絶望の味
肆伍六 漆八
第1話
絶望の、味。それは “無”だと、俺は思う。
いつも通りの毎日、そのはずだった。
玄関の鍵を開ける。ワンルームマンションの扉が開いて、だらしないサラリーマンの左足を受け入れる。
「?」
俺は異変に気付いた。いつもは鍵を開けた音で、ペットの“ザラ”が迎えに来るのだ。そんで散歩に急かすもんだから、こうやってドアを少しだけ空けて、身体を横にして入る。だが、今日はそれがない。
「ザラ?」
ワンルームマンション、一人暮らし、犬。その答えは生涯独身。俺はそれでもいいと思っていた。上京祝いに両親が、寂しくないようにと買ってくれた子犬。俺は最初、世話も躾も面倒で、垂れ流される糞尿に何度も苛立った。
だけど、仕事で大ポカして帰った日、俺は彼女の暖かさを知った。涙を流す俺の顔を舐め、何も言わずに傍に寄り添ってくれた。
その時ようやく俺は、ザラの“飼い主”になったと、今では思う。それからは散歩も毎日して、ブラッシングも欠かさなかった。文字通り家族だと、思った。
「ザラ?」
彼女は冷たくなっていた。上京から十年余り。早めの寿命なのか……わからない。だが、事実を受け入れることはできなかった。
俺は涙を流し、嗚咽を漏らしながらかかりつけの獣医に連絡をした。
到着を待つ間、汗をかいたビールを飲みほした。味はしなかった。
それから幾日かして、俺は鍵屋に足を運んだ。
ザラの墓に、部屋の鍵を供えようと思ったのだ。
“いつでも帰ってきて”
なんて、三十路が考えるセンスに自嘲したが、スッキリする方法の一つだと、自分ではわかっていた。
「はいよ、お兄さん」
物思いにふけっている間に、それこそあっという間に合鍵が出来た。以前鍵を無くした時、鍵交換をして、合鍵を作って……苦労した記憶が蘇る。それに比べたら随分早い。
「早いでしょ? 一度作った鍵は、手が覚えてるんでさぁ」
「それは凄い。職人さんですね」
よく喋る鍵屋だなと、ただそう思った。
ザラの葬儀も済んで、いつもの散歩道を歩いていると、見覚えのある女性が反対側からこちらへと歩いてきた。
「どうも」
「あ、どうも」
確か、ロビンちゃんの飼い主さんだ。ザラも彼女には懐いていた。でも今日はいつもと違って連れていない。
「ロビンちゃんは……?」
俺がそう聞くと、彼女は泣き出してしまった。まさかと思ったが、彼女もそうなのか。
泣き止まない彼女をなだめながら、家まで送りますと伝えると、彼女は嬉しそうに、俺に微笑みかけて来た。
「優しんですね。思ってた通りです」
屈託のない笑み。俺より一回りくらいは若いだろうか。顔もスタイルも良いなんて雑念、最初の頃に捨てたつもりだった。だが今の俺には、彼女がなぜか魅力的に見えてしまっている。
「家まで送るなんて、無粋ですよね。どこか、都合がいいところまで、」
「大丈夫ですよ」
彼女が向かった先は、俺のマンションだった。
「君も同じ?」
「そうなんですよ! でも、知ったのはつい最近で、今更言うのも変かなと思って……」
「こんな偶然、あるんですね」
俺は上司からの着信が鳴る携帯を鞄にしまった。
若い男女。ペットを失った傷心の男女が、文字通り一つ屋根の下。俺達は、流れるようにして、お互いの寂しさを何かで埋めるように、身体を重ねていた。彼女の体を貪っていた。
何度か鳴った携帯の事なんて、頭からどこかへ消えていた。
翌朝、俺は飛び起きた。勢いとはいえ、ご近所さんと……感想はと言えば“良し”だが、一線を越えてしまったこと、何よりそれが理性を伴わない状況であったことに恐怖した。
「ちゃんと、しなければ」
自分に言い聞かせた。
「あれ?」
だが、ベッドには彼女の姿は無かった。書置きも無く、そういえば連絡先も交換していない。
男としてどうかとも思ったが、念のため財布を確認した。しかし、誰かが触った形跡もない。
「一応、もしこのままだったらカード会社に連絡だけ入れておくか……」
口座残高も少し不安で、鞄から携帯を取り出す。電池が切れていた。それだけ着信があったのか、全く気が付かなかった。
着信の番号は三種類もあった。一つは上司。もう一つは獣医、そして鍵屋だった。
鍵屋に折り返す。
「あぁよかった! お兄さん、早く鍵取り換えた方がいいよ!」
「え?」
「あの鍵、妙に速くできたろ? あの合鍵作るの三回目だったのよ、俺さぁ」
「それって?」
「こっちも記録は残してるけどさ、ずいぶんと綺麗なお姉さんだったよ。二回目、頼んできた人。最初はてっきりお兄さんの彼女さんかと思ったけどね、調べてみたらその子、今年三回、別の鍵を作ってんのよ」
獣医に折り返す。
「ザラちゃん、先生が気になって血液サンプルを採ってたんです。検査結果が今日届いて……多分、毒だろうと……」
それから俺は彼女を探した。ザラの事なのか、それともあの肌の忘れられないからなのか、探す理由は自分でも分からない、そう思い込むようにした。
絶望の、味。それは “甘美”だと、私は思う。
絶望の味 肆伍六 漆八 @shi_go_roku
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