第35話「ギルバート・アングルス伯爵令息の憂鬱」
地方の豪族と言えば聞こえは良いが、その実情は決して良いものではない。
インテリオラ王国南方の雄と呼ばれる、我がアングルス伯爵家でもそれは同じであった。
まあそうは言っても、魔物の蔓延る人外領域に片足を突っ込んでいる北の果て、マルゴー領よりはマシなのだろう。マルゴー伯は人里と魔境を隔てる人類の盾ということで「辺境伯」という伯爵家よりも一段高い爵位を与えられてはいるが、それが苦労に見合ったものなのかどうかは微妙なところだ。
いや、あるいはマシであるからこそ、こんな状況になっているのかもしれない。器の小さい人間が暇を持て余すと碌なことをしない、という話を聞いたことがある。
この領にやけにゴロツキが多いのも、おそらく平和だからなのだろう。
◇
「おい、なんだこの値段は! 小麦は一定以上の値段で売ってはいけないと王国法で定められていたはずだ!」
私は店先に並べられた小麦の値段を見て激昂した。
食料品の高騰については家の者や領主である父からも聞いていたが、まさかこれほどとは思っていなかった。
「へへへ。若様、馬鹿言っちゃいけませんぜ。よく見てくだせえ。こいつは小麦粉ですぜ。小麦じゃありやせん」
「屁理屈を! 小麦を挽いて粉にするだけで、こんなに値段が上がるものか!」
「おっと、そいつはいけませんな若様。小麦挽きの苦労を何ひとつわかっちゃいない暴言でさ。若様が口になさるパンだって、元はと言えば誰かが小麦を挽かなきゃあ作れないんですぜ。御曹司が下々の者の働きを知りもしないで暴言を吐くたあ、天下のアングルス領も先は知れるってなもんでさ」
「く、減らず口を……!」
確かに私は小麦を挽く苦労は知らない。しかしこれまで売られていたパンの値段から考えると、それほど高いとも思えない。少なくとも今売られているこの小麦粉の値段が異常であるのは明らかだ。
「それに、うちの小麦粉の値が気に入らないってんなら、他で小麦を買って自分で挽きゃあいいだけでさ。小麦の値段をお
店番の男はヘラヘラ笑ってそう嘯く。
確かに私も言った通り、小麦は王国法で一定以下の値段にするよう決められている。
しかしこの店──マリグナント商会は、我がアングルス領において、あらゆる分野でトップのシェアを誇る大商会だ。おそらくは商会の組織力と資金力を駆使して領内の小麦を買い占め、小麦粉に加工し、高額で売っているに違いない。
こうした買い占めによる高額転売を避けるための小麦の値段規制なのだが、いまだその加工品にまで法の規制は及んでいない。元々小麦の値段規制を制定したのも現王の体制に移行してからである。そのときにも上位の貴族たちから猛反発があったと聞く。加工品まで範囲を広げるだけの勢いは作れなかったのだろう。
「……ちっ。そんな阿漕な商売、いつまでも出来ると思うなよ」
王国法で出来ないのなら、領法でやるまでだ。
領主には領内の市場の取引価格をある程度管理する権限が与えられている。小麦の値段規制に上位貴族が反対したのもこのためだ。いくら領主の権限があると言っても王国法に背くような価格設定は出来ないからだ。
私は捨て台詞のようにそう呟くと、マリグナント商会を後にした。
小麦粉の高騰がここまで進んでしまっていることを報告せねばならない。
それと、可能であれば小麦粉の値段を領法で制限出来ないかという相談も。
◇
「……そうか、もうそんな価格まで……。よく知らせてくれたな。しかしギルバートよ。領法によって小麦粉の値段を制限するのはおそらくは無理だろう」
よく知らせてくれた、と言いつつも領主である父には驚いた様子は見られなかった。すでに報告は受けていたのだろう。それはいい。
「なぜですか父上!」
しかし小麦粉の値段規制が出来ないというのは納得がいかない。
「落ち着けギルバート。正確に言うならば、無理というより無駄なのだ。やっても効果はないはずだ」
「効果がない……? どういうことですか!」
王国法によって決められた小麦の値段は実際に守られている。小麦粉という抜け道を使われ有名無実化しているのも確かだが、それは我がアングルス領がマリグナント商会のような悪徳商会にいいようにやられているからだ。他の領地ではそこまで酷い事例は聞いたことがない。
いや、そうか。マリグナント商会は王国法にすら抜け道を見つけて不当な利益を上げているのだ。それが王国法の下に位置する領法であれば。
「……気づいたようだな。その通りだ。仮に小麦粉の価格に制限をかけたとしても、奴らは例えばパンの値段を吊り上げるだとか、小麦粉に混ぜものをして商品名を変えるだとか、法の目を掻い潜って同じことを続けるだけだろう。それにもし掻い潜る余地すらないほど厳格に法を定めてしまえば、逆に今度は一切小麦粉を売らなくなってしまうかもしれん。そうなった場合、困るのは領民たちだ」
「それは……そうかもしれませんが……。しかし流石に、小麦を売らないということはないでしょう。小麦の買い占めが市場の独占を招いている以上、それを止めるわけにはいかないでしょうし、買った小麦を売れないのなら奴らにとって損になるだけです。買い占める意味もなくなる」
「その場合、奴らは南のメリディエス王国に小麦を売るだけだろう。あの国には価格を制限する法はないからな……」
「なっ!? 我が国の小麦を勝手に他国に!? 他国との貿易は王国から許可を得た商会にしか認められていないはず……!」
「もちろんそうだ。しかしここはインテリオラの南端……。国境線もすべてが壁で隔てられているわけでもない。奴らの規模ならその気になれば小麦を持ち出すくらい訳もないだろう。それに奴らはおそらく……いや、今更か」
なんという奴らだ。
マリグナント商会の連中にはハナから遵法意識なんてものはないのだ。
王国法に表立って逆らってしまうと王都から王国騎士団がやってくる。その追求を躱すためだけに表向きは法を守っているだけなのだ。だから衛兵や騎士団の弱い我が領の領法など守るつもりはない。いつでも出し抜けると思っているからだ。
そして悔しいが、我が領の騎士団には王国騎士団のような力はないのは事実である。
もちろん往来で堂々と法を犯している者がいれば摘発するのは可能だが、隠れてこそこそやられては捜査して証拠を掴むのは難しい。
商会のゴロツキどもはそれをわかっているのだ。
「……くそ」
「……」
私と父は項垂れ、自分たちの無力さを呪った。
他の領地では、小麦を始めとする穀物を税の代わりにしているところもあると聞く。
しかしそれをするためには徴税側も穀物の価値を正しく知っておく必要がある。いかに小麦の最高価格が定められているのだとしても出来の悪い小麦ではそこまでの価値は出せないだろうし、その目利きが出来ないのであれば現金などで納税している他の者との間に不当な格差が生まれてしまうからだ。
アングルス伯爵家はメリディエス王国との貿易や交渉も請け負っているため、そうしたことに割く余力は無かった。故に納税は基本的に現金のみと領法で定めている。
ゆえに領内の小麦農家も一旦商人に小麦を売り、その売上から税を納めているのだ。
そして今やその商人もマリグナント商会に飲み込まれ、奴らの息のかかっていない商人はもう領内にはほとんど残っていない。
的外れな考えだとわかってはいるが、もし、アングルス領がマルゴー領のように魔物の脅威に曝されるような土地柄であれば、こんな小癪な犯罪など横行しなかっただろうに。
いっそどこからか魔物でも現れて、マリグナント商会の関係者を根絶やしにしてくれたら。
そんな領主一族としてあるまじき考えすら抱いてしまったのだった。
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