第33話
一体、どれほどの時間が過ぎただろう…
船に積んでいた常備薬の一つである遅毒剤はもう底をついている。あとは毒がまわり切るのが早いか、その前にユーテルと合流できるか、賭けのような時間をすごさなければならない。
「…まずいな。兄貴、時化るぞ。」
集落からルトーを連れて脱出したアゼルとザベルは、交替で睡眠を確保しながら海を漂っていた。
事件から丸二日経った早朝、それまで幸いにも穏やかだった海がついに荒れ出す。
「時化か…。海竜も獰猛になるな。ザベル、傷は大丈夫か。」
「俺は平気だけど、兄貴のほうがやばいだろ。遅毒剤はもうねえんだから、大人しくしてろよ。」
「…そんな場合じゃない。」
次第に高くなる波を上手く読んで船を操る二人だが、海中には動きが活発になった肉食海竜の群れが見えた。アゼル、ザベルはともかくルトーが放り出されては命はない。
怪我をしていようが毒がまわろうが、気を抜くわけにはいかないのだ。
「アゼル、ザベル!!」
ルトーも朝早くから二人の手伝いをしていた。小さな身体でやれることは限られていたが、それでも懸命に動き回る。雨が降りそうな曇天の中に小さく飛んでくる影が見えた。大きく広げた翼は鳥ではなく見覚えのある小型の飛竜だった。
「メルだ!!」
「メル?!」
ルトーがメルクリウスに向かい、大きく手を振る。メルクリウスがルトーの姿を捉えると、一直線に向かってきた。
大きく一声鳴くと、口で首元のポケットを示す。中に入っていたのは短く”コルガからシヴァの森へ向かう“と書かれた一文だった。3日前の日付と差出人であるユーテルの名前が書かれている。
「コルガからなら後一日か二日かかるな。…ルトー、それまで頑張れよ。」
「うん…返事書くの?」
「あぁ。まずはこの小せえ船から助けてくれないと、じきに海竜の餌だ。ルトー書くか?」
「なんて知らせればいい?」
「‘シヴァの森から西の、西方南海上に漂流中’」
西方南海は島国であるタゴルダの南方に広がる海である。地図はウロードル公国を中心にしてタゴルダは西方に位置している。そこから南の西方南海に対し、タゴルダから北西にはボアーノ、ガーラマルダの小さな大陸と、さらに北に西方北海がある。ウロードルから東には大きな中央大海があり、さらに東の北寄りに大きな大陸がある。この東の大陸の南に東方海が広がっている。
これら四大海洋の中でも西方南海は暖流が多く流れており、獰猛な海洋生物が特に多い地域だ。
まともな装備を備えた船でなければ、航海は厳しいものとなる。
「ウォルカ兄さんのこと、書かなくていいの?」
「そうだな…。知らせておいた方がいいかも…。」
ザベルがそう言った途端、大きく船が揺れた。まだ朝だというのに空は薄暗く、波はますます高くなっていく。
「…いや、すぐにメルに飛んでもらおう。助けに来てもらうのが先だ。」
「う、うん。」
すぐに紙を折ってメルクリウスのポケットに入れる。その時、ちょうど雨が降り始めてきた。
「メル、急いでユーテル兄さんのところに持って行って。」
ルトーがメルクリウスの眼を見てそう言うと、一声鳴いて飛び立っていった。
気難しいメルクリウスだが、不思議なことに子供のルトーの言うことは大人しく聞く。自分が世話をしているという気になっているのか、彼にとっては子守の一環なのかはわからないが。
「…誰にでもああなら可愛いのにな。」
ザベルが小さくぼやいた。
「ザベル、雨がもっとひどくなりそうだ。ルトー様と一緒に中に入っていろ。」
メルクリウスが来ている間もアゼルは波と戦っていた。その間にも雨は大粒になり、身体を濡らしている。
「おれ大丈夫だよ?」
「だってよ。」
「いけません。足場が滑りやすくなっています。海へ放り出されたら、助けに行く間もなく海竜に食われますよ。」
「だってさ。」
適当な相づちをうつザベルをアゼルが睨みつける。
一見ふざけているかのようなザベルの言動はルトーの不安感を緩和する効果があるらしいということはアゼルも承知している。承知はしているが今の状況ではやはり解せない。
「というわけで中行くか。兄貴、もっと荒れるようなら加勢するからな。」
海下では大きな海竜の影が船について来ているのが見える。波に攫われ、海に飛び込んで来るのを待ち構えているのだ。
その様子を目の当たりにしては、ルトーは言うことを聞くしかない。
「わかった…。気をつけてね。」
とは言ってみたものの、遅毒剤の効果が切れたアゼルの痣は広がり続けておりルトーにとってはアゼルの命の方がよほど危険だと思っていた。しかしそれを今言っても、アゼルは大丈夫と言い張るだろう。ザベルも今は血が止まっているが、傷が開きでもしたら致命傷だ。ならば少しでも彼らの負担を減らすだけだ。
「単なるスコールだといいんだけどな。ルトー、少し揺れるけど我慢してくれよ。」
「ん…。」
船の揺れは少しなどというものではない。バランスをとって立つのがやっとのなか、ルトーは屋内へ入った。
「でも、一人で大丈夫なのかな…。」
「俺より兄貴の方が船の扱いは上手いからな。邪魔しないほうがいいだろう。」
「ね、二人はいつの間に船の動かし方覚えたの?」
ルトーの記憶ではほとんど二人とも自分やウォルカにつきっきりだった。戦闘もだが、特に訓練している姿は見たことない。
「ガキのころ。あとは独学っつうか、本で一通りのことは覚えたかな。」
「そんなことで?!」
「3つ子の魂なんとやらだな。一度身体に覚えさせたことはなかなか忘れねえんだよ。」
「…ふうん…。」
「それより、船酔いは大丈夫か?かなり揺れるから無理しないで横になっていろ。酔い止めの薬ならまだあるしな。」
ルトーはあまり船で移動した経験がなく、特に荒れた海上で体調が悪くなっていた。そのことに感づかれないようにしていたのに、さすがというべきか、ザベルに隠しごとはできない。
「薬は、いらない。」
小さな寝床に横になったルトーは睡眠不足のせいもあり、瞼が重くなるのを感じた。
船は大きく揺れて不快な中、頭を撫でられる心地よさにさらなる眠気に誘われる。
(おれだけ寝るわけにはいかないのに…)
双子の兄弟が必死に自分を生かそうとしてくれている。温室で育てられた自覚はあるのにそこから抜け出すことがまだできない。
急く心とは裏腹に、ルトーは意識を手放した。
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