露草の栞
朝吹
露草の栞 前篇(上)
仏蘭西船から降ろされ、横浜の舶来ものを扱う商店に納められる白粉や香水を、
華族のご令嬢が通う女学校は、通学のお着物は普段着の銘仙しか認めておらず、「奢侈華美の風を戒めて専ら学業を勉励すべし」が心得となっております。不要なものは教場には持ち込めません。曄子さまは学校の門を出るなりこっそりと隠してお持ちになっていた舶来の品々を取り出して、ご学友にお見せになっておりました。令嬢たちは素敵のことを「おすてーき」と節をつけて仰います。
「さすがはお仏蘭西製です。おすてーき」
「この香。おすてーき。すみれの絵が描かれておりますが、日本のすみれとは違うのでしょうか」
公侯伯子男、公卿および旧大名が名称を変えたものが華族です。対して新華族のほうは御一新後、国家に偉勲があった者が列せられておりました。明治天皇崩御の折に殉死なさいました乃木希典陸軍大将は男爵を授けられたところからはじまり、末は伯爵さまとなっております。鈴白家は御一新でとくに活躍があったわけでもなく大名時代の石高も低かったものの中世からの名門で、子爵となった華族でした。
女学校にはわずかながら華族の位のない士族の女子もおりました。互いの素性を詮索することは行儀の悪いこととして不文律なのですが、宮内省が保護している華族の学生は授業料も免除されている中、お外から来られた方の机の上には学期のはじめに授業料を徴収する封筒がおかれておりましたから、誰が華族で誰がそうでないのかは一目瞭然でした。
華族の女学校ときくとさぞや箱入り娘ばかりと世間からは想われるようです。箱入は箱入ながらも、宮家の方やご病弱な一部を除けば武家の血をひく多くのご令嬢は運動好きで、ご闊達な少女が多かったように想います。人見絹枝さんと近いタイムを持つ走りの速い方も、流行り出したテニスで優勝された方もいらっしゃいました。昼休みと、二限目と三限目のあいだのお長休みには全員が外に出て運動することを規則づけられており、少女たちは一斉に運動場に出ていきます。縄跳びをしたり、巴合戦とよばれる赤、白、黄色に組み分けした鬼ごっこも盛んでした。家では口うるさく躾けられているために大人たちの眼がない学校では思い切り羽根を伸ばされていたのかも知れません。わたしは今でも、少女たちが満面の笑顔で運動場や、校舎の玄関前の馬車まわりをぐるぐると走り回って意味もなく歓声を上げていらしたことをありありと想い出せます。
その頃のわたしは高等女学校を出てはいたものの、名の知れた医師だった父はすでに亡く、さらには頼みにしていた長兄が急逝し、官吏として弘前に赴任している次兄ひとりに頼るわけにもいかず、母やこれからお金のいる弟妹のために女子高等師範学校を諦めて、教員認定試験を受けて尋常小学校の本科正教員免許を取ろうと考えているところでした。そこに、
条件はとても良いものでした。給金をいただきながら、資格試験の勉強をしてもよく、お仕事といっても十六歳になられる鈴白家の曄子さまの通学の付き添いをすればよいだけなのです。
当時、鈴白の奥様は胸を患われて転地療養中で、お屋敷にはご不在でした。そのため子爵さまは娘の曄子さまのためにも、歳の近い話し相手の御付がいればよいとお考えになったのだと想います。
鈴白子爵さまはわざわざ母とわたしをお屋敷にお招き下さり、「亡くなった医師には欧州留学の折に現地の医師にも分からなかった病をあてて命を助けてもらったのだから、こちらの
西洋館と日本館をあわせた子爵家は今なら大豪邸なのでしょうが、当時はそのくらいのお屋敷は華族ならばみなお持ちでした。藩邸址の近くに建てられたお屋敷の、お庭と邸宅の全てを観てまわることは時間のかかることでした。
女中のようであって女中ではないわたしは静かな日本邸宅の方に私室まで用意していただいておりました。いただいた室は二階のない、家屋から飛び出したような離れの一室で、勉強が出来るように六畳の間には文机も本棚も用意され、隅には鏡台もありました。
落ち葉に初霜のおりた冷える秋でした。わたしが来るのに合わせて室のストーブには火が入れられております。感激してわたしが室を眺めておりますと入り口の襖がひかれ、そこにこのお屋敷の一人娘の曄子さまが立っておられたのです。
「ごきげんよう。不足なものがあれば女中頭かお役所にね。お役所というのは家の会計の人」
ひと目で曄子さまだと分かりました。わたしが慌てて何かを云う前に、曄子さまが口を開きました。
「曄子です。
「はい。はい。よろしくお願い申し上げます。曄子さま」
「ご返答は一回。お父さまからは女中ではなく、お父さまの恩人のお医者の娘さんときいております。真珠をひっくり返して
それだけ云うと、来た時と同じように襖を閉めて行ってしまわれました。
二つ年下の曄子さまの初見の印象は「猫のようだ」でございました。しなやかそうな細いお身体に小さなお顔、細く編んだ三つ編みを揺らし、眸がきらきらしておいでなのです。外観どおり曄子さまは動作がはやくて、ご一緒するようになってからよく分かりましたが、ご自分のことはご自分でやるようにとのご両親の教えから何事も率先しておやりでしたから、二人でいると、とくにわたしにはやることもないのでした。
子爵家では欧州生活を取り入れてクリスマスを祝う習慣がありました。その年は奥様が療養中ということもあり小さな飾りつけだけでしたが、聖母さまの人形や雪の結晶のかたちをした美しい飾りを、わたしはいつまでも近くから見ておりました。子爵さまご一家が欧州に渡られているあいだ、曄子さまの六つ年上のお兄さまは日本に残って祖父母と家庭教師がご養育し、あちらでお生まれになった曄子さまは八歳になってから日本に帰ってこられた帰国子女でした。お兄さまは家に仕える者たちから「若殿」と呼ばれおりました。
「珠真、羽根付きをやりましょう」
鈴白家に上がってほどなくしてお正月がめぐってまいりました。曄子さまとは身の丈があまり変わりませんでしたので御下がりの晴れ着をいただきました。子爵さまは娘が「そうしたい」と云うことを何でも叶えておられ、着せ替え人形のようにわたしに着物や帯、洋服をあてては「珠真は大人らしい色や柄が似合うわ」と熱心になる曄子さまを甘やかしておいででした。
曄子さまに誘われたわたしは庭に出て、振袖姿の曄子さまと羽根付きをいたしました。最初こそこんこんと軽く羽根を渡し合っていたのですが、「もう少し後ろにさがりましょう」と曄子さまが提案されて、間を空けたとたん、強い音を立てて羽根がわたしの方にすっとんできました。
慌ててすくい上げますと、今度は反対側に打ち込まれてきました。それから幾たび羽根が二人の間を飛び交ったことでしょう。不意に吹き付けてきた北風におされて、横にそれた羽根の
「珠真が素晴らしいものだったね」
「これなら、曄子を安心して任せられるね」
大笑いされておられました。その途端にわたしは恥かしくなりました。ここは曄子さまに華をもたせて、ほどほどのところで負けて差し上げるべきだったのです。「落としてはならない」の一念で懸命に羽根を追った結果、曄子さまは右に左にと強く打ち返してわたしを翻弄なさる、わたしは羽根を受けた後は正確に曄子さまのお手元に羽根を返すというかたちになり、見ている眼には、わたしのほうが丁度この頃はやり出したテニスの先生のように、よほどの達者に見えてしまったのです。
遊びに使うにはもったいないような押絵の羽子板でした。片面の板から浮き上がって見える歌舞伎のお姫さまは、夜になると板から離れて、小さなからだでお屋敷の廊下をしずしずと歩いている気がするほどでした。
この羽根付きの一件以来、曄子さまは誰かにわたしを紹介なさる時には、「珠真は羽子板が得意なのよ」と必ず添えられるので随分と閉口いたしました。
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