがい。また店に来て指名もするし、お金も払うからさ。」
「わかった。みんなには内緒よ?」
その女は笑ってコウの手をとった。たぶん仕事が終われば彼と待ち合わせてホテルかどこかへ行くのだろう。なぜか僕はこの女たちを抱きたいなどとは思えなかった。むしろそれが当然である、と確信できた。彼女らと僕との間にはなんの信頼関係もないのだから。グラスに注がれたシャンパンの中で一列に並んだ泡がとめどなく水面へ向かって動いていた。
「じゃあ、二軒目にでも行くか。」
シンジはそう声をかけ立ち上がる。つられるように僕とコウも立ち上がる。
「終わったら連絡して。」
コウはそう言って電話番号の書かれた名刺を彼女に手渡した。
「俺あした朝早いからここで帰るよ。」
僕は機を逃さぬよう早口でまくしたてた。ふたりは少しだけ驚いた顔で僕を見て、
「あぁ、おっけい。また今度な。」
とあっけなく返事をした。その今度がこないこともわかりきったことだった。
「また来てくださいね。」
と無口な女性が言う。そして僕の手を握る。そうすれば男性が喜ぶことを知っているのだろう。なにかが腿に触れたような気もしたが気のせいだ。僕らは二人の女性に手をふって別れた。
「じゃあなー。」
店を出ると二人は左に出て行った。本当は僕も左から帰るはずだったが右に出た。三歩くらい歩いて振り返る。シンジとコウの後ろ姿は少しも寂しそうではなかった。自信にみちあふれ、夜の闇など存在していないかのよう。そうだ、ふたりとも一応は結婚しているのだから、僕なんかとは違うのだ。振り返っていた首を元に戻し、家とは反対方向に歩く。街灯がぽつぽつと照らす道が目の前に伸びていた。秋口だからか僕の背を冷たい風がなでた。それは慰めの風。その心地よさに酔いしれながら、僕はひとりその道を歩いて行った。
「ポケットに手を入れて歩くと転んで前歯を折っちゃうよ。」
そう母に何度も叱られたことを思い出していた。そんな母ももうこの世にはいない。急性白血病で一昨年に死んだのだ。父とは若い頃に離婚しており、女手ひとつで僕を育てたのだが、それを誉められるとすぐに機嫌を悪くした。
「女だってなんでもできるわ!」
家に帰るとそう毒を吐く。強くあらねばならない女性の代表格のように僕には思えた。
指先に尖った感触を覚え、僕は追想から引き剥がされた。触れた瞬間にそれがなにかはすぐにわかった。しかし、心当たりはない。取り出してみると案の定名刺だった。最近は道にとりつけられた街灯もLEDに変わり、目をさすほどに眩しい。防犯目的なのだろうが、あのオレンジ色のさみしげな街灯のほうが暗い夜道と雑巾のような人間を照らすのに適している。
「錦戸咲」
僕は名刺に書かれた名前を見ると咄嗟についさっきのことを思い出した。
「サキちゃんはアフターなしなんだよ。」
シンジが誘っている際にコウがぽろりと吐いた言葉だった。あの子か。僕は頭のなかにぼんやりとあいまいな輪郭を浮かべる彼女の顔を眺めた。厚化粧でもないが濃く見えるのは目鼻立ちが整っていてなおかつ彫りが深いからだ。しかしなぜ? 当然の疑問が浮かぶ。が、それよりも眠かった。早く家に辿り着き布団に倒れ込みたい。今なら3秒で寝られるような気がする。僕は酔いからくる眠気に耐えられずにタクシーを呼んだ。その際、僕はポケットのなかに名刺をもとあったとおりに戻した。タクシーはすぐに来た。乗り込むと同時に襲われる安心感で、僕はタクシー仕様のクッションの効きすぎたシートで横になった。眠気を感じる暇もなく、僕はいつしか夢の中であった。
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