第34話

一日経った頃漸く、わずかな晴れ間が見えた。高かった波も落ち着きを取り戻しつつある。

一番海が荒れたのは夕方から夜中にかけて、アゼルとザベル二人がかりで船を操り、なんとか船を安定させることができた。

時化で船が大きく流され、今どのあたりにいるのか見当もつけられないが、今日にでもユーテル達と合流はできるはずだ。そうルトーに伝えアゼルは海下を見て絶句した。

「兄貴?」

下に何があるのかとザベルも船縁から海を覗く。

そこには昨日から船を狙う海竜の姿があった。全長7~8メートルはありそうな蛇竜の影が、ぴったりと船に付いて来ている。

「まだいたのかよ…。」

「空腹らしいな。体当たりでもされたらひとたまりもない。」

かといって速度を上げて撒こうとするのは無謀すぎる。相手の遊泳速度の方がはるかに上なのは間違いない。

「せめてユーテル様と合流できるまで、大人しくしていてくれればいいが。」

「…それもそうなんだけど、兄貴の痣昨日の嵐でますます広がってるけど、急に倒れたりするなよ。」

アゼルの毒痣はすでに顔の半分を覆っていた。まだ身体の異変には現れないが、早急に正しい治療を行わなければ急死する危険が高い。

「…気をつけるつもりはある。」

「ならいいけど。」

何をどう気をつけるのかは分からないが、命の危険を自覚していてくれれば無茶はしないだろう。と、思うものの、安堵など出来ないが一応分かった体(てい)の返事をする。

「ザベルも無理に動いたらダメなんだよ。二人ともじっとしてて。…あの海竜、襲ってくることもあるの?」

嵐の中、船を安定させるため二人は命を削って動き回っていたのだ。アゼルは毒痣が広がり、ザベルはわずかに傷が開いた。大事には至っていないが、いつまで元気でいられるのか、ルトーは不安が拭えない。

「ええ。多分ラハブっていう竜ですね。…船縁に付いたザベルの血の匂いでも追ってきてるんでしょう。比較的おとなしい種ですが、空腹となると少しまずいか。」

「そうなんだ…。」

「…俺のせいみたいな言い方しないでもらえる?なんなら先に討ち取っておくか。」

このままではいつ船を転覆させられるか分かったものではない。そうなる前に追い払えればその方がいいというザベルの提案だったが…。

「駄目だよっ!危ないよ。」

ルトーの猛反対に遭ってしまった。

「だけどさ、ひっくり返されたら終わりだろ?ヘマしないから行かせてくれよ。」

海に投げ出されたら、さすがのザベル、アゼルもルトーを守る余裕があるか自信は持てない。先に攻撃できれば、うまくいけば反撃は受けなくてすむ。

アゼルも同様に判断したようだった。

「だったら俺が行く。ザベルはこれ以上傷が開くような真似はするな。」

「いやいや、兄貴の方がヤバい状態じゃねえか。行くなら俺だ。」

「俺の方がヘマはしない。」

「その根拠は何なんだよ。」

兄弟喧嘩を始めそうな二人に、ルトーは慌てて声をかける。

「今そんなこと言ってるときじゃないでしょ?!二人とも行っちゃダメ。」

「しかし、このままでは食われるのを待つだけですよ。」

「…何もしてこないかもしれないよね…。」

「だったらこんなにピッタリついて来ませんよ。…ルトー様、貴方に少しでも危険が及ぶ可能性がある以上、放置はできません。」

「……。」

アゼルが言った矢先、船尾が小さく揺れた。海竜の尾が、水面上に現れて飛沫を上げる。

かと思いきや、頭で船頭を突いた衝撃が小さな船を襲った。

「まずいっ。暴れ出したか?!」

言うが早いか、アゼル、ルトーを船上に残し、ザベルは海に飛び込んだ。

「ザベルっ?!」

飛び込んだザベルを見て、アゼルもすぐさま行動する。船の転覆を避けるため、船を海竜のラハブから遠ざける。ザベルからも遠くなるが今は仕方ない。

「ルトー様、しっかり掴まっててください。少々荒い操船します。」

「で、でも、ザベルはっ?!」

「少しくらいなら大丈夫です。」

そう信じて、アゼルは必死に桿を握った。

一方で、海中に飛び込んだザベルは船からラハブを引き付けるために自分で傷を開いた。血の匂いに反応したラハブはすぐにザベルに向かい、突進してくる。得意の投擲系の武器は使えないため接近戦になるが、相手の歯をかわし様にラハブの鼻面に生えている長い髭に捕まって目を小太刀で突いた。激しく身を捩るラハブから一度離れ、ルトー達の乗っている船の位置を確認する。

(船は離してくれたか。)

十分離れてはいるが、速い遊泳速度と長い体躯を持った相手なだけに油断はできない。

視覚を片方奪われたとはいえ、ラハブは嗅覚を頼りにザベルに襲いかかる。一撃で去ってはくれないようだ。

(仕留めるしかないな…)

息も長くは続かない。次の一撃に懸ける。

襲ってくる大きな口の中に小太刀を喉深くまで突き刺した。ラハブの血が海中に拡散し、視覚は悪くなったが、刺した小太刀はそのままに海水面に浮上する。ラハブの動きが鈍くなったことを確認し、船に向かって手を上げた。

「ザベルっ!!」

ルトーが小さな腕でザベルを引き上げる。短時間であったものの、海中での戦闘は身体に負担が大きかったらしく甲板に戻ったザベルは立ち上がれなくなってしまった。

「…さすがに血が足らねえ…。」

「ザベル…ザベル…っ。」

ルトーの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。

「ルトー…?兄貴は…?」

「…さっき、倒れちゃった…。」

「……そうか。」

なら、自分がぶっ倒れている場合ではない。

ふらつく足と頭をほとんど気力で奮い立たせ、アゼルの様子を見る。意識は完全になくしていたが、かすかに脈は残っていた。

「死んだわけじゃねえみたいだな。」

「でも、このままじゃ…。」

もうすでに一刻を争う事態であることは間違いない。かといって治療できる設備のない船では為す術もなく、アゼルの生命力を信じてただ祈るだけだ。

「…コルガ方面に向かおう。…ユーテル様達の船に会えるはずだ。……ルトー、できるか…?」

「うん、おれやる。」

「じゃ、任せたぞ。……俺は…少し……寝る。」

「ザベルっ??」

流しすぎた血のせいで、ザベルもついに意識を保てなくなってしまった。

海も今日は穏やか。ユーテル達の船に合流できるのはそう先じゃないはず。

涙を拭きとり、ルトーは海を睨みつけた。

メルクリウスが帰って来てから、船内の騒ぎは大変なものだった。

速度を限界まであげ、物見を増やした。船員達はまるで取り憑かれたかのように眠らずに作業に徹している。事情を聞けば当然というか、メルクリウスに託されたのは詳細の書かれていない短い手紙で明らかに事件性を帯びていたからだ。セレーヌはいつもの明るさが完全に失せていたし、ルーヴァも顔色が悪い中、物見に混ざって弟の乗る小舟を探していた。船長や副船長、ユフィールもいつになく落ち着かない様子だ。

ホリンも水平線に目を凝らしながら船を取り巻く不穏な空気に身震いした。

ただ、違和感はある。クルーの大半が必死に船を操ったり、ずっと望遠鏡を覗いていたりする中に、訳が分からないまま行動する人間もいた。その温度差は何なのか…。

「ホリン。」

声をかけたのはユフィールだ。いつも険しい黄金の瞳が一層強く煌めいている。

「なんか落ち着かなくて悪いな。あんなに落ち込むセレーヌを見るのは俺も久しぶりだよ。」

「俺は…何事か飲みこめてないんですけど…。」

「そんなのは俺もだ。ともかく、漂流中のルトーを拾わないことには事情は分からないだろう。それまで我慢してくれ。」

「我慢とは思いませんけど。……そのルトー、皇子ですよね?合流すれば済むような単純な話じゃないでしょう?」

「…じゃないだろうな。確かに、手紙を書いたのがルトーってのは引っかかる。単なる近況報告じゃあるまいし、大事なことなら10歳のルトーよりウォルカが書くようなもんだろうに。」

「ウォルカ皇子は一緒じゃないってことですか?」

「俺はそう思ってる。ウォルカは足が悪いから、狙われる可能性は高い。」

「まさか、殺されたなんてことは…。」

「ないとは言い切れないが、少なくともルトーは死んだところを見たわけじゃない。もしそうなら手紙に書くだろう。だから生きてると信じるしかないな。」

水平線に目をやったままユフィールは煙管を取り出す。昨夜から気を休めていないのだろう、いつもより煙の匂いが強く香った。

(幼い弟に足の悪い弟か…。)

離れている間もきっと、船長だけでなくセレーヌやルーヴァも心配が尽きなかったに違いない。

「……俺こんなに首つっこんでいいんですかね。」

「今更?…というか、ホリン自身はどうしたいんだ?ここまで巻き込んでおいてなんだけど、単に傍観してるだけでも構わないだから。」

「…ユフィール先生や船長が許してくれるなら、力にはなりたいですよ。」

「じゃ、思う通りに動いていいんじゃないか?」

と、そこまで話したところで、急に船を先導していたメルクリウスが鳴いた。同時に物見部隊が騒ぎ出す。

「ユフィール、ボート出すぞ!ついて来てくれ。」

血相を変えてユフィールの元にきたのはフェリスだ。

船には緊急用にモーターのついたボートが積んである。居場所さえ分かればこの船で行くよりもはるかに速い。

「いたのか?!」

「あぁ、見えた。怪我してるかどうかがさすがにわからない。すぐに診てくれ。」

「わかった。」

バタバタと他の船員も動く。メルクリウスがスピードを上げて飛んでいくのを見ながら、ホリンも緊張を高めた。


すぐに船に上げた少年は、セレーヌとルーヴァに抱きつき堰を切ったように泣いている。医務室に運ばれていくのはそっくりな顔の少年二人。ユフィールが船員に指示しながら治療の準備を進めていた。

「セレーヌ、悪いが手伝ってくれないか?」

「あ、はい。あたしにできることなら…。」

「アゼルが毒にやられてる。解毒剤調合してくれ。」

「分かりましたっ。」

セレーヌは薬学に詳しい。医務室にある薬はセレーヌによる調合のものも多く、ユフィールの手伝いをすることは珍しいことではないのだ。セレーヌはルトーの頭を撫でるとすぐに医務室へ向かう。

「ユフィール先生…、二人とも死なないよね?…大丈夫だよね?」

涙を眼いっぱいに溜めた顔で、すがるようにルトーはユフィールの腕を取った。碧と深紅のオッドアイは涙で一層強く、鮮やかに光る。

ユフィールはルトーの目元をぬぐってやりながら小さな頭を撫でた。

「大丈夫。明日には目を覚まして話せるようにするから。…ルトーもよく頑張ったな。」

「兄ちゃんなんだよ…。おれにとっては、アゼルもザベルも兄ちゃんなんだよ…。」

「うん。分かってる。二人は俺に任せて、ルトーは少し休んで来い。ルーヴァ、何か食わせてやれ。」

「はい。…ルトー、行こう?」

ユフィールは医務室へ、ルトーとルーヴァは一度食堂へ行くのを眺めてホリンは船長を探しに歩き出す。戻って来てすぐ、船長室へ行ったらしい。

(で、この後どうするんだ?)

ガント副船長は輸血の為すでに医務室へ行っている。この後の進路を聞くのはフェリスしかいない。

ユフィールの予想通り、ルトーと一緒にウォルカはいないようだった。一緒にいたのはガントの息子達だと分かったが、一体彼らに何が起きたのか、まだ事情は分からない。完全に意識を失っている二人に対して、ルトーは無傷なことにホリンは舌を巻いた。

(すっげえ大事にされてるんだなぁ…クラーニ一族。)

すでに国は堕ち、なおも懸賞金が懸けられている中生き延びてこれたのはこういう臣下の献身的な支えなのだろうが、臣下にそうまでさせるクラーニの一族は他の王族達とは明らかに異質のように思えた。

楼の階段を上るとフェリスがちょうど出て来たところだった。しかしトレードマークの長髪と顔面の布はない、ユーテルの恰好をしている。船の中では初めてではないか。

「ホリン、ちょうど良かった。話があるんだけど、エーディンはいないか?あとルーヴァとルトーは?」

「あ、姉さんならキッチンにいると思います。ルーヴァ達は食堂に…。…その格好で大丈夫なんですか?」

姉は今日はセレーヌの代わりに家事全般こなしていた。眠らずに作業している船員に夜食を作って運ぶといったことを繰り返しやっている。

「そうか。じゃ、ホリンも食堂に行っててくれ。エーディンも疲れてるだろうけど食堂に来てもらいたい。…これはまぁ、今までの恰好はもう必要なさそうだからな。」

「わかりました。」

コルガで見たユーテルとも違い、左右の眼の色が違っている。ルトーと同じオッドアイだが、鮮やかな紅玉ルビーのような左目は人の眼とは思えない強い輝きを放っていた。

「俺は後から行くから。」

「あ、はい。」

ユーテルが慌ただしく去っていく。紅い眼は鮮烈な印象を脳に刻みつけたかのように焼きついた。

「すごい眼…。あんなの一度見たら忘れないな。」

眼を見られたら魂を抜かれそう、とはさすがに言い過ぎかもしれないがこちらから眼を逸らすことはできないほどに引き込まれる。

「なんていうんだっけ、あういう強烈な眼…。」

独り言を呟き、ホリンは食堂に足を運ぶ。人を魅了する力のある瞳のことを思い出しかけたが、随分昔に聞いたようでそれは思い出せなかった。

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