33.秘めたる決意。

 シエルはすでに再暴走を始めていたウィズと戦っていた。


 久遠が近接戦を試みて、セツナがそれを補佐する。シエルとの連携は久遠の判断に委ねる。ウィズを欠いてはいるものの、訓練してきた通りの形を取ることになりそうだ。


「遅かったな」


 シエルの軽口には余裕があったが、すでにあちこちに傷を負っていて苦戦しているのが見て取れる。

 相手を傷つけずやり過ごすのはそれだけ難しいのだ。旅人族ノマドの才児が暴走しているとなればなおさらだ。


「そいつは悪かった。仕方ないから助けてやるよ」


 さっそく久遠を新たな敵と見なしたウィズが、苦しげな雄叫びと共に拳を振るった。


 久遠はそれをすんでのところで躱す。普段のウィズからは考えられない鋭さで、相当量の烽戈ふかが体内を駆けているのが窺える。


烽戈ふか術も体術も間髪なしに放ってくる! 気を抜くな!」


 シエルが叫んだ。言われるまでもなかった。

 新たに編まれようとしていた烽戈ふか印を両断しながら、ウィズの挙動にも注意を払い続ける。


(——やはり格闘を混ぜてくる術士は厄介だ)


 ウィズが放った頭部への蹴りを、反射的に刀身で受けそうになって必死に引っ込めた。ウィズの身体を傷つけるわけにはいかない。


 避けられぬと判断して烽戈ふかを防御に回そうとしたところへ、セツナの羽根が割って入るのが見えた。

 とっさに上体を屈める。重力操作によって蹴りの速度が落ちたことで、何とかやり過ごすに至った。


 相手を傷つけてはいけない戦いがここまで厄介とは思わなかった。

 それでもやり遂げなければならない。


 ただでさえウィズは限界の身体に許容外の烽戈ふかを流し、さらには強大な烽戈ふか術を使い続けているのだ。

 可能な限り損傷の少ない状態で心臓が止まるのを待って、セツナに引き継ぐ必要があった。


 戦闘のさなか、セツナの助けはごく自然に過不足なく行われた。そうやって力を増した久遠でも届かぬ高みにいるシエルと、それでも息の合った連携をこなす。


 ひたすらに没頭する戦闘の中で、一つの隊として戦うことの喜びを全身で感じていた。個があってこその朱桐隊とは、明確に異なる幸福の念だった。

 それが久遠の中で膨らむほど、本来ともにあるべきもう一人の仲間の存在が痛感させられた。


(——帰ってこい)


 目の前で本意でない力を振るう少年へ向けて、心の中で願った。


 ウィズの身体から迸る烽戈ふかが圧力を増していく。終わりの時が近づいているのを久遠は感じた。


 頬に一閃の熱を感じたかと思うと、裂けて血が滴っていた。烽戈ふか術を繰り出すまでもなく、ウィズの全身から溢れ出る烽戈ふか圧そのものが攻撃と化している。


 一際大きな烽戈ふか印が編まれた。あれを発動させてはいけないと本能で感じた。


 すさまじい烽戈ふかを孕んだ光の円環を断つために、久遠はさらなる烽戈ふかを刀身に流し込んだ。耳飾りピアスを外したからこそ可能となる、かつてない烽戈ふかの量に心臓が悲鳴を上げたが、かまわず続けた。


 やがて、あの巨大な烽戈ふか印を断てるであろう烽戈ふかを刀身にまとった。疲労と失血で動かない足は、セツナの羽根がすくい取って進ませてくれた。


「いっしょに帰るぞ……! ウィズ!!」


 渾身の力を込めて、刀を振り下ろした。


 はたして、巨大な烽戈ふかの塊が両断されて光の粒子と化すのを途切れそうになる意識を繋ぎ止めながら見た。

 その向こう側で、理性の光を取り戻した少年の翡翠の瞳から、ひと筋の涙が零れるのを見た。その口元がなにか呟いたが、久遠の耳には届かなかった。


 ウィズの身体が後方へ傾ぎ、どさりと倒れて動かなくなった。


 力を使い果たした久遠もまた、その場に崩れ落ちた。片膝をついて、刀を地面に差してなんとか倒れるのを凌いでいる。


 心臓が爆発しそうなほど脈動していた。胸元を押さえ、必死に呼吸を整えようとしたがままならない。烽戈ふかと血流が全身を圧殺するように駆け巡り、海の底で溺れるような苦しみに必死に耐えた。


「久遠くん!!」


 駆け寄ってきたセツナの声が遠くに聞こえた。


「問題……ない——ッ! ウィズを、診ろっ! はやく……っ!!」


 懸命に言葉をしぼり出すが、ほとんど空気の漏れるような音にしかならなかった。それでも久遠の意図を読み取ってくれたセツナが逡巡したのがわかった。すぐにでも久遠の治療をしたいと思っているのが明らかだった。


 久遠は何とか顔を持ち上げ、霞んでいく視界の中にいるセツナを真っ直ぐに見つめた。セツナもこれをしっかり受け止めた。


 やがて、セツナが決意を込めて頷いた。


「シエルさん、久遠くんをお願いします!」


 こちらも満身創痍の身体をひきずって近づいてきたシエルに告げる。


「まかせろ。……ウィズを頼む」

「はい!」


 身を翻してウィズの元へ走って行くセツナの後ろ姿を見送った久遠がついに限界に達して、刀の柄を手放して地面に倒れ込もうとした。


「大丈夫か?」


 しかし力強い手がその身を支えてくれた。見ると、すぐ近くにシエルの顔があった。


「————ッ」


 お前もはやく行けと告げたかったが、もはや一言も声にならない。心臓の爆音が耳朶を打つばかりで、痛みと苦しみが渦巻いてわけが分からなくなりそうだ。


「ずいぶんと無理をさせてしまったな。まってろ」


 そう言ってシエルの手が久遠の胸元に当てられた。そこへ翡翠ヤーデの円環が浮かんだ。


 異変はすぐに現れた。あれほど身体の中を荒れ狂っていた烽戈ふかが次第に収まっていくのを久遠は感じた。


 治療や回復といった感じではない。異変をきたしていたものが、ただあるべき姿へ帰っていくようだ。


(時間が、巻き戻っている……? しかし、時間に作用する烽戈ふか術をこんな乱暴に使ったら、シエルは——)


 身体が楽になり、鮮明になっていく頭がそんな考えを抱き、はっとなってシエルを見た。


「まさかお前、最初から——!?」


 先ほどまで息をするのがやっとだったとは思えぬほど、はっきりと声が出た。心臓も規則正しい鼓動に戻りつつあったが、今度は違った理由でそれが乱れた。


 本来、神族デウスしか扱えない時間操作の烽戈ふか術。さらに人体に干渉する術となれば、神族ですら救命石や救命領域といった烽戈ふか式による複雑な烽戈ふか印を用いなければ実現できない。


 しかも今シエルが行ったのは、救命式や救命領域のように一瞬の時を戻すものではない。久遠の心臓がウィズと戦う前の穏やかさを取り戻しているのが証拠だった。


 ——命を懸けるくらい烽戈ふかを燃やしたとして、生きた身体を操作するのがせいぜいだな。


 初めて出会って戦ったとき、シエルが口にした言葉が思い出された。


 久遠の心臓を巻き戻したことで、すでにシエルは疲弊しきった顔をしている。息も荒く、冷や汗もすごい。


「……もう動けるな? すまんが、肩を貸してくれ。まだ、ひと仕事残っているからな」


 息も絶え絶えだが、不適な笑みを浮かべて言った。

 普段と変わらぬそのさまが、この瞬間を兼ねてから想定していたことを物語っていた。


「他に方法があるはずだ」


 言いつつ必死に頭を働かせる久遠だが、もちろん別案など浮かばない。

 そもそもシエルが長年をかけて見つけた解答であり、今さら自分がどれだけ考えたところで、どうにもならないことは分かっていた。


 それでも心が諦めることを拒んでいた。いったいいつから、自分の中でこの男が大切な存在になっていたのかと不思議な思いが湧いた。


「これ以外には、ない」


 シエルの口が、別離に通じる断定を告げた。それを受け止めることが、今の久遠にできる最良だと信じるしかなかった。


「生き残ってこその戦いなんだ、シエル」


 ほとんど縋るような抵抗と知りながら、それだけを告げた。


「お前の口からそんな言葉を聞く日が来るとはな」


 困りが顔になったシエルが久遠の頭に手を置く。初めてみるこの男の表情に、久遠は涙が溢れそうになった。


「俺は十分に生きた。あとは息子に託すとするさ。もちろん、お前と嬢ちゃんにもな……。——さあ、行こう」


 もはやシエルの覚悟を邪魔することはできなかった。


 久遠は涙を堪えながら、立つことも困難なシエルの肩を支えて立ち上がる。


 向かう先は、死の淵に立つ少年と、それを救おうと戦っている医者、二人の待つ場所だ。

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