第3話 このバス停から

 人は皆、何かしらの罪を犯しながら生きている。

 法律を犯す罪は分かりやすい。その他には、個人の感情に悪影響を与えるもの、自分自身に課すもの、様々なものがあると思う。

 例えば、小学生の時好きだった子にイタズラをして泣かせてしまっただとか、

試合の重要な場面で決定的なミスをしてしまい、その結果負けてしまったこと、飲食店のバイト中に、店のコーラを隠れて飲んだことなど。

 僕の場合は、社会通念上重たい罪に分類される。

 もし可能であるならば、僕の懺悔を聞いてほしい。聞いた上で、僕の罪を許さないでほしい。

 マゾだとか、そういう類の話ではない。

 二宮金次郎像のように、薪を背負いながら勉強に励むのと同じように、僕は罪を背負いながら仕事に励むのだ。

 今日も、朝の6時に起床して、仕事に向かう。

 愛用しているスーパーカブに跨って、早朝の環八通りを走る。途中でコンビニに寄って、ホットコーヒーとサンドイッチを買い朝食を済ませる。

 都会の冬を越して新緑を待ち侘びている街路樹が、冷たいような暖かいような、どっちつかずの風に揺らめいていた。

 職場に着いて、駐輪場にスーパーカブを止める。大型トラックが倉庫の中で所狭しと並べられている。もう見慣れた光景だ。 

 事務所に入り、今日の出荷場所を確認する。

 「おはようございます。」

 「お、稲垣さん!今日も早いですね〜。」

 「山田さんも早いじゃないですか。」

 「まぁまぁ。まだまだ寒いですね〜。」

 「ホント寒いです。じゃ、行ってきます。」

 事務員の山田さんと軽く挨拶を済ませ、アルコールチェッカーで酒が入っているかの確認をする。といっても、お酒を最後に飲んだのはいつだろうか。

 ロッカー室で作業服に着替えたら、トラックの点検をする。ハザードランプやブレーキランプ等の点灯確認と、トラックのオイルチェック。

 この点検が済んだら、段ボールがたくさん積まれている商品待機場所から、自分の運転するトラックまでを往復して、積荷作業を行う。自分の同僚達は皆、この積荷作業で腰を悪くしているので細心の注意が必要だ。

 積んでいる荷物の中身としては様々なものがある。大量のカップ麺であったり、衣類であったり、家電製品であったり。出荷する場所も様々だ。今日は新潟県に向かう。

 積荷作業を終わらせて、トラックに乗り込む。エンジンをつけて、アクセルペダルを積荷が崩れないよう慎重に踏み込み、倉庫から環八通りへ出る。

 この時間帯の環八通りは、スーツ姿で社用車を運転しているサラリーマンや、関東バスでほどほどに混んでいる。

 左車線を走っていると、僕の3台前を走っているバスがバス停に止まろうとしていたので、右ウインカーを出して車線変更する。

 信号が赤に変わったので、ブレーキペダルを慎重に踏んで止まると、先ほどのバスと並行した。

 バスの乗客には、眠たそうにしている制服姿の人や、スーツ姿の人が密集していた。

 制服を着ている人達を見ると、すぐに栞のことが頭に出てくる。

 栞は今、中学三年生だ。これから受験を迎えるが、元妻からはほどほどの学力だと伝えられている。

 信号が青に変わり、再びアクセルペダルを踏み込む。

 積荷が崩れないよう慎重に。

 自分の背負っている罪が崩れないよう丁寧に。

 太陽の光が、ビルの隙間を抜けながら差し込んできた。その光は、ビルの影と相まって僕たちが向かう先までの道案内をしてくれるような、優しい光だった。


 あの時は愚かだった。ただ自信が無く、とてつもなく怖かったのだ。

 栞が産まれてから4年ほどは楽しい生活を送っていたと思う。もちろん4年間の中でも、家庭をもつ上での大変な出来事は経験して、乗り越えていた。

 真冬で粉雪がちらついている中、産婦人科の病院で産まれたばかりの栞を抱いた時は、今にも崩れ落ちてしまいそうな小さい命を必死になって支え、僕の腕で守れるのかという不安と、それでも守り抜くという覚悟で泣きながら笑った。

 初めてのオムツ交換は、汚物の悪臭による苦しさよりも栞の愛くるしさが勝っていた。

 当時勤めていた家電製品の営業担当の仕事も、家庭があるから頑張ることができると必死になって働いていた。

 そんなごく普通の家庭で、ありふれた感情だったからこそ、経営不振による人件費削減の通知が会社内に回ったときは、常に嫌な緊張が走っていた。

 元妻のつばさにも、他の誰にもこの通知のことを話せないでいた。当時の僕は話すことが情けないと思っていた。

 本当に情けないことがどんなことかも知らなかったのに。

 経営不振の中でなりふり構わず働いていた僕は、そのストレスからアルコールとギャンブルと煙草に走ってしまった。何が大切で、何が重要なことなのか全く分からなくなっていた。

 売り上げ成績が一番悪いというわけでもないのに、商品が売れなかった時は影で顧客を罵倒し、同僚との関係も良いとは言えないものになっていた。

 栞が産まれてから5年目の冬、僕の成績は部署の中で一位になった。同時に成績の悪かった同僚は地方に異動となった。

 僕はとても喜んでしまった。部署の掲示板に貼られている通知を、同僚と一緒に見ている空間の中で、声を出して歓喜してしまった。

 仕事が終わってから、立ち飲み居酒屋に向かいお酒を浴びるほど飲んだ。歓喜の感情をそのままパチンコに当てると、5万円ほど勝ちさらに喜んだ。

 それでも飽き足らず、この喜びを家族に伝えるため家に帰ったら、栞の5歳の誕生日ケーキがリビングの机の上に用意されていた。まだ火の着いていない蝋燭が5本ケーキに刺さっていて、3人分のお皿とフォークが綺麗に並べられていた。時計の針は23時を指していた。

 栞はすでに寝室で眠っていて、つばさはリビングの椅子に座っていた。

 つばさは、天敵が現れて我が子を守ろうとしている動物の眼をしていた。身を賭してでも我が子を守り抜く母親の眼を、僕に向けていた。

 その時にはもう遅かった。どれだけ謝ろうと、懺悔しようと、手遅れだった。

 高校三年生の試合で負けた時に、あの時こうしておけばとか、もっとやっておけばとか、どれだけ過去を後悔しても結果は覆すことができないように。

 間も無くして、つばさから離婚通知が渡され、つばさと栞は家を出ていくこととなった。

 栞とつばさが出ていった家は虚無の空間で埋め尽くされていた。それからも逃げるように、家の外へ出て、白息が出る真冬の中煙草に火をつけた。

 その煙草はとても不味かった。

 なぜ煙草に火を付けることができるのに、蝋燭の火は付けられなかったのだろう。なぜ成績一位を喜ぶことができるのに、子どもの誕生日を喜ぶことができなかったのだろう。

 泣きたかったが、泣くことすらも許されないと思った。

 白息と煙草の煙が混ざったものが、真冬の空に消えていくのを見て、この罪は消してはいけないと固く誓った。

 それから家電製品の営業の仕事を辞めて、トラックの運転手の仕事に就いた。

 営業の仕事を自主退職したとき、上司からは反対されたが、僕の罪を知っている同僚達は何も言わなかった。

 トラックの運転手になった理由は大したことでは無い。人手不足で入りやすいのと、大型免許が当時は取りやすかったのと、養育費を払うことのできる給料が貰えるのと、忙しいというだけだった。

 (どこの誰かも分からないけれど、僕の懺悔を聞いてくれて、この罪を許さないでくれてありがとう。)

 関越自動車道を抜けて新潟県に入ると、北東側に聳え立つ山脈の頂上付近にはまだ雪が積もっているようで、一部分に銀世界が出来ていた。

 トラックから流しているFMラジオのパーソナリティがふと口にした。

 「今年の春夏秋冬も楽しみですね。皆さんの日常に景色を添えると、より素敵になるものです。何かしらの出発の力になるように。」

 確かに、壮大な山脈と一部分の銀世界は、今後の僕の新しい出発に力をくれるのかも知れない。

 ただ、僕の日常は素敵なものではない。素敵なものであってはいけない。

 アクセルペダルを慎重に右足で操作して、左車線を時速60kmで走るのだ。


 栞が少し偏差値の高い高校を受験するという話を聞いたのは、赤蜻蛉がトラックのミラーに止まるようになった季節の頃だった。

 つばさから定期的に近況報告が送られてくるが、感謝しかない。

 ただ、つばさからも栞からも、会いたいという連絡はない。僕も、それを望んではいない。望んではいないと思っていた。

 その求人情報を目にしたのは同時期のことだった。

 いつも通りスーパーカブで通勤して、赤信号で止まっているとバス停の時刻表に張り紙がしてあるのが見えたのだ。

 『関東バス運転手 求人情報はこちら。』

 バスの運転手も人手不足なのかと思いながら、職場について駐輪場にスーパーカブを止める。

 事務所に入り、出荷場所の確認をして山田さんに挨拶する。

 「おはようございます。今日はいつもより遅いですね。」

 時間を確認すると、確かにいつもより5分ほど遅かった。

 「そういえば、稲垣さんとこの娘さんって今年受験ですか?」

 「そうですね。ここから10kmぐらい離れたとこの高校受験するみたいですけど。」

 「それだと、バス通学になるんですか?」

 確かにそうだ。それにしても、世間話程度に僕の家庭事情を話したことはあったが、そこまで覚えているとは思わなかった。

 「確かにそうですね。よく覚えてくれてますね。」

 「稲垣さんは仕事よく頑張ってるので。」

 その言葉は言わないで欲しかった。僕の中で何かがほどけてしまうような気分になった。

 「はあ。ありがとうございます。じゃ、行ってきます。」

 会話を強制的に中断させて、通常業務を始める。

 「稲垣さーん!アルコールチェック忘れてますよ。」

 「あ、すいません。」

 頑張っているので。

 僕は、僕の罪を許さないで欲しい。

 ただ、罪を背負いながら励んでいると認めてくれる存在が現れてしまったら。

 ほどけてしまった感情を押し殺すことは出来なかった。

 携帯から関東バスの求人情報を検索して、応募要項を確認する。大型二種免許が必須と書いてあったので、一番近くで大型二種免許を取ることができる自動車学校のホームページを開き、手続きを済ませる。

 車両チェックを始めたときには、いつもより20分ほど遅れていた。

 今日の出荷場所は福島県。遅れてしまった時間を少しでも取り戻すために、急いで車両チェックと積荷作業を済ます。

 トラックに乗り込み、エンジンをつけてアクセルペダルを踏み込む。

 積荷が崩れないよう慎重に。

 認めてくれと、ゆっくり頭を下げるように。

 環八通りを出ると、街路樹が緑色と紅葉色に混ざっていて、朝日に照らされていた。

 確かに出発の力にはなったかも知れないと思った。


 朝の5時に出発して、職場に向かう。

 太陽の光が少しだけ顔を出していて、東側の空を暗色にグラデーションしていた。

 愛用のスーパーカブに乗り、環八通りへ出る。1年6ヶ月前に退職した運送会社とは反対方向へ向かい、途中のコンビニでホットコーヒーとサンドイッチを買う。11月に入って、放射冷却が顕著に現れている都会はとても寒い。

 バス会社に到着すると、フットサルコートの広さほどある駐車場には出発を待っているバスが綺麗に並んでいる。まだ見慣れない光景だ。

 駐輪場にスーパーカブを止めて、事務所に入る。

 「おはようございまーす。」

 「稲垣さん。おはようございまーす。相変わらず早いですね。」

 だいぶ眠たそうにしている事務所の職員と挨拶を済ませてロッカールームに入る。防寒対策仕様の私服からバス会社の制服に袖を通し、ネクタイを締める。

 同時に、ほどけて解放された感情を制御する。

 バス会社に転職することをつばさに伝えた時は、ただ一言、「分かった。」と返事が返ってきた。それから数分後に、「応援してる。」と送られてきた。

 つばさが内心どう思っているのかは検討もつかない。ただ、応援してるの一言だけで、僕はこれからも生活していけると思った。

 そして、つばさの強さに謝罪と感謝をした。

 ロッカールームを出て、体調チェックとアルコールチェックを済ます。

 まだ誰も乗っていないバスに乗り込んで点検も済んだら、運転席に座りバスのエンジンをつける。

 始発を待っているバス停へと向かうため、標示を回送にする。

 荻窪駅前から終点までの往復は1時間と15分程度。始発を利用する人はあまりいないが、僕が運転しているバスが再び荻窪駅に到着する頃には、通勤する社会人や通学する学生達でかなり多くなる。

 1往復目が終わり、2往復目をするためバス停で乗客を乗せていると、学生服を着ている二人組の男女が乗ってきた。

 男の子の方はほんのりと金木犀の香りを漂わせていて、緊張しながらも楽しそうな表情をしていた。栞も楽しそうな表情をしていた。

 思春期の娘を自家用車で送迎する父親のような感情に浸りながら、僕は祈る。

 二人にこれから様々な葛藤が現れようと、苦難が訪れようと、平穏が崩れないように。

 そして、慎重にアクセルペダルを踏み込む。

 僕の罪が崩れることは無い。

 ただ、この乗客の平穏や幸福が崩れることのないように手助けだけでもさせて欲しい。

 「扉閉まります。ご注意下さい。」

 バスを走らせていると、いつかのような光が差し込んできた。

 僕の道案内をしてくれて、出発の力になってくれてありがとう。

 やはり、素敵なものではないけれど、僕はこのバス停から再出発することが出来たのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 


 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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あのバス停から おおやぶ ゆき @oyabu-yuki

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