第16話「歪んだ痛み」
城の構造を把握するためと国王の寝室の場所を調べるため、その後も私は数日王城をウロウロした。
さすがに何もしないのもあれなので、例の薔薇の庭園の薔薇に「綺麗になあれ」と魔法をかけて回ったり、王子の愛馬のサクラの身体を拭いたりしてあげていた。マルゴーにも馬は多かったので、令嬢と言えども馬とのふれあいは慣れたものである。馬なんて、適当に身体を拭いて「頑張れ、頑張れ」と声をかけてやればすぐ元気になるチョロい生物だ。もちろんサクラにも毎日欠かさずこれをやってあげた。
その間、食事は城が用意してくれ、私がいない昼間のペットの相手は王子付きの侍女がしてくれ、着替えはユリアが用意してくれた。ドレスだけでなく部屋着や下着もくれたのだが、これユリア嬢の着てたやつなのかな。だとするとさすがにちょっと、何かに目覚めそうな気がしてきてしまう。
いやそれは駄目だ。私にはマルグリットという婚約者がいるというのに、そんな新しい性癖に目覚めるなど──いやいや、婚約者と言っても一時的なもので、あくまで方便にすぎない。私の新しい性癖の扉には何ら関与するものではない。
私がひとりで性癖の扉を開いたり閉じたりしている間も、当のユリアは何かと世話を焼いてくれていた。
さらに、そうしながら彼女は王子の素晴らしさを私に説いてきた。
王都近郊に現れた魔物の群れを騎士団を率いて討伐した話とか。
自らが囮となり、連続婦女誘拐事件の犯人集団を検挙した話とか。
「ちょ、ちょっと待ってくださいまし。婦女誘拐事件の……囮?」
「ええ、その通りですわ。マルグリット殿下は自ら女装をして囮役を引き受け、ノコノコと食いついてきた犯罪者集団をちぎっては投げ、ちぎっては投げ──」
「なんですのそれ超見たかったですわ!」
「あ、いえ、ちぎっては投げというのはゴシップ紙の見出しのアオリですけれども……」
そっちはどうでもいい。
私が見たかったのは王子の女装だ。
「そのゴシップ紙のインタビューにも、王子は確か『魔物の相手よりは楽しめた』でしたかしら。そんな勇ましいコメントを残されて……。まったく、婦女誘拐集団たちも見る目がありませんわね。いかにクオリティの高い女装をしていたとは言え、そのような男らしい殿下を女性と見間違うだなんて」
それはつまり裏を返せば、ある意味プロの集団の目からしても女性にしか見えない完璧な美しさだったということではないのか。
しかも一般的な貴族女性であるユリアをして「クオリティの高い女装」と言わしめるほどのものだ。
言うなれば、マルグリット王子ではなくさしづめマルグレーテ王女といったところか。
なにそれ超見たい。
あと、王子は普段メイクなどしていないだろうし、そうであれば王子にメイクをしたのはおそらく別の人間だろう。
その人物とも出来れば話をしてみたい。あわよくばお友達になりたい。
まあ、それはそれとして。
やはり、ユリア嬢はマルグリット王子に特別な想いを抱いているようだ。
彼について話す彼女の姿はいつにもまして可愛らしく、きっと、たぶん──この瞬間だけは、この私よりも美しいに違いないと思えるほどだった。
恋する乙女の破壊力は凄まじい。私も新しい性癖の扉を完全に開ききっていたら危なかった。
しかしユリアの例の微妙な表情からするに、彼女と王子との仲はそれほど進展してはいないのだと思われる。
これほど可愛らしい令嬢に好意を向けられているというのに何の反応もしないとは、王子はもしや女性に興味がないのだろうか。
一国の王子がそれで大丈夫なのかな。まあ私が案じるようなことではないのかもしれないけれど。
いずれにしても、将来的に王子と結婚することなどあり得ない私が王子に真剣に恋しているユリアに応援してもらうというのは、少々いたたまれないというか、他人事ながら脳が壊れそうになる気がする。
「……あの、ユリア様。私とマルグリット殿下の婚約は確かに認められましたが、まだ正式に書類が交わされたわけではありませんし、このまま結婚することになると決まったわけでは」
「ミセリア様……。まだそのようなことを……」
◇ ◇ ◇
ミセリア・マルゴーは美しい。
これまで私が見てきた中で、ダントツ一位と言っても過言ではないほどだ。
彼女に出会うまでは、この世で最も美しい女性といえば、第一王女か第二王女、そのどちらかしかあり得ないだろうと考えていた。
しかしミセリア・マルゴーと出会ってしまったことで、王女様がたを含めたこの世の全ての人類の美しさランクが自動的にひとつ下がってしまう事態になった。
そんな彼女でさえ、マルグリット王子と結婚できるか自信がないと言う。
これはわかる。わかりみが深すぎる。
なぜなら、他ならぬこの私もずっと同じことを考えて生きてきたからだ。
ただひとつ違うのは、私は不安に思っていた通りに王子の婚約者にはなれず、目の前の美しい少女はその資格を持っているということだけである。
突然現れ、横から王子の婚約者の座をかっさらっていったミセリア・マルゴーに、思うところは確かにある。こうして彼女の世話を焼き、王子の話を聞かせることで、自分の心の柔らかい部分にざくざくとナイフを突き立てているかのような、そんな辛さが無いとは言わない。
ずっと恋い焦がれてきたその立場に、持って生まれた美しさという才能だけで居座ってしまった彼女を見ていると、私の脳が壊れてしまいそうになる。
けれど。
その辛さが、その痛みが。
私の中の、開いてはいけなかったであろう扉を開いてしまったのだ。
(……ああ……私のマルグリット王子が……美しいミセリア様に奪われてしまう……。これまでそのためだけに努力をしてきた全てが……。父に無理を言って財務局の手伝いをしてきたことも、何かにつけて王子に話しかけられるよう手を回してきたことも、王子の姉である王女様がたの機嫌をとってきたことも……。全てが無になってしまう……。
ああ、なんて、なんて──ぞくぞくしますの……!)
私の心の柔らかい部分が悲鳴を上げている。
けれど、その悲鳴はこれまで聞いたどんな音楽よりも澄んだ音色で。
私の脳が壊れそう。
けれど、その痛みはこれまで口にしたどんな美食よりも甘露な味わいで。
少しずつ少しずつ、私はこのいけない遊びにのめり込んでいった。
そんなときだ。
奴が私に声をかけてきたのは。
〈──憎いでしょう? お前から王子を奪ったあの娘が……〉
その声は、私が日課の財務局の手伝いを終え、人気のない廊下を一人で歩いている時に聞こえてきた。
「だ、誰ですの!?」
〈憎いのでしょう? 突然現れ、王子の愛を攫っていったあの娘が……〉
「だから、誰ですの!? 人を呼びますわよ!」
辺りを見回すが、声の主らしき人間はいない。
そもそも、どこから話しかけられているかもわからないような、まるで肉声ではないかのような聞こえ方の声だ。声質から人物を類推しようにも、男の声か女の声か、大人か子供かさえもわからない。
というか、言っている内容もわからない。
文脈から察するに、あの娘というのはミセリア・マルゴーのことだろう。
しかし私は彼女を憎いとは思っていない。むしろ彼女が現れてくれたお陰で、他では味わえない快楽を知ることが出来たことに感謝しているくらいだ。
それに、ここは王城。王国で最も警備の厳重な施設のひとつだ。私やミセリア嬢のような特殊なケースを除き、王室の関係者と王城に勤める者以外は基本的には足を踏み入れることが出来ない場所である。
〈ふふふ……人を呼びたければ呼びなさい……。もっとも、誰を呼んだところで私の姿はお前以外には見えないけれどね……〉
謎の声は笑いながらそう嘯く。
「な、何を言って……姿を表しなさい!」
私以外には見えないというのなら、私には見えるということだ。
しかし声の主の姿は依然としてどこにもない。一体どこにいるというのか。
〈ふふ。気づかない振りをしているの? そんなことをしても、お前自身の心を誤魔化すことなど出来はしないわ〉
「誤魔化してなどいませんし、貴方の姿も見えませんわ! おかしなことを言うのはおよしなさい! 本当に人を呼びますわよ!」
と、そう言いながらも、私は一抹の不安を覚えていた。
これだけ叫び声を上げているというのに、誰もやってこないのはおかしい。この声の主が何か、人を遠ざけるような細工をしているのかもしれない。
となると、人を呼びたくともこれでは呼べるかどうかわからない。
〈ちっ、頑固な娘……。まあいいわ。私の声が聞こえている時点で、お前の心に何かしらの歪みや痛みがあるのは間違いない。ならば、多少強引でも──〉
「え、えっ、あ、ああ、あ……いやああああああああああああ!」
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