34.最期。

 ‡


 開胸して露わになった心臓に浮かぶ、翡翠ヤーデ心臓烽戈球体ハート・スフィアと向き合ったセツナは、かつてない落ち着きぶりに自分自身驚いていた。


 手術する指先が軽く、烽戈球体スフィアの文字列も直接頭に飛び込んでくるように理解できた。


 すでに心臓が止まっていることで、烽戈球体スフィアの動きも静止していて、それが返って手術しやすくさせてくれた。


(——今度こそ助ける)


 波一つ立たぬ水面のような心境ながら、強い決意に突き動かされていた。

 かつて救えなかった兄や、あのときの患者と同じ轍を踏むようなことは絶対にしたくなかった。


 前回までとは違い、今回は心臓が停止したばかり。しかも翼族フィングよりも烽戈球体スフィアによる手術が反映されやすいとされる旅人族ノマドの身体だ。自分がしくじらなければ、心臓を再鼓動させることはできる見立てだ。


(でも、最鼓動後も問題ね……)


 たとえ心臓が再び動いたとして、次は烽戈ふかの暴走によって焼かれ続けた烽戈ふか脈や器官の治療を施さねばならなかった。


 この先に待っているリスクを計算し始めている自分に気付いて、心臓烽戈球体ハート・スフィアへと意識を集中し直す。なによりもまず心臓を治すことに全力を注ぐべきだった。


 複雑な烽戈ふか印の式列から、呪いによって変化、損傷した箇所を的確に探り当て、ウィズの烽戈ふかに馴染ませた自らの烽戈ふかで書き足すことで修復を図っていく。


 誤った烽戈ふか印を書き足すことはもちろん、その烽戈ふかの質さえ僅かに狂えばウィズの心臓が動くことは二度とない。針の穴に糸を通すどころではない集中力を要した。


 瞬きも忘れて、忘我の境地で治療を進めた。


心臓烽戈球体ハート・スフィア、修復完了……」


 自然と呟きが零れた。


 あとは再鼓動用の烽戈ふかを流し込むだけだ。


「再鼓動烽戈ふか印、投入」


 指先で中空に烽戈ふかの式列を描いた。人差し指ほどの長さの、琥珀色アンバー烽戈ふか印だ。祈りを込めて、それをウィズの心臓烽戈球体ハート・スフィアへ向けて放った。


 琥珀色アンバー烽戈ふか印が、翡翠色ヤーデに変容して溶け込むのを固唾を呑んで見守る。


 烽戈球体スフィアが、脈動するように一度輝いた。

 次いで、止まっていた心臓がひとつ大きく鼓動した。


 セツナの施した烽戈ふか印が作用した証拠だ。治療が上手くいっていれば、このひとつの鼓動を呼び水にして再鼓動し始めるはずだ。


 一瞬の間が永遠のように感じられた。


「お願い……。ウィズ、帰ってきて……!」


 切々としたこの願いが届くことを信じた。


 そして。


 ——ドク……。


 わずかに心臓が動いた。


 ——ドクン、ドクン。


 その動きは次第に強くなっていき、沈黙していた心臓烽戈球体ハート・スフィア翡翠色ヤーデの輝きを放ち、烽戈ふか印がなめらかに流れだし始めた。


 セツナは呆然とその光景を眺め、やがて達成感の奔流にさらされて全身が震えた。


「——おかえり、ウィズ」


 胸中にあふれる喜びが弾けんとするのとは裏腹に、ひどく優しい一言だけが零れた。


 ようやく言えたという感慨があった。


「やったな」


 背後から聞き慣れた声がした。見ると、久遠がシエルの身体を支えて立っていた。


「久遠くん! 身体は大丈夫なの!?」


 つい先ほどまで心臓の痛みにもがき苦しんでいたとは思えない朗らかさでいる久遠に、セツナは驚きの声を上げた。


「シエルが治してくれた」

「シエルさんが……?」


 シエルが医療系の烽戈ふか術を使っているところを見たことはなかったが、あれほどの術を駆使する旅人族ノマドなのだ。


 きっとセツナの知らないような術で久遠を救ってくれたのだろうと思った。


「ありがとうございます! シエルさん……!」

「まるでこれの保護者だな、嬢ちゃんは」


 シエルは穏やかに苦笑を零して、

「ウィズはどうだ?」

 一転して真面目な顔になって尋ねた。


「心臓は再鼓動させられました。あとは損傷した臓器や烽戈ふか脈の治療です。……ただ完全に治療するのは難しいかもしれません。強い烽戈ふかを使い続けたせいで全身ぼろぼろ……」


 治療に戻ったセツナはシエルに客観的な現状を伝えているが、その声はまだ死んではいない。絶対にウィズを助けるという強い意志は微塵も曲がっていなかった。


「いや、もう大丈夫だ。ありがとう、嬢ちゃん」


 一瞬なにを言われたのか分からなかった。諦めの言葉とも思えたが、シエルの声には達観も落胆もなく、ただただ安堵が滲んでいた。


「シエルさん? 何を言って……」

「心臓さえ動いていれば、俺の術で時間を巻き戻せる」


 隣に膝をついたシエルの表情はかつて見たことのない穏やかなもので、セツナは息を呑んだ。


 ——これまで何人も見てきた、死を受け入れる覚悟を抱いている顔だった。


 それはセツナが忌み嫌うもののはずだったが、今となりにいる男のそれは少し違っていた。諦念から命を捨てるような投げやりさは微塵もなく、ただ最期に命を謳歌しようとするようだった。


 思わず、背後で佇んだままでいる久遠を見た。

 その表情がひどく寂しげでいることで、セツナの予感は確信へと変わる。


 はたして、横たわるウィズの身体を中心に、四人を包み込んで有り余る大きさの烽戈ふかの球体が出現した。

 翡翠色ヤーデ烽戈ふか印が無数に中空に漂って、複雑かつ美しい烽戈ふか術を次々と編み出していく。


 まさに翡翠色ヤーデの光の空間で、セツナは自然あふれる大地の風を感じた気がした。久遠も同様のようで、驚きを隠すこともせずこの空間に見惚れている。


 これはきっと、シエルの故郷である旅人族界エル・ノマドに吹く風だ。

 その確信が湧いて、セツナはどうしようもない望郷に駆られた。すでに忘れてしまったはずの故郷や兄のことが思い出されて、泣きそうだった。


 やがて、刻一刻と複雑さを増していた烽戈ふか印たちが、続々とウィズの身体に飛び込んでいった。外傷がみるみる治癒していく。ずたずたになっていた臓器や烽戈ふか脈までも治っているようだ。


 翡翠色ヤーデの光が次第に弱まり球体が小さくなるにつれて、シエルの息が荒くなり、死相もあらわな様子になっていく。


「シエルさん……」


 今のセツナには、命を投げ出そうとするシエルの行為を咎めることができなかった。目の前にいるのは、死に直面しながら微塵も後悔を抱いていないような満足げな一人の男であり、息子の未来を守ることを誇る一人の父親の姿だった。


 隣にきて腰を落とした久遠が、セツナの肩を優しげに抱き寄せてくれた。

 抱擁するようであり、互いを支え合うような感じでもあった。


 四人が入るにはぎりぎりの大きさに翡翠色ヤーデの空間が狭まった。


「……医療隊」


 ぽつりとシエルが呟いた。

 そしてセツナとクオンを見つめて、ひどく優しげに微笑んだ。


「お前たちの隊が、戦場の常識を覆す日がきっとくる。それを見届けられないことだけが心残りだ」

「……誰が医療隊を作ると言った。言い出したのはこの人だ」


 涙を零して何も言うことのできないセツナのかわりに、久遠はそんな憎まれ口を叩いた。


「いや、お前はやるね。俺が死んだら、この隊の隊長はお前だからな」

「ほんとうに勝手なヤツだ……」


 久遠はそれ以上何も言わなかったが、シエルは満足げだった。


「お前らなら大丈夫だ。頑張れ」


 すべての烽戈ふか印がウィズに注ぎ込まれ、翡翠色ヤーデの空間が消失しつつある。


 いつのまにか開胸していた箇所も元通りになっていて、すでにそこには傷一つ見られない。顔にも健やかな血の気が戻っていた。


 規則正しく眠り続けているウィズの顔を、すでに焦点の合っていない虚ろな目で、それでもしっかりとシエルは見つめた。


「ウィズの烽戈ふか術のセンスはオレ以上だ。きっとどこでも生きていける。……だがな、仲間を知らず、こいつは育った。俺と、妻がそうさせて、しまった」


 か細くなる声でシエルが途切れ途切れに言う。


「最後に、命と、仲間を与えてやりたかった。クオン。嬢ちゃん。ウィズを、たのん……だ……」


 シエルの身体がゆっくりと地面に倒れ込む。


「オレたちの、息子は、もう……大丈夫だ。ソレーユ……」


 そうやって最期に、愛しい人の名を口にして息絶えた。


 極めて長寿な旅人族ノマドが、最期に何を思って逝ったのか、セツナには想像もつかない。


 それでも、こんなにも晴れ晴れとした死に様を見せられてしまっては、むしろ今は祝うべきなのではとすら思わされてしまった。

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